107
晴れ間を広げつつある空が、次第に明るさを取り戻していく。灰色の世界は終わりを迎えた。遅からず、雲はどこかへ流れていってしまうだろう。
凪いでいた大気がゆらりと動いた。
大きな刀の小さな神様が、ひどく緩やかな動作でこちらに向き直っている。私は依然信じられない思いで状況を整理しており、足が地についていない。
「……大丈夫だった?」
桜の花弁を薄めたような色の唇は微かに開いたままで、そこから零れた音は妙におずおずとしたものだった。赤毛の子や眼鏡をかけた神様に対する口調とは、かなり異なっている。
──何より。「大丈夫だった?」とは。
私はこの子に心配されてい──……えっ、あ? ええっ!? 心配されてる? この子私を心配してるの? えっ、これって現実?
長く上の空だった脳みそがようやくシャキッとする。が、動揺は消えやしない。
「あ、うん、平気だよ。大丈夫」
狼狽えないよう気を付け、平静を装うも──。
「怪我とか、ないよね?」
んん!? けっ──怪我の有無まで気にされ、えええええ白昼夢!?
「なっげほっ! ないよ。ない」
どぎまぎするあまり咽せてしまった。物憂げな上目遣いが彼の心配度数を呈しているようで、正視されると落ち着かない。
「ほんとに?」
「ないない。ほら、血が出てるとこもないし、結界も壊れてないでしょ」
左右に体を捻って無傷の証拠を見せつければ、彼は萌黄色の瞳でしげしげとチェックする。そして、私に怪我がないことを確認したのち、ほう、と。表情を和らげ息をついた。
「……良かった」
安堵のこもった声音に心臓がぎゅううと締め付けられる。紛れもないサードインパクトだ。
それはつまり、えーっと、「私が無事で良かった」という意味ですか? ひえっ私の自意識過剰? うぬぼれ? いやでも流れ的にはそうだよね? うわああああああすごくむずむずする。や、優しくない? 優しくない? この子。どうしたのこれ。
「うんうん、ピンピンしてる。……ねえ、いつから見てたの? なんでここに?」
全身を巡るむず痒さを堪え、気になっていたことを聞いてみた。すると、私を見上げているその子は伏目がちになり、ぽつぽつと口をきく。
「国行がどこにも居なくなったから、国俊と一緒に探してた。……やっと見つけたって時、国行、刀を抜こうとしてて」
「あー……」
なるほど。ハナから眼鏡の神様の脅し(脅し?)は露見してたってことか。そりゃ隠そうとしてもだめだわ。
「ねえ、国行に何言われてたの?」
「えー……?」
今度は私が尋ねられるが、即答できずに視線を逸らす。それこそお茶を濁すように。先刻、兄弟喧嘩の火付け役になってしまった身としては、慎重になりたかった。
この子と眼鏡をかけた神様の仲を考えると、あんまり詳しくは言わない方がいいよね。あの刀剣男士もこの子の事が気がかりで私を締め上げに来たんだろうし。今回は伝える部分と伝えない部分をよくよくつき詰めなきゃなあ。
もう仲間割れみたいなのは見たくない。そんなシチュエーションを作り出したくもない。「私(にんげん)」がこの地にいる限り、それは難しいのかもしれないけれど。
「大したことじゃないよ。私がずーっと傘差しっぱにしててね、『雨やんでるでー』って教えてくれた感じ」
雨上がりの空を仰いで言葉を切り、間を置かずに声を出す。自分で言っておいてなんだが、件の付喪神をマネた「雨やんでるでー」は殊の外似ていなかった。
「あとは、ちょっとだけ君の話をしたかな。あの神様、君のこと心配してたみたい」
喋る中で私を脅した刀剣男士との会話を回想する。この子が私と会ってから気を塞いでいるという事柄に、なんとなく引っかかって──。
「……塞ぎ込んでるんだって?」
触れるか触れまいか逡巡し、少しの躊躇いを挟んだ後に聞いてしまった。だって、眼鏡をかけた神様がわざわざ草地の外れまでやって来て刀をちらつかせるくらいなのだ。彼には思い当たる節があったのだろう。
私にはこの子に意地悪をした記憶はない。でも、もしこの子をどこかで傷付けていたとしたら……謝って誤解をときたいじゃん? 身に覚えがなくとも、無意識のうちにヤな事を言ってたり、思い違いになってたりする可能性はあるかもしれない。
「別に、塞ぎ込んでなんか」
小柄な刀剣男士は口ではそう言ったが、見るからに顔は曇っていた。
「そう? だったらいいんだけど……なんか元気なさそうだね」
ちょこっと踏み込んでみると、「そんなこと……」と、頭(かぶり)を振って俯いてしまう彼。
「大丈夫? 何かあった? あ、もしかして私のせいとかだったりする?」
白々しく探りを入れる。さすれば、細い肩がビクリと跳ねた。その反応は私からみて「イエス」だった。
「えっ!? やっぱそうなの!? うわーごめん! 何やった私? 何やらかしてた?」
焦って口速に問うも、明るい灰色の髪のその子は下を向いたまま「違う、違うから」と声を震わせて。下手くそな嘘をつかれたもんだ。
この子のリアクションを見るに、やはり私が下手こいたっぽい。だけど、私はこの子を意図的に打ちのめそうとしたわけじゃあないんだから、なんとか訂正しなければ。むしろ何がいけなかったか教えてくれ。
「いやいやいや、遠慮せず言ってよ! 知らないうちに気に障ることしてたら悪いもん。こういうのはちゃんとしとかないと。私に君を凹ませる気なんてこれっぽっちもないんだし」
慌てているせいか、舌の回りがやけに良い。
一気にまくし立てると、彼は面を上げてぱちぱちと瞬いた。
「……え?」
「私の言動が君にとって嫌なものだったとしても、私にそんなつもりはなかったというか、でも傷付けたんだったら謝りたいというか、うーん……えーと……ごめんね?」
支離滅裂に話し続け、陳謝する。大きな刀の小さな神様は、唇をきゅっと結んだ。
「嫌なことは教えて。もうしないから」
切実に告げるも、彼はなかなか答えなかった。言いにくいのか、そっぽを向いてゆらゆらと体を揺らしている。
「今はっきりさせとかないとまた同じ事が起こっちゃうよ」
齟齬は速やかになくすべきだ。また、再発防止が重要である。そう意気込んで促せば、その子は薄氷を踏んでいるかのような面持ちで、心細げに沈黙を破った。
「……俺の、俺たちのこと、嫌い?」
「えっ?」
質問の解でもなければ、話に繋がりもなく。意表を突かれてただただポカンとしてしまった。
なんだこの子、すごい所を攻めてきたな。
改めて彼の問いかけを受け止め、心臓が大きく脈打つ。なぜそんなことを聞いてきたのだろう。嫌いか、だなんて。しかも確かめるみたいに。
……まさか、私の内側にある負の感情や、神様たちへの苦手意識が分かりやすかった、とか? けどそんな、ちょっと身を引いたくらいで邪険に接した覚えは──あー、少々淡々とはしていたかもしれない。
それでもきちんと隠していたはず。この胸の奥の、汚くてどろどろとした心を。
「んー?」
不思議そうに小首を傾げ、演技しながら尺を稼ぐ。
嫌い? って。……まあねえ、アレがあったからねえ。嫌気はさしたよ。うんざりね。私にとって大ダメージだった。ここに来て一番辛かったもん。
秋のあの日、例の出来事があってから、私は刀剣男士が嫌いになった。心も荒んだ。「あいつらなんか」としょっちゅう思うようになった。何かにつけて彼らを疑い、神経を使うようになって。
──けれど。
今はそれほど「嫌い」でもない。情けが出たのか、彼らの長所を知ったせいなのか。……どちらもあるのだろう。かと言って、「好き」になったわけでも、苦手意識が綺麗に失せたわけでもないが。
さて、これをどう伝えようか。伝えてもいいのだろうか。あまり虚辞を連ねたくはないし、媚を売りたくもない。──傷付けたくも。
思い迷って文を練り、小柄な彼の様子を窺う。くりっとした萌黄の瞳はおどおどとしたままだった。
「や、嫌いじゃないよ。どういう風に付き合っていったらいいのかなーって悩んだりはするけど……」
うん、嘘でもお世辞でもないし、過激にもなってなく、トゲもない。まずまずなんではなかろうか。
「これからすこーしずつ仲良くなっていけたらいいなーって思ってるよ」
干渉しないと約束をした相手にこれはどうかと悩みはしたが、言うだけ言ってみた。怒られないかな、引かれないかな、と、若干の懸念を抱きながら。
だが、それは私の杞憂だったようで。
「ほんと?」
パッと、その子の目つきが変わる。春の野に出る新芽の色をした眼は、鮮やかな輝きを宿していた。
「うん、ほんとに」
宝石のような双眸を見据えて頷くと、彼の口元に微笑みが浮かんだ。それは蕾がふわりと花開くように、スローモーションで私の視界に映る。
「……へへっ」
照れ臭そうな小さな笑い。相好を崩したその子の顔は、青空よりも爽やかで、陽の光よりも柔らかかった。