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見間違いでも幻想でもない。
彼は笑った。私の前で、私に向けて、確かに笑ったのだ。
*
なんだ、笑うと結構可愛いじゃないのさ。
そんな印象を受け、はにかみ笑いをしているその子にぼうっと見入る。ほんのり色づいた頬も、長い睫毛も、垂れた目尻も、温和に弛む口角も、どれをとっても愛らしい。無垢な子供が恥じらう様によく似ていた。
今年の三月からここで働き始めた私と、ずっとこの地に住んでいる彼。かれこれ九ヶ月の付き合いになるが、笑顔を見たのは初めてである。
その微笑みに喫驚するも、それ以上に──毒気を抜かれた。びっくりし過ぎて思考が馬鹿になっちゃったのかもしれない。
小さな神様は尚も顔を綻ばせており、ああ、かわいいなあ。と、ひたすらにそう思う。
だもんで、何が地雷だったのかとか、私の何がいけなかったのかとか、そんな事を訊くのも忘れ、私はぼさっとしたまま明るい灰色の髪の子を眺めていた。彼がきょとんとしてしまうまで。
「あ、ごめん。ぼけーっとしてた。はは、私も歳かなあ」
我に返った私が冗談めかしてその場を取り繕えば、その子はまた笑い、楽しそうに声を漏らした。
今までにはない姿を目の当たりにして、心が「可愛い」に制圧される。夢うつつに舞い戻ったせいか「あー、かわいい」しか出てこず、まともに考えることができない。
これではいかんと自分に鞭打ち、気持ちを鎮めるためにも離れへ戻ることにすると、なんと彼は「送る」と言い出した。送られるような距離でもなければ危ない道でもないので断るも、なんやかんやと引いてくれない。
「……だめ?」
八の字にした眉に、しおらしい目で見上げられてしまえば、折れるしかなく。
結局、赤や黄色の落ち葉が浮かぶ池の前まで付き添ってもらってしまった。道中はまあその、穏やかーに世間話なんぞをして……ちょっとそわそわしました。だってそうでしょ。まさかあんな風に並んで歩くなんて(それも普通に会話をしながら)、想像もしてなかったんだもん。天変地異の前触れかと身構えそうになってしまうよ。
長いようで短い、短いようで長い道程。歩き続けて境界線に着き、別れ際に「またね」と手を振れば、あの子も手を振り返してくれた。これがもうね、照れてるのか控えめにちろちろ手を振るもんでね、かっわいいのなんの。ツンケンしてた頃とのギャップがあり過ぎて、声にならない声で「は?」と、喉の奥で力んでしまった。いや、可愛さにブチ切れてもしょうがないんだけど。
そんなこんなで我が家に戻って一息つく。ガス抜きに散歩へ繰り出したはずなのに、イベントが重なり余計気疲れしてしまった。最後の最後でその疲れはぶっ飛んだが、私はあの子に「どこで地雷を踏んだのか」も、「なぜ『自分たちを嫌いか』と尋ねてきたのか」も聞けてない。……あの子が可愛すぎたのが悪いんだ。や、人の(神様か)せいにしちゃだめだよね。また次の機会にしよう。
気を取り直して畳を掃いたり、夕飯のメニューを考えたりする。けれど、どうにも身が入らない。
あの子の笑顔が色褪せ、徐々に人心地がついてくると、一日の出来事が走馬灯のように流れ込んでくるのだ。そしてそれは、私に沈思黙考をさせた。
銀行印を返してくれた付喪神。彼の申し出は厚意によるものだったのだろうか。それとも何か裏があったのだろうか。
尻を叩けと言ってきた付喪神。彼の突拍子もない頼みは嗜好的なものだったのだろうか。それとも構って欲しかっただけなのだろうか。
局部を見せてきた付喪神。彼のチラリズムは私への嫌がらせだったのだろうか。それとも単にからかうためのものだったのだろうか。
非常に濃い、午前中の絡み。……いや、午後だって負けてはいない。
人妻かどうか確認してきた付喪神。あれはなんの意図で? 神様たちの間では、人妻であるか否かで左右する「何か」があるのかもしれない。
自分たちに何をさせるつもりかと問いかけてきた付喪神。兄弟や仲間との斬り合い、さぞ辛かっただろう。過去を変えることはできないが、だからこそ、今は心安らかに過ごして欲しい。
消された子を想って胸を痛めていた付喪神。欠けた兄弟を諦めきれない気持ちはよく分かる。私にもっとできることはないだろうか。
……あの小さな子たちは、兄に隠れて私とコンタクトを取った。デメリットもあっただろうに、それはどうして? 見つかった時のリスクを考慮したうえで情報収集することを選んだのだろうか。
弟を心配し、私を憎もうとしているお兄さん。ひどく懊悩していた彼は、あの後弟たちと仲直りできたのだろうか。仲違いしたままだったら?
──それはすごく嫌だ。
水色の髪の神様と弟たち然り、眼鏡をかけた神様と明るい灰色の髪の子然り、固い絆で結ばれた彼らの仲へひびを入れてしまいたくない。
自分が原因で諍いが起きるなんて気持ちの良いことではないし、これは勝手な私の思いなんだけど、辛い時期をみんなで乗り越えてきたその「繋がり」を揺るがしたくないのだ。
「私」という異分子が彼らの結びつきを不安定にさせるくらいなら、いっそ──。
「はあ……」
無限にループする悩み事に疲弊し、溜息を吐いてしまう。掃除もなあなあ、献立も決まらない。気を紛らわそうと農業雑誌を開いていたが、ページを捲る手はいつからか止まっていた。どの辺まで読んでたんだっけ、と文字を辿るも、すぐに焦点はぼやけ、ひとりでに脳が動き出す。
眼鏡をかけた付喪神。白い鞘から覗いた刃は切れ味が良さそうだった。あれは本当に単なる脅しだったのだろうか。あの子が通りかからなければ、私はズバッと斬られていたのではないだろうか。
初めて笑顔を見せてくれた大きな刀の小さな付喪神。彼はどんな思いで仲間の前に立ちはだかったのだろうか。私を守ろうとした理由は? 私の前で笑うに至った心情は?
一つも答えは出ないというのに、立て続けにわく疑問。一個一個きっちり片付けたくとも、あっちからもこっちからもクエスチョンマークが飛んできて、もつれ合うばかりだった。スクランブル交差点で通行人の大渋滞が発生しているみたい。
本当に色々な事があった。夥しいほど。
その場その場で処理したつもりではいたが、今こんなにも悶々としている。心は追いついてなかったらしい。
自分はここまで不器用だったかな、と、六畳間で独り落ち込む。昔はもっとうまくやれていたはずだ。日毎夜毎悩むことはそうそうなかった。
私は何をどうしたらいいのだろう。どうしたいのだろう。
かつてお気楽だったスカスカの頭には、現在重い物がこれでもかと詰められていて。
「あーっ、もうやだー!」
そろそろパンクしそうだった。