30*
「そっか……そうなっちゃうくらい、昔がしんどかったんだね。……今も、辛そうだもん。なんか難しいなあ。私は君が意識を失くしてる間もずーっとここで生活してたから、『今』は『今』だし、『現実』だし──君も他の神様も夢とか幻には見えないけど。私も本物だよ。実体があって、今日を生きてる」
上唇と下唇を合わせ、伏し目がちになった女はまた考える。今が信じられぬという刀に「これは夢ではないのだ」「正真正銘の現実だ」と認知させたくも、それが彼自身の否定になってしまわないか憂いたのだった。
とにかく安心してほしい。そう願えば願うほど、神の心中を思えば思うほど、言葉選びに難儀する。
「でも、そう言われても不安だよね。あー、じゃあ……うーん……」
解けないクイズに苦戦しているような顔の審神者。彼女は「あー」「うーん」という悩みの唸りを挟みながら、自信なさげに付喪神を見やる。
「えっと……もし、君の言う通りこれがぜーんぶ夢とか幻で、まだ君が手入れ部屋で気絶してるんだったら──」
この先を声にしても大丈夫だろうか。逆鱗に触れたり、悲しませたりしないだろうか。失望されないだろうか。烏滸がましいと思われないだろうか。
たくさんの懸念はあったが、女は意を決して踏み切った。熟考した末に試みるのは、見方を変えたアプローチ。
「……私、治しに来るよ。君も他の子たちも、また治すから」
薄闇の中で、太刀の独眼が見開かれる。彼の喫驚を察し、焦った女は早口になった。
「や、あの、過去って変えられないし変わらないじゃん? 私、たぶん人生何回やり直してもまたここに来ちゃうと思うんだよね。リストラされて、斉藤さんにスカウトされて、この仕事に飛びついて……絶対ここに行き着くから。それで、土地も浄化するし、御殿の掃除もするし、手入れもする。みんな治すよ」
拒絶反応のように「今」を疑惧する付喪神。人の子は思慮に思慮を重ね、「夢じゃないよ」と説き伏せるのではなく、「もしも今が夢だったらどうするか」を検討したのであった。オカルトやSFじみたものはあったが、彼女は大真面目だ。重傷の彼が手入れ部屋で気を失っていても、きっとまた、あの秋に自分が治す。そう信じて疑わない。例の冷遇が待ち受けていても。
太刀を救う直接的な方法でないにしろ、女は本気で言っていた。
「だから、んー……これが君の『夢』で、まだ君が傷だらけで気絶してるなら、どこかの時間軸で私が治すってことで……ごめん、わけ分かんないかな? なんて言ったらいいんだろ」
さてもさても、頼りない声だった。話し方も覚束ない。あちこちに散る目線が段々と下がってゆく。
「あ、前の審神者さんに取って代われたら一番いいのか。けどそれは無理だしなあ……過去は変えられないし、できたとしても『今いる私』がどうなるか分かんないし……パラレルワールドみたいになっちゃう……うーん……あー、ごちゃごちゃしてきた」
整然としない話はむにゃむにゃとした独語となる。深刻な表情で床板を睨み、女はぶつぶつ呟いた。そんな彼女に見入る燭台切光忠の面から、驚きが抜けてゆく。残ったのは脈打つ昂ぶり。そこへ一片の喜びと安寧とが萌え出た。
「あのね、その……安心はできないかもだけど──」
丸くしていた目を涙ぐませた神へ、人の子がゆるりと向き直る。女に見えてしまわぬようにと、夜が潤んだ瞳を隠していた。
「『夢』のままにはしないからね」
愁眉を寄せた彼女はおずおずと言う。思い遣りを内包する、真綿のような柔い声だった。
奈落の底で蠢いていた苦悩と怖気が和らぎ、燭台切光忠はうっすらと微笑んだ。眦に雫を溜めた彼の顔は、ほぼ泣き笑いになっていて。
「……本当かい?」
解氷の兆しあらん。即時に完治はしなかったが、女の濁りなき情感は傷の手当ての助けと為った。
「う、うん」
畏まって頷けば、神は「そうかあ」と目を細める。口の端は嬉しげに上がっていた。春が綻んだかのようだった。
審神者の口述は要領を得ず、現実的でもない。然れども、自身のために苦慮する彼女の真摯さに、幾許か胸が晴れた。「ここが夢の中であっても彼女が治してくれる。この本丸に来てくれる」と、そう思えるだけで人心地がついた。
「これが僕の見てる夢だとしても、君が治しに来てくれるなら……何も怖がることはないよね。待ってるよ、君を」
嵩を増す涙。角膜に満ちたそれの表面張力がぴっと破れた。
「──ありがとう」
眼の縁より溢れ、一筋が頬を伝う。涙の蛇口は壊れてしまい、刀の視野はたちまち水浸しになった。顎まで流れた雫がぽたりと落下する。
「えっ、だ、大丈夫? また苦しくなってない? ごめ、私が余計なことを」
「ううん、違うよ。なんだか嬉しくて」
流涙を見取った女があわあわするが、燭台切光忠は麗らかな日差しのように笑っていた。
「ふふ、泣くつもりはなかったんだけどなあ。はあ、格好悪いや。止まらない」
親指で目尻を拭う付喪神をぼさっと見ていた女が跳ねるようにして立ち上がる。はらはら滴る彼の涙をどうにかしようと思うも、生憎ポケットには携帯電話と卓上時計しかない。ということは、四次元葛籠の出番である。
「ハンカチ取ってくる!」
告げるだけ告げて一目散に駆け出す審神者。彼女は葛籠まで走り、目当ての物を引っこ抜くみたいにして素早く掴み取った。立ち所にひっくり返して激走、さながらシャトルランだ。
「良かったら使って」
ぜいはあと息を上げ、女は折り畳まれたハンカチを太刀の膝にそろりと落とす。燭台切光忠が着ている上等な燕尾服には、涙の雨が降っていた。
「だけど、汚れてしまうよ」
瞼をぱちくりさせた彼の目元に、またひと雫、新たな涙が滲む。
「いいからいいから。洗ったらいいだけじゃん」
「でも──」
「いいんだってば。あ、お節介だった?」
「お節介なんかじゃ……」
「じゃあ使ってよー」
己の所有物ではないものを汚すことに気が引けてはいたが、審神者に促され、燭台切光忠は善意を受け取った。涙は延々と溢流しており、眼帯内部は水たまりになっている。
「ありがとう。使わせてもらうね」
四つ折りのハンカチを目に当てる付喪神を中腰になって見下ろす女。太刀の左眼にある水分が布地に吸われていく。次に右眼の番がきて、人の子は好奇心を仄かに湧かせた。あの眼帯の中はどうなっているのだろう。彼女がこっそり気にするも、燭台切光忠が浮かせた眼帯の下は死角になって見えなかった。
ハンカチが涙を辿る。鼻を啜る音が何度かした。せせらぐ小川のように時が流れ、燭台切光忠はハンカチを下げた。
「止まった」
腫れぼったくなった瞼を重たげに開閉させると、女が顔を近付ける。
「……ほんとだ。止まったね」
審査でもするかのように眺めて、彼女は肯定した。刀の瞳はまだ水っぽくはあったが、しょっぱい雫は溢れていない。
「すごいや。全然止まらなかったのに。何かまじないをかけてあったのかい?」
「まじない? してないしてない」
「あ──君は術も呪も扱えないんだったね」
「うん、そっち系はなんにもできないよ。私、『審神者』ってこと以外はほんっと一般人だもん」
「そうなんだ?」
「そう。マジで凡人。幽霊も視えないし、特殊能力もないし……ここでは結界作ったり、建物直したりできるけどね」
「並の人間」を強調しつつも、女はやや自慢げに「穢れも消せるんだよ」と、目をきらりとさせた。その輝きは一番星に劣らない。
「はは、知ってる」
童子のような双眸をしてにんまり笑う審神者。燭台切光忠は愛嬌を感じ、手中のハンカチを指先で擦る。幻影にはない質感がそこにはあった。
「これ、良かったら僕にくれないかな?」
「え? それ? うんいいよー。一枚でいい? 二、三枚ぐらいあげようか?」
「いや、一枚で十分だよ。……ありがとう、お守りにするね」
太刀は膝上の右手へ左手を添えた。美丈夫の両手で大切に包まれるのは、審神者が渡したハンカチだ。
「ええっ!? お守り!? んな大層な。ただの布なのに」
驚愕に女が仰け反る。見るからに取り乱している彼女は、うっかり口を滑らせた。政府の支給品を頂戴しておきながら、「ただの布」とは。担当官が聞いていればどう思っただろう。あっさりした男なので怒りはしないかもしれない。案外、「その通りなのですがね」と失笑しそうだ。
「ただの布じゃないよ」
「ただの布だよー!」
刀が異を唱え、人間も言い返す。燭台切光忠は破顔を維持していたが、目つきを真剣なものに変えた。
「君にとっては『ただの布』かもしれないけど、僕にとってはそうじゃない」
澄み切った独眼。揺るぎなきしっかりとした声。
彼女は勘違いをしていた。高額でもなければブランド品でもなく、優れた性能があるわけでもないハンカチ。何の変哲も無いそれをお守りにすると言った燭台切光忠の心は、単に「涙を止めたから」──などではない。
「特別なんだ。君に貰った物だから」
政府の支給品であれど、このハンカチは審神者が太刀を心配した証(あかし)だった。彼女の心遣いそのものだった。
昔の記憶に辛くなった時、今を信じられなくなった時、これがあれば苦しみが緩和されるのではないかと。燭台切光忠は漠然と思ったのである。
「……それこそ、大袈裟じゃん」
玉手箱と化した付喪神の手を見て、女は儀礼的に笑った。よもや、「私」が理由になっていたとは。彼女の胸には驚きと、照れ臭さと、後ろ暗さがあった。彼から寄せられる信頼。結ばれようとする絆。今の彼女には少々重荷だ。
トラウマ持ちの神々をまるごと寛容できない自分が嫌で、許せない。だが、自分の傷をなかった事にはできない。
過去を帳消しにできるほど大らかに、もっと優しく在れたらな、と、新米審神者は人知れず己を責めた。