雪解け - なんとはなしに

08


「やめてよ」
 驚きの一部が不快感に変わり、拒絶を放つ。語気は少々強めだった。けれど、付喪神は離れない。説明もしてくれない。
 なんか、嫌だ。悪いことなどしてないはずなのに、なぜこんな有様に? どうしてこの刀剣男士は「どいて」と言っても退かない? そもそも、こいつは何がしたいんだ。何が目的なんだ。もう、訳が分からない。
 じわりと怒りが滲む。とはいっても冷静さを失うほどではなかった。まずはここから脱出しないと。
 横転していた体を仰向けにし、硬い畳へ背を預ける。さっきよりは抵抗しやすくなった。
「ねえ、どいて」
 両手を突き出して結界越しに彼を押す。少し手応えがあったように感じたが、鍛え上げられた身躯に押し返されてしまった。だめだ。力じゃ負ける。でも諦めない。
 再度チャレンジ。パワー全開、全力だ。マナーがどうの言ってられんので足も使う。右手、左手、右足のコンボを喰らえ。
「んんー!」
 食いしばった歯の間を苦悶の声が抜けてゆく。力むあまり、背中が弓なりに反れた。これで無理なら助けを呼ぼう。こういう時に限って近くに誰もいないとか、悲劇だ。不運でしかない。十二星座占い最下位。
 パーにしてある掌には、風のようなものが頻回に当たっていた。ほんと、あんまり考えたくないんだけど、たぶん神様の鼻息。奴の顔の位置的に、私の手を嗅いでいるのだろう。
「やーだーっ」
 ……鼻息。鼻息!
 手先に、指の腹に、手掌にかかるそれはこそばゆく、ぞわぞわした。逃れようと腕を一旦引っ込めれば、刀剣男士も追尾してくる。
 うわ、ちっか!
 至近距離にぎょっとして両手ガードを再起動。したらば、またくんくんされる。間合いをとるか鼻息をとるか……どっちも嫌なんですけど! 結界広げてみる? んー、力の調整できずに弾き飛ばしちゃわないかな? 事故って怪我させたくはないよね。
「やーめてってば!」
 にっちもさっちもいかない。あんなに居た付喪神たちはどこで何をしてるんだ。誰か一振りくらい通りかかってもいいじゃないか。遠くで声はしてるのにな。やっぱりSOSを発信すべき? ポケットの携帯に手は届くけど、匂いを嗅がれてるくらいで斉藤さんに電話するのは──殺されようとしてるわけじゃないもんねえ。……嫌味言われそう。
「どーいーてー」
 右を向いたり左を向いたり、じたばたして抜け出そうとしていると、視野の端に脚が出現した。白く細い裸足は畳の目に沿って動いている。狐のような刀剣男士と格闘しながら見れば、黒髪を高く結った神様が歩いてきていた。彼は華奢で、黒と赤の二色でまとめられた和服を着ている。袴や着物ではない。平安とか、もっと昔にありそうな。
 いや、今は服なんぞどうでもいい。願ってもない天の助け。救いを求めないと。
「あーっ、助けてえー」
 情けない。ものすごく情けない声が出た。おそらく素も出た。
 切実な救援要請。だが、ああ、無情。彼は救世主になってくれなかった。
「ほう。狐が人の子にじゃれておる。楽しそうだな」
「えっ、はあ!? ちがっ」
 ちょっと、助けてって言ってんでしょ! なーにのんびり見下ろしてんのあんた! この神様のこれを今すぐやめさせ、うわあああ鼻息がー……ん? 止まった?
 手や指に吹き付けられていたそれがピタッと止む。結界への圧力も弱まり、こやつがのしかかりを緩めたことが分かった。恐る恐る真上を仰ぐと、緋色の瞳が瞬いていて。
「芳醇なるこの香り……いったい何の匂いでしょう」
 独り言、それとも私への問いかけなのか。何にせよ、彼がくんかくんかを中止したので、安堵する。千載一遇のチャンスだというのに、精神が弛緩したため避難し忘れていた。
「匂い?」
「ええ」
 お、やっと意思疎通ができた。手ではなく、ちゃんと「私」を見てくれている。
「匂うの?」
「はい、あなた様の指先や掌から強く匂いまする」
「えー?」
 臭うって? うーん。
 畳に寝転がったまま指や手を嗅いでみる。ほんのり生臭かった。昼ご飯を作る際、鶏肉や油揚げを触ったので、それだろう。特に残っているのは、油揚げの香りだ。油抜きの後、素手でぎゅっと固く絞ったからか。
 ……確かに匂う。でも、そうキツくはない。この神様は気になるのかな?
「あ、生臭いね。お昼で鶏肉とか油揚げを」
「油揚げ!」
 鼓膜がどんと叩かれる。突然の大音量。私が最後まで言い終わらないうちに、付喪神は緋色の目を見張った。
「おお、油揚げ。話には聞いていたが、嗅ぐのは初めてじゃ。かような匂いとは……」
 感慨深げに声を漏らした彼は、驚愕の色に染めていた形相をふわりと綻ばせた。
「なんと素晴らしい」
 うっすら赤らんだ頬が、微笑を湛えた顔が、すっと下りてくる。「げっ、まさか」と思うなり、刀剣男士の鼻頭が結界にくっついた。くんくんの再開である。一心不乱に鼻をひくつかせるその姿は、犬さながら。
 鼻息はぞわっとする。近いのも嫌。しかし、原因が分かったせいか心に多少ゆとりがあった。
 油揚げに反応するって、こんのすけみたい。容姿も狐っぽいし、そこに立ってる神様も「狐」って言ってたし、この刀剣男士は狐に縁のある刀なのかな?
 思案しつつ、暴れずに彼を観察する。匂いの元も、彼が何を嗅ぎ当てようとしていたのかも判明して良かった。
 ……。
 ……で、これはいつまで続くのだろう。もう勘弁してくれ。目と鼻の先で誰かに、それも家族や友人でもない男──の形をした付喪神にくんくんされるとか、気持ちの良いものではない。寿命が縮む。
「こ、小狐丸さん?」
 突然、泡を食ったような男声が耳の穴に潜ってきた。目玉のみをそちらにやると、部屋の入口に烏帽子を着けた刀剣男士が。
「石切か。なに、香気に惑わされた小狐の戯れよ。『狐に油揚げ』とはよく言ったものだ」
 くつくつと笑う黒髪の神様。彼はえらく可笑しそうにしているけれど、笑い事ではない。戯れにしては刺激が強すぎる。
 もー、ずーっと楽しそうに見物してくれちゃって。助け舟をよこせ!
 恨みがましく睨みそうになるも、踏みとどまった。あの付喪神はもういい。一刻も早く現状を打破しなければ。ここは新たな登場神物に懸けてみよう。
「ねえ、助けてよー」
 ほとほと困り果てています。そんなメッセージを込めて切に頼む。思いが通じたのか、烏帽子を被った刀剣男士は眉をハの字にして部屋の敷居を跨いだ。
「小狐丸さん、小狐丸さん。何があってそうなったのかは知らないけど、その辺でやめておいた方がいいんじゃないかな。困っているみたいだよ」
 はあー! 話が分かる! そうなんだよ。うわあ、ありがたい。
 ついに現れた救済者。神だけに拝みたくなった。これでようやく、無限くんくんから解放される。と、喜んだ私だったが。
 私を捕獲している神様がうっとりと目を瞑り、唇を「あ」の字に開いた。音は産まれない。犬歯の生えた暗い口内に赤が蠢く。伸びてきたのは、ぬらついた鮮やかな舌。
 息をつく間もなく、下から上にべろりと舐められた。一コマ一コマが写真のように脳に刻まれる。時間にして三秒もない動きだったが、とても緩やかに見えた。……なまめかしい。
 ぶわっと鳥肌が立つ。舌が這ったのは結界だというのに、自分の手が舐められたような感覚がして。
「ぎゃーっ!」
 私は理性を捨て、女子らしからぬ絶叫をぶちかましてしまったのである。腹の底から。

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