22*
「してないもん」
言下に否定する審神者。眉と眉の間には濃い皺が生じていた。「知らないところであの子を傷付けてたのかな」と、自分で自分を疑っていた時にそんな事を言われたせいで、彼女の心に掠り傷ができる。
「……してないもん。でも、──私の知らないところで何かしちゃってたんなら、分かんない」
下を向き、葛籠の蓋を睨むようにしている女の顔に鬱屈が滲んだ。自信を失った彼女は、夜の闇に丸呑みされてしまいそうなくらい心許なげにしている。
閉口する審神者の脳では数多の思案や情意が旋回していて、それは一分だったか二分だったか、時間にすると短いものだった。小夜左文字の逃げた理由、過去の己の行い、今自分はどうすべきか、何をしたいのか等、考え事は多岐に渡る。煩雑な頭の内側、女は野山の草木を掻き分けるように一つひとつ整理していった。
黙り込んだ人間を見つめる宗三左文字と江雪左文字。庭に木枯らしが吹いて、審神者は導き出した解を声にした。
「あのさ、私は何もしてないつもりなんだけど……そうじゃなかったら『ごめんね』って謝っといてくれない? あと、何が嫌だったか教えてって、これからしないように気をつけるからって、伝えてもらえないかな。あっもう一個、避けないでくれると嬉しいなーって」
胸の内を晒すことが気恥ずかしいのか、抱えた葛籠の網目に指の腹を押し付けたり、離したり、女はややもじもじとしている。兄弟二振りは無言でアイコンタクトをとって、各々審神者に視線を戻した。
「分かりました。確かに伝えておきましょう」
頷きを添えて了承した江雪左文字へ、女は「ありがとう」と礼を言う。どんよりしていた彼女の心が少しばかり軽くなった。「ちゃんと伝わって、誤解があるなら解けたらいいな」と、かそけき希望が芽吹く。
「貴方は何もしていないそうですけど、逆に何かされたことはありますか? 『青い髪を一つに縛った子』に」
打刀が質問すると、太刀は非難めいた眼光を弟に寄越した。太刀の背中側でふるりと袈裟が揺れる。そこは不自然に膨らんでいるが、審神者の目には見えていない。
「え? ……んー」
女は悩む。言って良いものか悪いものか逡巡し、「隠すような事でもないか」と瞼を瞬かせた。
「なくはないよ。もんのすごい形相で消えてって言われたり、斬られそうになったり。ん? ああ、斬り掛かられたんだっけ。四月? 五月? うーん、まあ、結構前かな」
内容の割にはあっけらかんとした口振りだ。実際彼女は「あー、そんなこともあったな」くらいにしか思っていなかった。しかし、左文字派の刀たちは違う。審神者の声が鼓膜を打つなり、宗三左文字も江雪左文字も瞠目した。太刀の袈裟の中では、末の弟がきつく目を瞑っている。
「──そう、でしたか」
宗三左文字がぽつりと呟いた。二振りの兄は今日初めて知ったのだ。自分たちが手入れ部屋で昏睡していた間の、弟の振る舞いを。
自身や仲間を守るためだったのだろう。されどその所業のせいで今、弟は懊悩している。復讐に囚われながらも、小夜左文字は心優しき刀だ。冷罵したことや抜き身で襲ったことを悔い、毎日部屋の隅で物思いに耽っていたのかと、兄らは瞬時に理解した。「怖がらせてはいけないから」と審神者を避ける弟のそれは、不器用な気遣いと、せめてもの懺悔であった。
「……恨んでいます?」
可愛い弟が気を病んでいた原因がようやく解明され、打刀の口は鉛のように重くなる。対して女は平然としていた。
「ううん、別に? あんま気にしてない。あの時はしょうがなかったもんねえ。食うか食われるかみたいな」
春や夏の出来事は、審神者にとってとっくの昔に「終わったこと」となっていた。
「私も距離感わかんなくて近付き過ぎてたってのもあるし、むしろ悪かったなーって思ってるよ」
刀剣男士の人間不信や人嫌いを、また、自分が憎まれる対象になっているというのも、当時の彼女は重々分かっていたのだ。故に、小夜左文字を含む三振りから受けた仕打ちは後を引かずに消化できていた。一時的な不満や憤りを抱きつつも、「あれは仕方がなかった」と。
女からすると、積み重ねた日々や夢にも似た期待を粉々に打ち砕かれた時の方が、よっぽど辛かった。胸を穿つ楔は彼女の精神を蝕み、今尚じくじくと疼いている。
立ち尽くす付喪神らをよそに、室内や廊下の先をじろじろと眺める審神者。小夜左文字を探す彼女だったが、どこにも見当たらない。
「居ないなあ。……うーん、帰ろ。あ、伝言よろしくお願いします」
探し神を諦め、女は頼んだとばかりにお辞儀をする。彼女が帰路に戻ろうとした際、宗三左文字は「暗いですから、気をつけて」と声を掛けた。
「うん、ありがとう」
その人間は柔和に微笑み去ってゆく。大きくも小さくもない足音が十分に遠ざかり、宗三左文字はくるりと後ろを向いた。
「だそうですよ。お小夜」
弟の名を呼べば、江雪左文字の袈裟が衣擦れの音を出す。長兄の袈裟の中には「青い髪の子」が隠れていた。彼は今にも泣いてしまいそうな顔をしていて、爪の先が白くなってしまうほど、兄の僧衣を堅く握っていた。
「あの人間が気にしてないと言ってるんです。お小夜も気にしなくていいんじゃないですか」
兄の側へ行き、宗三左文字は袈裟の上から弟の背を撫でる。
「『避けないでくれると嬉しい』──貴方も聞いたでしょう?」
打刀に寄り添われ、短刀の目に涙の膜が張った。服を掴む小夜左文字の細い指は震えており、太刀は腕を後ろに回して弟の手をそっと包み込んだ。