雪解け - なんとはなしに

28*


 長船派の祖、燭台切光忠。伊達政宗が小姓を斬った際、その先にあった青銅の燭台まで切り落としたという逸話を残す、誉れ高き刀。名のある武将の手を渡ってきた彼は、後の世、付喪神「刀剣男士」として人界に降臨することとなる。
 この本丸において、燭台切光忠は先の審神者の鍛刀によって顕現した。人の血肉と心を得たばかりの彼が最初に受けた命は、真剣での打ち合い。一切の手抜きは許されず、どちらかが倒れるまでだ。歴史修正主義者の攻撃を防ぎ、歴史を守るべく現世に降りた燭台切光忠が初めて本体を振るった相手は、顔馴染みの同胞だった。
 仲間を斬り、仲間に斬られ、休む暇もなく戦場に送られた。我武者羅に時間遡行軍を討つも、負傷した体は放置されるだけ。手入れは滅多にされない。傷だけが増えてゆく。
 過酷な日々に燭台切光忠の精神は病んだ。彼は壊れかけた心を繕いながら、狂気に染まる寸前で自我を保っていた。気を失うその時まで。

 *

 霜月のとある日、晴れた夕刻。燭台切光忠は包丁を直しに来た人間を手入れ部屋へと連れていった。それからというもの、彼は作為的に女を避けている。当番が回ってくれば離れて監視をし、見張り役でない日も時々は遠目に眺めたりもしたが、決して寄り付くことはない。他の神に誘われても女を取り巻く輪に入りはせず、婉曲的に躱していた。
 永くこの地を統べた男。屈折した支配者。彼と比べ、新たな審神者は全くの別物だった。顔、性別、背格好、立ち振る舞い──先の審神者とは似ても似つかない。そんな彼女を目にすると、燭台切光忠はどうしても「今」が幻のように思えてしまう。人の睡眠中に生じるという「夢」を、自分も見ているのではないか……そうやって、しばしば己を疑った。
 赤黒い雲が一面に詰め込まれた空の下、穢れの充満する半壊した御殿。荒屋のようなそこにある、意味を成さない手入れ部屋で、まだ自分が腸(はらわた)を露出したまま意識を喪失しているなら。清らかな大気の満ちる本丸も、離れで笑うあの女も、傷の癒えた仲間たちも、夢の産物だとしたら。
 絶望に近い恐ろしさで心が崩壊しそうになる。五感が伝えてくるもの全て、自身の創った「夢」かもしれぬと考えれば。
 離れの人の子を見ると、彼女の声を聞くと、掻きむしりたくなるほどに胸が苦しくなった。「今」が信じられなくなった。そのため、燭台切光忠は女に干渉しなかった。できなかった。
 今日もそう。家具の提供に来た女の声が響く度、彼女の話を他の刀から聞かされる度、胴が引き裂かれそうなくらい辛くなるので、燭台切光忠は外へ出た。自室が整ってからのことだ。太鼓鐘貞宗や大倶利伽羅へは、「鶴さんを探してくる」と言い置いてある。
 七十にも及ぶ付喪神で賑わっている御殿とは打って変わり、闇で煤けた庭は閑散としていた。虫や獣の声もなく、冬を知らしめる風だけが気の向くままに歌っている。針のような寒風に当たりながら、燭台切光忠は空や山をぼうっと仰いだ。思考の海を漂流する彼であったが、不意に戸を引く音がして、あてどない航海を中断した。
 縁側に現れた影絵のようなシルエット。顔形は見えずとも雰囲気で分かる。
「寒っ」
 風が運んできたそれは、紛れもなく彼女の声だった。襖障子がトンと閉められるも、もはや太刀の聴覚にとって雑音でしかない。
 ──あの審神者だ。
 燭台切光忠の神経という神経が凍えつく。虚ろになっていたせいか、彼は今の今まで女を感知できなかった。ほんの少しでも周りへ気を向け、耳をそばだてておけば、左文字派の刀や鳴狐らと話す女の声が僅かに聞こえていただろうに。
 寒さを凌ごうと肩を縮こまらせた女が、未完成の夜空を見上げる。彼女と先の審神者に類似点などないはずだった。だのに、燭台切光忠の脳裏では彼と彼女が重なってしまって。
 ものの数秒もしないうちに、太刀の頭に夥しい量の文字や映像が迸る。雑多だった。
 喜怒哀楽なき蝋人形のような男、大倶利伽羅の二の腕に食い込む刀、言霊に逆らおうとした自分を庇う鶴丸国永、無茶苦茶な編成での出陣、潜り抜けた死線、江戸城内から重傷で帰還した太鼓鐘貞宗、願い出た手入れを無視した審神者──……。
 綯い交ぜになる今と昔。情報過多で脳の血管が切れてしまうのではないかというくらい、ワンシーンが次々に取り替えられた。そこに感情が付随して、急激なストレスがかかる。突然だったこともあってか、燭台切光忠は負荷を制御できない。彼の体に異変が起きた。
 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く速くなる。血の気は引いて目が霞んだ。出現したのはめまいと吐き気。
 種々の症状に襲われ、神の身体がぐらついた。すんでのところで踏ん張ったため倒れはしなかったが、燭台切光忠の右膝は床に打ち付けられる。勢いのある重みに、縁側が「どん」と呻吟した。
「えっ、どしたの?」
 会釈するべく十五度ほど頭を下げていた女が目を瞠る。
「だ──大丈夫?」
 崩折れた刀を見つけた彼女は、手に持っていた葛籠を放り刀剣男士へと走った。「痛い? 苦しい? どうしたの?」と、心配そうに声をかけ、燭台切光忠の隣に座る。
「誰か呼ぼうか」
「……平気だよ」
「でもすごい苦しそう。誰か他の」
「いいから」
 慌てて助けを求めようとした彼女を止めたのは、苦しみに喘ぐ神本人だ。
「……呼ばないで」
 泥沼の底にいるような息苦しさに身悶えつつも、燭台切光忠はどの刀も呼んで欲しくはなかった。このような姿を誰にも見られたくはなかった。顕現されてからずっと、彼は自他ともに認める支え役なのだ。仲間を不安にさせたくなく、何より、今の自分は無様で格好悪い。同派の刀剣らはもちろん、伊達家に縁深い神々や、慕ってくれる刀たち──誰の目にも捉えられたくはなかった。
「呼ばないでくれないかい」
 従って、動悸や吐き気、呼吸困難を堪えながら、燭台切光忠は女を制止し続ける。からからに乾いた声で、「お願いだ」とまで言って。
 蝋燭の火を照り返したような色の独眼には、秘めし事情が仄めかされていた。何故呼んではいけないのかと困惑していた審神者だが、意向を汲み取り太刀の願いを聞き届ける。付喪神の具合が悪くなるようであれば直ちに叫ぼうと、気を揉む彼女はハラハラして神に寄り添った。その顔は去年入院していた祖母を見舞った時と同じものだった。
 作務衣のポケットで時計が分を刻み、やがて燭台切光忠の頭に流れる音や動画が停止する。彼を執拗に苛んだそれらは煙の如く消え、体の変調も治っていった。
 弛緩する筋肉。正常に戻る呼吸と脈拍。めまいも嘔気もマシになり、燭台切光忠は大きな息を一つ出す。腰を下ろして庭に足を投げた彼へ、「大丈夫?」と、審神者がこわごわと伺った。
 金の目が見返す女の顔貌は、夜に縁取られて心細そうに曇っている。腕で肩を抱けそうな近さに彼女が居たが、どういう訳か異常は起こらない。今はもう、あの男とは被らなかった。
 くたびれた面でふっと口角を上げ、燭台切光忠は「うん」と答える。女は束の間、泡沫のような儚い笑みに見蕩れた。
「ほんとに? 苦しくない?」
「大丈夫だよ」
「え、ほんとー?」
「うん、本当」
「えー? だってあんなにしんどそうだったのに」
「もう治まったから。ね?」
「……うーん」
 付喪神の苦しむ光景を思い浮かべた女が、懐疑的に眉を顰める。あれだけ辛そうにしていたのに、こうもすぐに良くなるのだろうかと。
「ほんとのほんと? 無理してない?」
 くどいほどに聞き質すのは燭台切光忠を案じてのことだ。
「本当の本当に大丈夫。無理もしてないよ」
「んー……それならいいんだけど」
 得心がいっていない面差しではあったが、とりあえずは良しとする審神者。彼女の不承不承といった顔を見て、神は短い笑い声をあげた。
「ははっ」
 己の耳朶を打つ楽しげなそれに、「この人間と斯くも円滑に話ができるとは」と、燭台切光忠はゆくりなく思う。同時に驚いた。ふた月も敬遠していた彼女と、身構えずに接している自分に。
「笑い事じゃ──まあ笑えるならいっか、苦しいよりは。はあ、もー、すっごいびっくりした」
 じっとりとした目で女が抗議する。大仰に唇を尖らせた彼女には、秋にはなかった気さくさがあった。
 どこかツンとしていて素っ気ない。こんのすけと喋る以外で表情を崩さず、無愛想ではないにしろ淡々としている。燭台切光忠の記憶に残る彼女は、包丁の手入れに御殿へ来ていた日の彼女は、こうだった。
 しかし今は。今は違う。
「急に気分悪くなったの? もともとなんか病気あるとか? 発作? さっきのめちゃくちゃしんどそうだったよね。うーん、神様の病気って私に治せる? どうしよう。あ、やれることはやるから隠さずに言って。なんとかなったらいいなあ」
 矢継ぎ早で独り言混じり。だが、どれも燭台切光忠を想う言の葉だった。久々に触れた人の心は温かくて、燭台切光忠はたまらなく切なくなる。
 女の声が胸に沁み、刀は鼻の奥を熱くさせた。瓦解しそうだった。自分や仲間を守るために築き上げた幾重もの防壁が、心を塗り固めてきた何かが。
 付喪神を射るひたむきな視線。審神者は目に焼き付けるかのように彼を見ていた。
「痛いとか苦しいとか、そういうのはだめだよ、やっぱり」
 彼女の労りに燭台切光忠の堅固な壁がぼろぼろと剥がれ始める。そうなるともう、洗いざらい吐露したくなった。鶴丸国永にしか話せていなかったことを何もかも聞かせ、受け止めて欲しくなる。この人間に。
 びゅう、と。ひときわ強く木枯らしが荒んだ。人と神とに吹き付けた風は、素肌を氷に変えてしまいそうなくらいに冷たい。けれど、太刀の胸は、心は、打たれた鉄のように赤々としていた。
「──昔を、思い出しちゃって」

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