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肌をくすぐりながら通り過ぎる微風。目の前から消えたその子が稲妻の如く忽然と現れる。物音もなければ、瞬きする間もなかった。体がトンと押されたような、足元がふわっと浮いたような感じがして、気付けば背やお尻に冷たい感触があり。見える景色も変わっていた。
入り口が遠のいているってことは、今私、部屋の奥に居る……? じゃあ、真後ろの固いものは壁?
何が何やらてんで理解できなかった。私は後ずさりなどしていない。体が押された、足が浮いたといっても「気がした」くらいで、実際に自分が動いたという認識は皆無だ。
「──よお」
私を包む透明な結界のすぐ外で、薄い唇が弧を描く。喉仏のない平らなそこから発された声は、耳の底にずんとくるほどに低い。
黒髪に覆われた丸い頭、そして眉目秀麗な白い顔。さっきまで薬箪笥の正面に立っていたはずの彼は、寸秒もしないうちに目前に来ていた。まるで瞬間移動である。
「ただの『綺麗な男の子』にはできねえよなあ。こんな事」
浅紫の瞳が妖しく笑う。私を見上げるその目つき……顔立ちは子供なのに、謎めいた色気があった。かつ、眼光は精悍としていて、少年の無垢さや脆さはない。
「え、あ」
何がどうなっているのか呑み込めてない私は、どもりながら周辺を見回した。後ろに壁、横に大きな箪笥、前に付喪神。持ち上げられた彼の片腕が、直線となって壁に伸びている。黒い手袋をはめた手は、べたりとそこに張り付いていた。
んん? これ、これは……壁ドン? 「どん!」って音はしてないけど、構図が……。
「なんだ。抵抗しないのか? ……ま、逃がすつもりはないけどな」
前半は呆れたような、つまらなさそうな声音で。後半は獲物を狙う獰猛な鷹のように。この子は不敵な笑みを口に飾ったまま、もう一方の腕をゆらりともたげる。肩から上腕にかけてを守る鎧が、鈍く無骨な音を鳴らした。彼の手は、腕は、迷うことなく壁へと向かい、私は捕獲される。「逃がすつもりはない」という言葉通りに。
右腕と左腕に挟まれ、圧迫感に肺が詰まりそうになる。小さな手と細い腕で造られたのは、堅牢な檻だった。
結界に触れるか触れないかの間隔。額の真ん中より少し左で分けられた黒い前髪が、さらりと揺れる。彼の上体はこちらへじりじりと寄せられていた。
──何をされるかわからない。
いきなり過ぎて動くに動けず、棒立ち状態で硬直していた私だったが、檻の中で心持ち仰け反ってみる。やっと身体が動いたというのに、後面にある砂壁のせいで退却もままならない。
成り行きをこわごわ見守っていると、私に注がれていた視線がパッと逸れた。背後を探るような動作につられ、私も部屋の入り口の方を見る。けれど、誰も居なければ何もない。それでも彼はじっと神経を研ぎ澄まし、ややあって足音が聞こえてきた。
「……信濃か」
まだ姿がないにもかかわらず、この子はどの神様が歩いているのか察知したようだ。さして特徴のある足音ではないと思うが、この子の耳が良いのか、刀剣男士に仲間の出す音を聞き分ける能力があるのか……。軽めの足音だな、子供の形の付喪神かな、というのは私にも判別できたけど。
「残念。終いだな」
浅紫の目が私に移り、彼はふ、と息を吐く。重みのない足音が大きく明瞭になってゆき、そして、鮮やかな赤紅色がひょっこりと現れた。
「薬研、遅──うわ、何やってるの?」
左の指先に金属の爪を付けている、短刀の付喪神。私を檻に拘禁している彼の兄弟のうちの一振りだ。橙と浅葱の二色を灯す瞳が、鈴のように瞠られていた。
「見て分かるだろ。よろしくやってるのさ」
黒髪の子はイイ声で飄々と言ってのけ、おでこを結界にこつんと当てた。檻の材料である二本の腕は解かれない。
「よろしくって。まさかとは思うけど、悪いことしてたんじゃないよね」
胡乱げに眉を顰めた赤紅色の髪の子が入室してくる。壁際でひと塊になった私たちの元へ歩を運んだ彼は、詰るみたいにして目角を立てていた。
「怒るな怒るな。俺っちは悪さなんか何もしてない。なあ?」
私に同意を求めつつ顔を上げ、わざとらしく首を傾げる黒髪の刀剣男士。
悪さ。……「悪さ」ねえ。痛めつけられてもないし、罵声を浴びせられてもないんだけど、何もされてないってのはちょっと違うような。だって、この子が何かしたから私はこうなってるんでしょ? 体術なのか神の御力なのか魔法なのか分かんないけどさあ。
うーん、これはなんと答えればいいんだろう。
「えー……」
微妙なトーンの声が出た。赤紅色の髪の子は私と黒髪の子を交互に注視し、瞳に孕む疑いの色をいよいよ濃くさせた。
「やーげーん?」
批判に尖る口。檻の一部となっている二の腕が掴まれる。彼がこの子を引き離してくれるかな、そうしてくれたらいいな、と楽観的に思っていたら。
「おい信濃。居心地良さそうだぜ? この懐」
陶磁器のような頬が結界にぺたりとくっつく。ちょうど私の胸元辺りだ。肌がぞわぞわし、肩に力が入った私へ、神様は追い打ちをかけてきた。
上へ下へと、なぞるように擦り付けられる左頬。いわゆる頬擦りだったが、こんのすけのそれとは別物で。ぞわぞわではなく、ゾクゾクした。
なんという危ないほっぺすりすり。あどけなさの欠片もないじゃないか。大の男でもこんな、こんな──。
「ずるい! 抜け駆けしないでよ」
結界に密着していた付喪神が、赤紅色の髪の子によって剥がされた。檻は壊れ、粟立っていた毛穴が閉じていく。
「おっと。荒っぽいなあ」
憤ったりはせず、落ち着き払って袖の皺を直す付喪神。顰めっ面の兄弟が何か言いたそうにしているも、彼が話しかけた相手は私であった。
「っつー訳だ。俺も兄弟も、他の短刀も、あんたが考えてるような『男の子』じゃない。可愛がってくれるのは嬉しいが、過保護にするのはやめてくれ」
真摯な想いが胸に突き刺さる。そうか、この子は解らせたかったのか。体型が子供でも、自分たちは「神」なんだって。それで人間離れした技をかけてきたんだ。子供扱いしないように、って私なりに気をつけていたつもりだったけど、だめだったんだな。これはまた反省しないと。
「うん」
緊張と申し訳なさとで声が上擦る。黒髪の彼は引き締まった表情をしていた。
「分かってくれたならいいさ」
真面目な顔が一転して花開く。
「俺っちは薬研藤四郎。兄弟ともども、よろしく頼むぜ。仲良くやろうや」
男らしい言い回しに、気っ風の良い笑顔。浅紫の眼は屈託なく煌めいていた。