雪解け - なんとはなしに

29*


 燭台切光忠は女から顔を背け、色彩の褪せた冬の庭をぼんやりと見つめる。池畔に並ぶ桜が風に靡き、葉のない枝先をさやさや揺らした。
「前に居た審神者のこととか、自分がしてしまった嫌なこととか、……色々頭の中に出てきちゃってね。それで少し、気分が悪くなったんだ」
 彼はきっかけを明言しなかった。縁側に立つ人間を見てああなったとは言わなかった。
 太刀に女を責める気は毛頭ない。事の発端を伝えて彼女に「自分のせいだ」と思わせたくなかったのである。
「精神的なものかな? はは、情けないよね。いつまでもこんなんじゃいけないのに」
 虚ろな空笑い。自嘲で己の傷を抉り、燭台切光忠は感傷的に大息した。長く、深く息を吐き出す神の隣で、女は静かに座っている。耳に達した一語一語を心の内で反芻させながら、太刀の二の句を待っていた。
 気ままな風が吹くのをやめる。空で一服しているのか、今宵はもう寝てしまうのか。人にも神にも分からない。風音が消え、夜のしじまがやって来た。
「……忘れられない」
 囁き声を最後に、燭台切光忠は口を閉ざす。辛苦を孕む語音が体中に行き渡って、女の顔も暗くなった。あらゆる不幸を押し込めたかのような声に、悲痛に嗤った太刀の疲れ切った面持ちに、ひどく胸が締め付けられた。
 今も尚神々にこびりつく先の審神者の影。彼が受けた心の深手。生々しい癒えぬ傷。
 ただ一介の人の子は、冬の夜に垣間見た。刀剣男士の抱えし闇を。
 十月の手入れ後、付喪神らは日に日に警戒を解いて、笑顔を取り戻しつつある。安楽に過ごせるまでになった刀は多かったが、燭台切光忠のようなものがいないわけではない。今剣、山姥切長義、謙信景光等は、現在も忌まわしい記憶に呪縛されている。
 審神者の力で体は治った。しかし、心の傷は一朝一夕にはいかない。血が止まるのは、瘡蓋ができるのは、それがぽろりと剥落するのは、いつになるだろう。
 寒さも忘れ、人の子は思い煩う。燭台切光忠が口を切った瞬間から、彼女は感じ取っていた。これが繊細な話であると。
 この付喪神はただの昔話をしているのではない。膿んだ生傷を晒している。トラウマを舌に乗せるというのは、彼にとってきっと大きな事だ。
 憫然とした神をじっと見て、女は慎重になった。己の発す一字一句、一挙手一投足が治癒過程に影響を与えやしないか。そう思って。
 傷に塩を塗らないように、嘘臭い慰めにならないように。審神者は脳を回転させて文章を選り分ける。
「それだけ辛かったんだよ。忘れられないのもしょうがないし、情けなくなんかない」
 正座した腿の上で緩い拳を作った女が言えば、太刀は彼女へ独眼を向けた。照明のない縁側で、宵闇に目線が合わさる。
 ──橙と金、蝋燭の火が当たったみたいな色。
 何の弾みか、彼女は記憶を甦らせた。夜に陰った燭台切光忠の虹彩がそんな色をしていたと、唐突に思い出す。フラッシュバックに近かった。
 太刀の目に覇気はない。燭台切光忠は「付喪神」で、大の男の形をしており、女よりも力が強く武器だって携えている。だが、今の女には彼が自分よりも弱い生き物に見えた。誰かが守ってやらねば光の粒になって消えてしまいそうなくらいの、脆い脆い存在に。
「……大変、だったね」
 飾り気のない言葉。簡素だったが、人の子はそこに共感と承認と慰めとをありったけ詰めた。今の彼女にとって最大の労いだった。燭台切光忠の心情に寄り添い、苦しみを認め、慰労する。秋季の女にはできなかっただろう。
 百点満点の答えでも美辞麗句でもない。言い様など他にいくらでもあった。けれど、拙くも篤い審神者の想いは刀に通じ、燭台切光忠の胸を激しく震わせる。壁の崩落はいよいよ進み、彼の心は裸同然になっていった。
「人」が解ってくれた、「人」が受容してくれた。
 彼女が「人」であるからこそ、たった一言が琴線に触れる。
「──うん」
 微かに頷く燭台切光忠。人の手より生まれし「物」は、感極まりそうだった。
「大変だったんだ、すごく」
 この本丸で受肉した彼は、長船の名に恥じないよう常に気負っていた。仲間の愚痴や弱音を聞き、励ましたり勇気づけたりと、皆の良き相談相手になっていたのがこの太刀だ。女の言った「大変だったね」は、いつもであれば彼の台詞。
 泣き言を受け止める側の燭台切光忠が、今日この時、泣き言を溢す側になった。
「大変だった。辛かった。どうして僕たちが、って、何千回も何万回も思ったよ。いっそ刀解して欲しいくらい、辛かった」
 目を潤ませて胸襟を開く。吐き出すごとに心が痛んだ。どれもこれも、過去の自分が口にできなかったこと。鶴丸国永にも見せていない腹の底。
「伽羅ちゃんを斬りたくなかった。伽羅ちゃんに斬られたくもなかった。貞ちゃんを助けたかった。僕の代わりに鶴さんが吹き飛ばされたのも、長船のみんなが怪我をしたまま遠征させられたのも、我慢ならなかった。嫌だった。本当に、見ているだけで──」
 堰を切ったように語り、刀はやおら閉眼した。
「そうだよ。……僕は、辛かったんだ」
 疲弊した顔を両手で覆う燭台切光忠。審神者は彼が泣き出してしまったのではないかとおろおろする。
 縁側の人と神とを、一番星が密かに俯瞰していた。瞑色の空より降るのは、あえかな星明り。
「今もまだ不安になる。あの男の解任が嘘だったら、って。この綺麗な本丸も、元気になったみんなも、全部まやかしなんじゃないかなって」
 かろうじて涙腺を締め、刀剣男士はぶちまけてゆく。話すことでぐちゃぐちゃになっていた胸中が整頓されていった。
「人間は夢を見るでしょ? 眠ったことがないからよくは分からないんだけど、もしかしたら僕もそうなんじゃないかと思うんだ。ここも、僕も、みんなも──血で汚れた手入れ部屋で、意識がない僕の見てる夢」
 太刀は手を下ろし、再び女を見た。生気に乏しい目が、ひしと彼女にしがみつく。
「君だって、僕の夢が都合良く創り出した幻かもしれない」
 甘く、優しく、美しい『夢』。燭台切光忠の視覚が映じているものは、夢幻か現実か。
「……おかしいよね。僕は信じられないんだ。『今』を」
 神はくしゃりと笑ったが、審神者には泣いているように思えた。
 重かった。重い、重い話だった。なんと言えばよいのか分からなくて、声を出すのも躊躇われて、されど女は考えた。この付喪神の心が僅かでも軽く、楽になるようにと。脳細胞がショートするのではないかというくらい、考えて考えて、思いついては打ち消して、悩んで迷って、そうしてやっと決心する。
 歪な表情のまま貝になっている太刀を直視し、女が小さく息を吸った。

前へ  次へ

194