雪解け - なんとはなしに

21*


 夕闇に沈むその地。仄暗い御殿の中を、人間がひとり、歩き回っている。彼女のポケットに再び収まった時計は、五時十二分の時を刻んでいた。
「今度こそは」という本日何度目かになる思いを抱いた彼女の意思は強い。もう誰にも捕まることのないよう、刀剣男士のいない、もしくは少ないルートを選択し、遠回りをしながら足早に廊下を進んでいた。
 なんだかんだと屋内に留まり続けた女はまだ知らないが、空の色は微かな紅が掛かった淡い紫になっている。夕暮れの橙や茜はない。太陽は地平線の彼方に落ちていた。日の入りから一時間も経っていないとはいえ、審神者がこちらへ上がり込んだ頃より確実に光度は低い。黄昏時だ。
 物音を出さぬよう忍び足で縁側を目指す彼女の目に、人影が映った。何メートルも先で交差する廊下、その曲がり角をちょうど越えたのは、兄にお遣いを頼まれていた小夜左文字だった。
 魔法に掛けられたようにして、人間の下肢が動かなくなる。短刀もまた、足を止めた。長い廊下の直線上、一人と一振りは互いを見る。夜陰で顔こそ分からなかったが、彼女も彼も相手が「誰」であるのか察した。
「……あ」
 乾いた大地へ雨が一滴落ちたように、女の唇から音が降る。
「青い髪の子」だ。体躯や背丈、頭髪の形といった影の輪郭からそう推定した審神者は、自分が刀剣男士を避けているのも忘れ、短刀に手を振った。わざわざ葛籠を片手に持ち直して。
 彼女が小夜左文字に会うのは久方ぶりである。かつてなら二日に一度は目にしていたというのに、ここ二ヶ月はさっぱりだった。女と短刀が最後に顔を合わせたのは、全刀剣の手入れが成された日のこと。
 久しぶりだな。元気してたかな。まるで旧友と邂逅したかの如く、審神者は懐古の念を沸々と湧かせた。
『生傷ひとつとなく、調子が悪くない状態を『元気』だというのならば、元気なのでしょうね』
 そこへ再生される、淡々とした声。彼女の心に火を灯した奇妙な懐かしさがふっと翳る。
 過日、左文字派の短刀についてそのように表現したのは、宗三左文字であった。含みのあるそれを思い起こしたがため、女は胸に不安を過ぎらせる。小夜左文字が「元気」かどうか、無性に気にかかった。
 審神者は口を開き発声の準備をする。「久しぶり。元気?」と、言おうとした彼女だったが、文字が声になる前に、付喪神がもと来た道を引き返し始めた。
 薄べったい短身が廊下の角に消える。聞こえるか聞こえないかの足音を残響させているのは、小さな素足。
「待って」
 衝動的に呼んだ女の体が前へと動いた。めっきり見かけていなかった者と会ったせいか、近況確認をしたかったせいか、人間は小走りになって神の後を追う。逃げられると追いたくなる子犬のような心理もあった。
 あれって逃げたよね。私、逃げられるようなことしたかな。と、胸騒ぎに襲われてぱたぱた廊下を急ぐ彼女。
「ねえ、待ってよ!」
 先程よりも声量は増していた。短刀の耳にも届いている。だが彼は待ちも戻りもしない。審神者が曲がり角まで行き着いた時には、とうにいなくなっていた。
「……どこ?」
 諦めることなく、女は明かりのないそこを一足一足踏みしめてゆく。あちらこちらで話し声はすれど、周辺に刀剣男士はいなかった。もしここで他の誰かと遭遇していたなら、彼女は小夜左文字を探そうとしなかったかもしれない。「気になるけどまあいいか。次の機会にしよう」と。
「なんで逃げるの? 何もしないよ、私」
 路地裏に潜む野良猫を探すように、審神者はどこに居るかも分からぬ短刀へ語りかけた。
 すぐさま追いかけたのだからそう距離は開いてないはずだ。足音も無くなった。では移動をやめて近くの部屋に入った可能性がある。
 そう推測をし、女は廊下に面した部屋を覗いていった。机のみがある部屋、座布団が敷かれてある部屋、何もない部屋──一間ずつ見て、四部屋めに差し掛かる。
「──!」
 開け放たれているその一室には二振りの付喪神が居た。ただ、どちらも女の探し神ではない。
「誰かお探しですか」
 微かに驚く審神者へ尋ねたのは、入り口の傍に立つ宗三左文字。奥の方には太刀、江雪左文字がひっそりと佇んでいる。彼らの背後にある襖障子からは外の自然光が入ってきており、男士の私室や廊下と比較して少しだけ明るい。行灯や蝋燭がなくとも畳の目が視えた。余談にはなるが、あの襖障子を抜ければ女は容易に帰宅できるだろう。そこは縁側と通じているのだから。
「あー……うん、まあ」
 静寂で人気がなかったにもかかわらず、探し神ではない刀剣男士にばったり会うとは。審神者は握り拳一つ分ほどの驚きを鎮めつつ、曖昧な返事をした。
「誰を?」
「……背が低くて、ほっそりしてて、ほっぺにばってんの傷があって、えーっと、短刀? の──青い髪を一つに縛った子。知らない?」
「そうですか」で終わらず、「誰を」と聞かれてしまえば、話の流れで答えるしかない。女は小夜左文字の特徴を考えつくままに挙げてゆき、せっかくだと行方を問うてみる。その折にさっと室内へ目を走らせるも、彼女が探し神を見つけることはできなかった。
 廊下から見渡す部屋の中には、幾つもの空の本棚が左右の壁に並んでいる。書物こそないが、こちらはいつか書斎になる場所だ。本を読むならゆっくり座れた方が良いと考え、兄らは弟に遣いを頼んでいた。どこかに余った座布団があれば調達してきてほしいと。
「さあ、どうでしょうねえ」
 打刀は不明確に言い、審神者は片眉を顰める。女が「何それ」と追及するよりも早く、宗三左文字が「なぜ」と発問した。
「なぜ、探しているのですか」
 左目の青、右目の緑、両方ともがまじまじと女へ向けられている。見定めんとするかのように。
「えっ? あー、すごい久しぶりに見かけたから、元気してるかなーって思って。話しかけようとしたんだけどなんか……逃げられちゃったっていうか。で、追いかけて──」
 まとまりなく口を動かす審神者の声は尻すぼみだ。彼女は話すうちに気落ちしていった。刀剣男士の人嫌いが改善している中で、こうも露骨に自分を避ける神がいたのかと。それも、就任当初から付き合いのある彼が。多少無茶して手入れをしても、約束を守っても、未だに逃走されるくらい嫌われている。避けられている。そう思うと、心が重くなった。
「逃げられるような事をしたんじゃないですか?」
 宗三左文字の瞳が細まる。試すような、探るような口調だった。

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