雪解け - なんとはなしに

38


 縁側に面した襖障子が閉まる。三兄弟は屋内に戻った。ほっこりとした余韻に浸りながら、私は二つあるバケツの取っ手を一つずつ片手で握る。それらを持ち上げようと腕に力を込めれば、こんのすけの呼び声がした。
「主様」
「ん?」
 斜め後ろにいる相棒を見下ろす。彼は変わらずちょこんとお座りをし、どんぐり眼で私を見つめていた。
「右方より小狐丸が」
「え」
 朱に縁取られた黒い瞳が右へ泳ぐ。私もそちらを目で辿った。
 ゲートや御殿の玄関がある方角。そこから歩いてきている、一振りの刀剣男士。彼の足先は私たちに向けられており、軌道は明確で。線路が一本、私に伸ばされているみたいだった。
 ……私に用? さっきめちゃくちゃからかわれたから、ちょっと嫌だなー。別の用事ならいいんだけど。
「うーん」
 あの付喪神の到来を待つか、申し訳ないが回避させてもらうか。しばし考え、ひとまず離れに帰ってみることにする。運任せ、成り行き任せだ。彼に捕まったら用件を聞くし、逃げ切れたらそれで良し。もし、慰労会の──酔っ払って暴走していた話を振られたらスッパリばいばいしよう。
「戻ろっか。来たら来た、帰れたら帰れたで」
「天に委ねるのですね。承知致しました」
 私が帰るのが先か、刀剣男士が結界に着くのが先か。さあどうなる。
 水が溢れないよう気を付けつつ、ざかざかと早歩き。両手に重いバケツを持っているため、不格好なやじろべえのようになってしまっているが、断じて酒が残っているわけではない。素面です。
 バランスを取りながら前へ進む。太鼓橋の手前にある井戸は、離れからそう遠くない。いけるかな、と考えていた。
 が、池の向こうの付喪神の速度が増し増しになり、なんかもう競歩。彼の進行方向に変更はなさそうだ。あー、これは間に合わん。あっちの勝ち。
 距離が狭まってきて、神様の姿形が細部まで分かるようになった。あれは数日前、油揚げの匂いに惹かれるあまりに私を押し倒してきた奴だ。んー……あの刀剣男士かー……警戒しちゃうんですけど。
「……主様」
 私の不安を感じ取ったのか、足元でちょこまか四肢を動かすこんのすけが気を配ってくれる。大丈夫、という念を詰めて「ん」と頷き、短い目配せをした。まあ、たぶん、なんとかなるよ。結界の内側だし。
「ご、ご多忙のところ、失礼します!」
 体育会系のそれに似た声の出し方で引き留めてくる神様。私の目測は当たった。こんのすけと私が離れに入るより先に、彼がゴールイン。戸口まではあと三歩だった。惜しい。
 なんだろうなあ。べらぼうに険しい顔してる。おこ? でも敬語で、気い遣ってくれてる感じもあるよね。「ご多忙のところ」とか、「失礼します」とか。
 はあー、厄介事じゃありませんように。昨日の話を蒸し返されませんように。
「ちょっと待ってて。これ置いてくる」
 聞くだけ聞いてみるか、と観念して、バケツを運ぶ。応じてしまったのだからもう急ぐ必要はないし、離れに一時避難しなくてもいい。じゃあ、直で裏庭に行ってしまおう。家に上がって縁側から降りて、というのは面倒だ。
 戸口を通り過ぎ、家屋の裏手に回る。秋に工作した竹垣が見え、膝で庭木戸を押し開ければ、そこは日本庭園風の裏庭。私の自慢の一つである。
 太陽の光を浴びてピカピカしている白い玉砂利。不揃いだがどこか芸術的な庭石。生命力のある梅や松。溜息が出そうなくらい綺麗だ。九月に頑張ってよかった。
 飛石を伝って縁側へ行き、踏石の横にバケツの底をつける。そっと置いたつもりだったのに、水が跳ねた。少しならいいさ。洗濯できるだけの量はある。
「小狐丸、早かったですな」
「ほんとにねえー」
 濡れた手を作務衣の裾で拭き、Uターン。気乗りしないが、「待ってて」と言った以上そうもいかない。こんのすけ同伴のもと逆戻りすると、あの神様は透明な壁の前で直立していた。面接前かよ、とツッコミたくなるほどピシッとしている。
「ごめん、お待たせ」
「いえ! とんでもございません。突然の訪問を受けて下さり、ありがとうございます」
 九十度にもなりそうな礼をした付喪神は、目に見えてガッチガチだ。声も面持ちも仕草も、「我緊張の極み!」みたいな。何の用件かは分かんないけど、彼が通常運転じゃないことだけは理解した。
「ううん。……で、何? どうしたの? 昨日飲み過ぎた話はしないからね」
 こんな雰囲気だ。この刀剣男士は冷やかしに来たのではない、と思いつつも、牽制しておく。
「は、はい。そうではなく──」
 そわっそわ。挙動不審。何日か前に会った時の貴族のような物腰はどうした。どこにいった。本当に同一神なの?
「……」
 視線を彷徨わせている彼をじっと観察し、口からご用事が出てくるのを待つ。けれど、付喪神の喉は音を作らない。
「小狐丸」
 せっつこうと、もしくは背中を押そうとしたのか、こんのすけが刀の名を呼んだ。
「……っ」
 しかし言葉は引き出されず、刀剣男士は困ったように眉尻を下げる。
「何? そんなに言いにくいこと?」
 私も痺れを切らしてしまい、そう尋ねた。神様は「いえ、あの」とまごまごしている。
 んん? なんなの? そこまで言いづらい用って──あ!
 ビビビッと脳に電流が駆け巡る。油揚げ、匂い、好き、嗅ぐ、昨夜の晩ご飯。点と点が繋がった。
 この神様は油揚げの匂いが好き。香りに誘われて私の手を嗅ぎ、荒ぶった。あの時、私の手には油揚げの匂いがついていたのだ。……そして昨日、私はこんのすけのためにいなり寿司をこしらえている。調理の過程で油揚げを絞ったり触ったりした。一日経ってはいるけど、まだ匂いが残っているとしたら?
 こやつ、もしや今日も油揚げに誘惑されて──で、また手をくんくんさせろ、とか!?
「せ、先日は……」
 匂いを嗅ぐのはなしだよ。と、付け足すか迷った矢先に、付喪神がようやっと話しだした。よほど切り出しづらいのだろう。唇がわなわなと震えている。
「先日は、とんだ御無礼を致しまして……」
 どんな辛い事があったの? と聞きたくなる、身も世もない悲しい顔。俯き加減になった彼の台詞は尻切れトンボとなった。体を揺らし、口を開けて閉じて、緋色の瞳をきょろきょろさせる神様は、全くもって落ち着きがない。
「それって、この前のやつ?」
 具体的には言わなかったが、当たりだった。彼は頭を上げて瞠目し、唇を結ぶ。ややあって、「はい」という蚊の鳴くような返事があった。
 ──ああ、なんだ、嗅ぎまくったり押し倒したりしたのを謝りに来てくれたのかな? あやま……えっ嘘まじで? 謝罪!? 刀剣男士が!?
 神様の発言をもとに推察して、心の中でぶったまげた。「こぎつねまる」は肩をすぼめて所在なさげにしている。
 ほー、なるほど。普通じゃないな、何事かな、と思ってたけど、反省の色を見せてたのか。へえ、ほお。って、わあ! ええー!? こういうのって初めてじゃない? 悪いことしたから謝りに来ました、みたいなの。ど、どど、どうしよう。

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