雪解け - なんとはなしに

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 体中が熱い。池の水で凍えていた足もカーっと火照っている。動脈から毛細血管まで流れる血液が、隅々にわたって沸騰しているかのようだ。
「それ」に触れた指先はずくずくと疼き、左胸はどくんどくんと波打っている。キーンという高音の耳鳴り。くらりと揺れたのは頭だ。眼路の縁が白み、僅かに眩暈がした。
 十本の指を「それ」に這わせ、羽毛で撫でるみたいにして恐る恐る形を確かめる。堅かった。長かった。厚みのある平たい「それ」は二十センチと少しほどで、全体的にざらついており、所々に窪みや段差がある。お世辞にも手触りが良いとはいえない。
 あの子がどのような容態でここに居るのか分からず、ちょっとの力でどうにかなってしまわないかが怖くて……私は「それ」を掴めなかった。あんなにも探し求めていたというのに。
 ぬめる沈泥に両手を差し入れ、下からすくうように「それ」を持ち上げる。亀吉の歩くスピードよりも遅い速さで、丁重に、丁重に──精巧なガラス細工や、か弱き鳥の雛を扱うのと同じくらい、いや、もっと。とにかく細心の注意を払った。
 屈んでいた腰が戻るにつれ、水漬(みず)いていた腕が浮上してゆく。どぶ色に濁った池から現れた私の両手のひらに乗っていたのは、刃渡りの短い刀だった。
 赤錆びた刀身、欠けた鍔、変色した柄。刃なんかはもうぼろぼろで、切っ先は損失しており、あちこちが凸凹だ。ひときわ目についたのは、刀の真ん中に入った大きなひび。
 ……深く伸びた裂け目だった。こうしている間にも真っ二つに折れてしまいそうで、私の手の中でばらばらになってしまいそうで、焦燥感に駆られる。見つけた喜びよりも、恐れと焦りの方が濃かった。
 ああ、どうしよう。折れてしまったら、壊れてしまったら。せっかく発見できたのに、この子が仲間や兄弟に「生きて」会えなかったら意味がないじゃないか。
 鼻の奥がツンとする。目が瞼が熱を持ち、涙が出そうになった。
 そもそもこの子に息はあるのだろうか。こんなに……こんなに傷だらけで、半壊していて……もう手遅れなんじゃ──。
「……うっ」
 しゃくりあげた弾みで押し拉がれたような声が漏れる。頬を伝ったのは、眦をぽろりと溢れた雫。
 すごく悲しくて、怖くて、辛かった。手のひらにあるその子がとてつもなく重篤に見え、胸が抉られてしょうがない。どうしたらいいのか分からなくなり、どうにもならないんじゃないかと、不安でたまらなくて。
 ……でも、泣いてる暇なんかない。ここで棒立ちしてても何にもならないだろう。私は馬鹿か。前を向け!
 恐怖も嘆きも踏んづけ、己を叱咤し顔を上げる。離れに帰って斉藤さんに話をしよう。まだできることがあるかもしれない。
 緩慢に体を旋転し、もと来た道をすり足でのそのそ戻る。この子に震動が伝わらないよう、極力重心を一定にして。命綱なしで綱渡りをしているような心境だ。周りの目から見た今の私は、「ぎこちない動きをしているロボット」といったところだろう。
 鯉たちに送り届けられて池をあがる。その拍子に履き物がスポっともげ落ちた。水の重みで攫われた長靴を取り戻すのは難しそうで、「後でいいや」と切り捨てる。即断だ。
 もこもこでふわふわだった靴下はびっしょびしょ。水分で重量をつけたそれは肌にぺたりと張り付き、アンクルウェイトになっていた。靴に守られていない足裏を、砂利や草、泥濘んだ地面の触感が攻めてくる。
 この形のまま運ばないと。斉藤さんに報告しないと。
 用心して、けれど速やかに。走れないのが非常に歯痒い。一秒でも早く戻りたい私はロボットを卒業し、ひょっとこみたいになっていた。不格好な足取りになっていたと思うが、そんなことを気にするゆとりなどなく。池の前で何か言っているお向かいさんにも対応できなかった。
 早く、早く──ああ、やっと離れだ。
 泥だらけの足先で力任せに戸を開け、土間に入る。上がり框の端にこんのすけの足拭き用タオルがあったため、ひとまずそこへ「その子」を置いた。清水の舞台から飛び降りるような心持ちだった。刀を降ろすだけなのに、ぱきっと割れてしまわないか心配で心配で。
 濁り水に浸かっていた部位が泥臭い。体温が下がったのか、寒くなってきた。
 色の変わった作務衣の袖をまくり、台所の手ぬぐいで腕や手を大雑把に拭く。ぐしょぐしょの靴下も脱ぎ捨てたかったけど、それより先に斉藤さんだ。「その子」の隣、上がり框に腰掛け、ポケットから通話状態の携帯を抜き取った。
「斉藤さん、斉藤さん、ありました! 刀、池に! でもぼろぼろで、あの……な、なんとかなりますかね? 死んでないですよね?」
 携帯に齧りつかんばかりの勢いでごちゃごちゃ話す私へ、担当官は「大丈夫です」と何遍も言い、写真を注文してきた。
「しゃ、写真……写真」
 もはや半狂乱。一度電話を切り、大急ぎでカメラを起動。連写はするわメールも二重送信するわ、我ながら慌てっぷりがひどかった。
 待ち受け画面とにらめっこしたり、刀が砕けていないかを見澄ましたりすること数分、手中の携帯が震える。
「はいっ」
 ワンコール終わるか終わらないかで電話に出ると、「斉藤です」の一声が。
「写真、ありがとうございました。紛れもなく、その刀剣は秋田藤四郎です。そちらの本丸で受肉し、前任に消されたとされていた個体。……驚きました。まさか折れていなかったとは」
「治せますか? 治りますか? 私、わた」
「落ち着いてください。落ち着いて」
「だって、ぼろぼろでバキバキで」
「大丈夫ですから。さあ、落ち着いて。大きく息を吸ってください。はい、どうぞ」
 患者を宥める医者、園児をあやす先生──そんな風に話す斉藤さん。泣きべそかきかけの私とは真逆である。
 言われるがままにすれば、今度は「はい、吐いて」と掛け声がかかった。吸って吐いてを二、三度させられ、不思議と私は静かになる。その頃合いを見計らっていたのか、「本題に戻りましょう」と、電話の向こうで男が言った。
「──治せますよ。手入れ部屋で式を呼び、手伝い札を使えばすぐです。お急ぎならそこで治しますか。破壊寸前の重傷といえど、極ではない短刀の一口。あなたの力と資源があれば十分です」
 忌々しいくらい涼し気な語調だったが、それを聞いて総身から力が抜ける。弛んだ背筋がへなへなと丸くなっていった。
 良かった。治るんだ。死んでないんだ。壊れてないんだ。……治せるんだ。
「さて、どうしましょう。やりますか?」
 は? と、出そうになった声を引っ込める。
 失礼ながら、なんてアホな質問なんだと思った。いいや、正しくは「なんてアホな質問をしてくるんだこの男は」、だ。尋ねなくても解っているだろう。質問ではなく確認なのかもしれないけれど、それにしたってアホらしい。回答なんか決まりきっているというのに。
「やりますよ! やるしかないです!」
 これでもかというほど圧をかける。私には「やる」一択しかない。
「ふふ、気炎万丈ですねえ」
 息巻く私へ、斉藤さんは小さく笑った。

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