雪解け - なんとはなしに

31


 ハンカチを包む手はどこまでも丁寧で、割れやすい陶器でも持っているのかと思うくらいだった。泣き止んだ神様は嵐の後の空みたいにすっきりとした顔をしている。
『特別なんだ。君に貰った物だから』
 頼んでもいないのに、心の中のスピーカーが彼の声をループさせる。私は言い表せない複雑な気持ちを笑顔で誤魔化した。
「光坊ー」
 突として鳴り渡る音。
「みつぼーう!」
 わ、なんだ? どこから──「みつぼう」?
 どの刀剣男士だろうか。誰かの張った声に気移りして、燻っていたもやもやがサーっと霧散する。
「鶴さん? どうしたんだろう」
 眼帯を付けた付喪神が振り向いた。閉ざされている襖障子。御殿内部からのあれは、「つるさん」という神様のものらしい。
「鶴さん、ここだよ」
 彼が自分の居場所を知らせると、遠くで「おっ、そっちか」の応答があった。ふーむ、合流の前兆か。おそらく、「つるさん」はこちらに歩を運び始めているだろう。
「ね、僕の目、腫れてないかな?」
 斜め後ろに回していた首を戻し、刀剣男士は眼帯のない左眼をぱちぱちさせた。そう尋ねてきたのは「つるさん」が来るから? この神様、泣いたことに気付かれたくないのかな。体調悪くなった時も「他の付喪神は呼ばないで」って言ってたもんね。
「うーん……」
 暗がりの中、瞳や瞼を注視する。空はますます色を濃くしていて、とっぷり夜らしくなっていた。表情はなんとか見て取れるが、彼の目の周りがどんな風になっているかまでは分からない。腫れているのか、赤くなっているのか──判定が難しい。涙は乾いてそうだけど。
「どうだろ? 暗くてあんまり分かんない。でも、形が変わるほどパンパンに腫れてはなさそうだよ。大丈夫じゃない? たぶん」
 見たままを率直に告げれば、神様は柔らかな息をふっと漏らして頬を緩める。……今更っていうか、改めてっていうか、イケメンだよなあ。刀剣男士って、この神様だけじゃなくてみーんな顔が良いんだよね。顔面偏差値高過ぎ。
「だったらいいんだけど」
 ポケットにハンカチを仕舞い、彼がまたくすりと笑う。……ああ、足音が聞こえだした。「つるさん」が出てくるのも時間の問題か。
「うん? なんだ、きみも居るのか」
 はて、「君」というのは誰を指す。私? 障子はまだ開いてないのに、なんで分かったんだろう。声があっちまで届いてたのかな。そんなにでっかい声では喋ってないんだけどなあ。
 訝しむなり、襖障子がすっと開く。片手を挙げて「よっ」と剽軽な挨拶をしたのは、驚かせ好きの刀剣男士だった。……ん? そういや最近は驚かされてないっけ。一時期はひどかったんだよー。背後から「わっ!」って奇襲されて、今まで何十回心臓にダメージ食らったことか。
「どうも」
 私が小さくお辞儀をすると、眼帯の付喪神が起立する。
「やあ、鶴さん。僕を探してたのかい? どうしたの?」
「どうしたのって──おいおい、それはこっちの台詞だぜ。光坊こそ俺を探してるんじゃなかったのか?」
「あっ。……ああ、うん、大したことじゃないんだ」
「ほーん。さては光坊、俺をいいように使ったな? ふらっと外に出る口実にでもしたんだろう」
「んー……。あはは、分かっちゃった? さすが鶴さん。ごめんね」
「いや、いいさ。その顔に免じて許そう。さっぱりしたな」
「……そうだね。少し、気が楽になったよ。参ったな、お見通しかあ」
 驚かせ好きの神様はちらりと私を見て、笑い声をあげた。
「はっはっは、まあ、なんとなくな」
 お互いを「みつぼう」「つるさん」と呼び合う彼らには穏和な空気がある。気心知れた仲のようだ。にこやかな二振りの間に私の入る余地などない。なんか良い話をしてるっぽいし、黙っておこう。
「それはそうと光坊。部屋で貞坊と伽羅坊が揉めてるぞ」
 お、話が変わった。なになに、揉め事?
「え? 貞ちゃんと伽羅ちゃんが?」
「鏡の置き方で意見が割れたらしい。困ったことにどっちも引きそうになくてなあ。俺じゃどうにもならん。だからきみを探してたのさ。仲裁してやってくれないか」
 へえ、鏡の置き方でいざこざねえ? 神様もそんな事で揉めるんだなー。
「鏡で……? オーケー。戻るよ」
 お、オーケー!? 今なんて言った? OKのオーケー!? 刀の付喪神が英語使ってる! ええええこの刀剣男士は外国産だったりするの? 謎だー!
 至極どうでもいいところにびっくらこいている私へ、眼帯の神様が視線を寄越してくる。
「これ、ありがとう」
 ポケットに手をやり、彼はふんわりと笑った。あそこには私のあげたハンカチが入っている。嬉しそうに感謝され、脈が一拍だけリズムを狂わせた。
「ううん、全然」
「君が良ければだけど、また今度ゆっくり話したいな」
 もう一拍、どくんと跳ねる。また今度ゆっくり話したい、か……あー、そうかー。
 心の隔たりが狭まったのは良い事だ。けれど、ひと摘まみの危うさを感じる。
「あ──うん。またね」
 ……こんな私にゆっくり話をする価値なんてないのに。
 もやもやをぐっと抑圧し、彼とさよならをした。驚かせ好きな刀剣男士がやけにこっちを見ている。胸の奥まで看破されていそうな気がして、息がし辛い。
 眼帯を付けた神様が敷居を越えて屋内に帰ってゆく。彼の足元にふらつきはみられなかった。もう倒れはしないだろう。無理をしていないか、また気分が悪くならないかは心配だけど……まあ、今の調子なら大丈夫かな?
 黒い背が見えなくなり、歩く音も消える。さ、私も戻ろう。残った付喪神の観察するみたいな目から逃げたいし。
「で? きみは光坊と何をしてたんだ?」
 うっ、先手を取られた。逃亡失敗。そう易々とお家に帰してはくれないんだね。はあ。
 私を狙い澄ますのは、答えを待つ二つの眼。驚かせ好きな神様は、襖障子の前から動かない。「みつぼう」を追わず、開け放しの戸も閉めず、私へと体の向きを変えている。声や顔に怒気や嫌悪といったものはなかった。興味本位なのか面白がっているのかははっきりしないが、唇は弧を描いている。
「え? うーん……」
 どうしよう。あの付喪神は苦しみながらも助けを「呼ばないで」と言った。泣いてしまって目が腫れてないかを気にしていた。やっぱり、知られたくないんだと思う。教えない方がいいよね。はぐらかす? それか「本人に聞いて」って言っちゃう? この神様、見逃してくれるかな。
「あー……いや、いい。よしておこう。俺もそこまで野暮じゃない」
 返事をしかねていると、驚かせ好きな彼が大きく首を横に振る。何がどうなったのかは分からないが、自己完結したようだ。ヒヤッとすることを聞いてきておいてなんなんだ。悩み損だよ。
 ──でも、この刀剣男士……大体のことを把握してそう。なーんか知ってそう。直感だから違ってるかもしれないけどさ、そんな口振りじゃない? まあ何にせよ、質問攻めにならなくて良かった。
「光坊の奴、肩の荷が下りたようだな。随分楽そうだ。きみのお陰なんだろう? 礼を言わせてくれ」
 うわ。あー、こりゃ全部分かってるな。どこかで見てたの? や、見てたとしたら、しんどそうな仲間を放っとくなんてしないよね。元から知ってたとかかな。トラウマも発作っぽい症状も。……うーん。
「ううん、私は何にもしてないよ」
 恐縮。謙遜。前職場で調教されたものが咄嗟に出る。それに私は実質何もしていない。支離滅裂なことばっかり言っちゃったし、体の辛さもどうにもできなかったし。結局ハンカチを渡しただけだ。「きみのお陰」と言われても──。
「そうか?」
「うん」
 即、頷く。驚かせ好きの神様が、一歩一歩と間を詰めてきた。
「──な、何?」
 口を噤んだままの彼は、笑いを顔に貼り付けている。ちょっと嫌な感じだな、と脳が告げてきたが、逃げる暇などない。私よりも一回り大きな掌が、結界にぺたりとくっついた。

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