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「今日の夜はこんちゃんの好きなおいなりさんにするから、早く帰ってきてね」
「おお、稲荷寿司ですか……! 幸甚に存じます」
「へへっ、頑張って作る。いってらっしゃい。気をつけて」
「はい!」
景気のいい声と同時に、白い光が虚空に現れる。私に向かって一礼した小さな狐は、吸い込まれるようにゲートに消えた。
……寂しいなあ。
何度見送ってもこの瞬間の孤独感はなくならない。立ち直りは早くなったけど。
「行ったな」
「そうだね」
「寂しいのか?」
「そりゃあね」
「おっ、そ、そうか。……あー。こ、こんのすけの代わりにはなれねえけど、……こっちで話でもするか?」
「えー? いや、いいよ。畑やらなきゃいけないし。でもありがと。優しいね」
「や、やさっ!? げほっ!」
思いっ切り咳き込んだ彼は、黒い獣の毛皮を肩に乗せている刀剣男士だ。金髪に銀色の瞳。編み込まれた髪を縛るゴムの白いポンポンが可愛らしい。
ちなみに、槍の神様はもういない。羞恥心が破裂したのか、こんのすけにいじられて間もなく、小走りで御殿に帰っていっていた。申し訳ない。うちの管狐が悪い事をしたなあ。
咽せた付喪神の呼吸が整うのを待って、さよならをする。その刀は面映そうに、「気が向いたらいつでも来いよ」と言ってくれた。……調子が狂う。優しくされると。良い子だなあって思わされる。
胸の内が何となくもじもじうずうずするも、「畑に行くぞ!」と自分に発破をかけ、ずんずん歩く。行き掛けに太鼓橋から眺めた池は、かなり濁っていた。滝のような雨に一晩中殴りつけられたせいだろう。池底の泥が巻き上げられ、浮遊しているのだ。波紋で錦鯉の居場所は分かるが、あの鮮やかな色は見えない。
こんなに汚れてかわいそうに。あれだけ透明に近かった水が、緑がかった茶色に成り果てているなんて。
当然、池の底は見通せない。鯉たちと意思疎通はできないけれど、どうせ泳ぐなら澄んだ水の中の方がいいに決まってる。
──あ、そうだ。
ぴんと閃き、欄干に身を乗り出す。濁りに濁ったそこへ、目には見えない自分の力を流し込んでみた。御殿や離れといった建築物はこれで修復できたし、黒く澱んだ穢れも消せたため、池の混濁も取れちゃわないかなあと考えて。
……。
……。
んー、だめか。ま、そうだよね。残念だな。寝れば回復するとはいえ、無駄遣いしてしまった。
「ごめん、きれいにならなかったや」
揺れる水面に謝ると、大人しかった鯉たちが急にばしゃばしゃと騒ぎ始める。
「はいはい、ごめんってば」
会話などできないというのに、抗議されているように感じて再度侘びた。濁り水の下、錦鯉はまだ暴れている。
もう、どうしたの、この子たち。
水飛沫に目を凝らせば、背後で何かの気配がした。卒然と誰かに呼びとめられた気がしたのだ。私しか居ないのに。
「……?」
幽霊や怪奇現象を調べるが如く、こわごわと後ろを向く。しかし、人の形はない。
それもそのはず。ここは私の張った結界の中なので、刀剣男士が入り込んでいるわけがなかった。見張りの付喪神は縁側に腰掛けており、何振りかがぶらついているのは境界線の外。こんのすけは政府の中枢機関に出勤しているし、何かがいるとすれば獣や鳥といった野生動物くらいの──。
肌寒い大気に生温かい気流が生じる。
「なに? だれ?」
──なんだろう。わかんない。わかんないけど、何かいる。
構築しかけの思索が靄に包まれ、頭の回転が鈍くなった。鯉はずっと跳ねており、「何か」の気配も途絶えない。
生まれてこの方、お化けや妖怪、霊などを見たこともなければ、サイキックでもない私。なのに、姿無きものを、オカルトチックで神秘的な何かを智覚している。太鼓橋の架かる大きな池。御殿側ではなく、森に面した方向に。
そこへ見入るも、視界に映るのはしとどに濡れた雨後の山水のみ。されど、目を離せなかった。
ブーッ、ブーッ……。
作務衣のポケットがやにわに震え、電子音が姦しく喚きだす。私は夢から覚めたかのようにハッとし、携帯を片手に取った。ディスプレイの表示は「斉藤さん」だ。
「──はい」
「斉藤です。急に連絡をしてしまい申し訳ありません。今、お時間ありますか?」
スピーカーから伝搬してきた怱々たる声色。……普段と違う。
「はい、大丈夫です。どうしたんですか?」
「どうしたんですか、は、こちらの台詞です。そちらで何か起こっていませんか。あなた、何かしていませんか」
「え? いえ、特に……」
反射的に否認し、「あっそういえば変な気配があるわ」と思い直す。それに、何もしてないことはない。私はついさっき、池になみなみと力を注いでいた。
言い改めようと口を動かす。だが、斉藤さんの方が先だった。
「そう、ですか。ではなぜ、これは──」
続かない言葉、後を引く吐息のような音。電話の向こうで、彼が驚いているであろうことが窺えた。
「斉藤さん、斉藤さん? どうしたんですか、何かあったんですか?」
私の知らないところで事件でも起きていたのだろうか。御殿で? いや、それにしては御殿も特別騒がしくはないし。
「えっ、斉藤さん? 聞こえてます?」
橋の上で独り、おろおろする。斉藤さんはやはり普通ではなく、電話口は静かだった。息遣いすら拾えない。しかし、通話状態は保たれていて。
──耳に押し当てていた携帯から、幾許もなく声がした。
「あなたの本丸に反応が現れました。消失していたはずの刀剣男士……秋田藤四郎のものです」