雪解け - なんとはなしに

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 畑の近辺。湿った土の臭いがする。まだ結球していない白菜や、太りかけの大根、直に収穫できそうな春菊……背の低いそれらの彼方に見えたのは、井戸で釣瓶を上げようとしている神様だった。
「おや、これは稀有な」
 こんのすけの言うように、極めて珍しい──どころか、初だ。この土地には井戸が二つ掘られてあって、一つは我が家の隣に、もう一つは御殿の裏に、石積みの丸い口をぽっかりと開けている。今日の日まで、境界線の外に位置する御殿側の井戸を刀剣男士が使用することはなかった。私の知る限りでは。
「岩融ですね」
「あー……弁慶の薙刀?」
「ええ。かの武蔵坊弁慶の振るっていたとされる、巨大な長物です。ふむ……井戸で水を汲んでいるようですが、どうしたのでしょう」
 私たちが話している最中にも、「いわとおし」は縄をぐいぐい両手で引いていた。彼の本体は井戸屋形に立て掛けられてあり、真っ黒な鞘の先が屋根の上にちょんと出ている。
「見て参ります」
「あ、こんちゃん」
 ててて、と身軽に畑を迂回し、井戸へ走るこんのすけ。
 追いかけようと一歩前に踏み出した足は、躊躇によって止まってしまった。「行って面倒なことになったら嫌だな」「私から関わるのもアレかな」「こんちゃん行ってくれたしいいかな」等、よろしくない考えが重石になる。
 ……こういうのがだめなんだよね。心って正直で困る。欺けない。
 地にべったりと根を張る足底。心理的な金縛り。私はこんのすけと付喪神の動静を凝望していた。畑の野菜たちと並んで。
 管狐が神の元を訪ねれば、薙刀の刀剣男士は手を休める。「……が……で……」「ほ……そ……」と、途切れ途切れの二つの声が微かに耳に届いた。
 何を話しているのだろう。どんな会話をしてるのだろう。聴覚を研ぎ澄ましても、全容は分からない。餌を探す雀の鳴き声の方がはっきりと聞こえた。数羽、畑で昆虫バイキングをしているらしい。作物には手を出してくれるなよ。
「主様あ!」
 のどかな雀の囀りが切り裂かれる。こんのすけがこちらに戻りながら私を呼んだ。
「どうしたの?」
 金縛りが解け、何歩か足を前へ動かす。駆けてきた相棒は息を整えたのち、「岩融が怪我をしております」と言った。
「え、怪我?」
「はい。大きな腫脹が」
「しゅちょう……」
 耳慣れない単語だ。なんだろう。怪我の何かであるのは確かだよね。
「今剣と戯れ合い、鴨居で頭部を打撲したと」
 ああ、打撲。腫れたか、青あざになったとかかな? 神様が頭をぶつけるって、そんなこともあるんだなあ。
「へえ」
「応急処置として患部を冷却すべく、井戸水を汲んでいたようです」
「ふーん、なるほど。あそこの水なら冷たいもんね」
 地下の冷水。冷やすにはもってこいだ。
「ええ。ですが──すぐには治らないでしょう。ひどく腫れているので……」
 一度目を伏せ、こんのすけが井戸を振り向く。気遣わしげな表情をしていた。眉代わりにある朱い点々は、心なしかしょげている。
 ……そんなにひどい怪我なのか。
 憂いを帯びた横顔を見ていると、この子のそれが伝染してきて、私も心配になってくる。「面倒事は嫌だな」「不用意に距離を縮めたくはないな」という考えが根底にありはするが、感情の作用を受けるとそうも言っていられない。怪我をした部位が「頭」であるなら尚更だ。私が薙刀の「しゅちょう」を治そうと思うまで、五分も掛からなかった。
「こんちゃん。あの神様の怪我、私に治せる?」
「もちろんですとも」
「手入れ部屋とか資源はなしで、私の力だけでもいい?」
 傷を負った刀剣の治療は、手入れ部屋で資源や札を使って行われる。審神者の力だけでの手入れは、ご法度でないにしろイレギュラー。私は秋の総手入れでヘマをしているので、こんのすけか斉藤さんの許可がないとこのお手軽手入れができない。
「ふうむ……そうですねえ……」
「……だめ?」
 御殿に行って準備だなんだは面倒臭いんだよね。できればこの場でぱっぱとやっちゃいたい。けど、式神ちゃんには会いたいなー。うちでも式神を呼び出せたらいいのに。
「いえ、よろしいですよ。鍛錬を積みし薙刀とはいえ、軽傷にも及ばぬ瘤です。主様のお力の消費も、お体への負担も、ほぼ無いかと」
「わかった。じゃあ大丈夫だね。神様が『治してもいい』って言ったらだけど」
 相棒のゴーサインが出たため、御殿裏の井戸へ向かう。水を汲み終えた薙刀の神様は、井戸の縁へ釣瓶を置いて私とこんのすけを見ていた。いいや、私とこんのすけが来るのを待っていた。
「こんにちは。頭、怪我したんだって?」
 前置きなどはない。大胆に尋ねる。……あー、聞かなくても良かったかな。彼の額の左、ぷっくりと膨らんでるんだもん。今日はフードがない分よく見える。うん、たんこぶだ。うへえ、すっごい腫れてる。骨や脳みそは無事?
「こんのすけに聞いたのか。なあに、蚊に刺されたようなものよ。はっはっは!」
「蚊に、って……そんなもんじゃないでしょ。うわ、痛そう」
 この付喪神は前髪が短く、生え際の隆起がとても目立っていた。こりゃあ痛い。見てても痛い。派手にぶつけたんだろうな。ゴチーンって音がしたんじゃない? 相当な打ち方しないとこうはなんないよ。御殿で何して遊んでたの。
「案ずるな。明日には腫れも引こう」
「えー、でも。……治そうか?」
 けろりとしている刀剣男士に治療を申し出れば、夜明けを想わす東雲色の双眸がはっと瞬いた。パワフルな笑いはもうそこにない。
「これしきの腫れ、怪我のうちにも入らぬというのに」
「や、めっちゃ腫れてるよ。痛くない? 今日明日では治んないって」
 真顔で額を擦り、薙刀は「だが」と私を見下ろす。怒ってはなさそうで、けれど、「うん」とは言わない彼。困惑しているのか、拒否感があるのか……見極めなければならない。人間(わたし)に治されるの、嫌だったりするかもしれないし。
「──あんたが嫌ならしないけどね」
 両眼を付喪神から離さず、飄々とした語調で試した。いかなる変化も見落としたくない。私は彼の心を測ろうとしていた。
「……そうではない」
 筋肉質な巨体が身じろいで、細く短い眉がひにゃりと尻を下げる。太陽が燦々と照り、扇形の金のピアスがきらりと光った。
「この程度で治癒など……霊力を使うのだろう?」
 すまなそうな面持ちの大男。うーん、遠慮かな? 遠慮なら押せるのになあ。遠慮に見せかけた拒否だったらめんどい。
「大丈夫。こんちゃんに『問題ない』って言われてるから。どうする?」
 判断するのはあくまで彼だ。こんのすけも心配してるし、あんなにでっかいたんこぶだから私も治したいけど、強制にはしたくない。これで断られれば、「お大事に」とでも言って帰ろう。
 薙刀の刀剣男士は眉間に皺を作って口を閉ざしていたが、やがて神妙に頭を下げた。巨漢な外見とは裏腹に、粗野さがない品の良い礼だった。
「では、頼めるか」
「うん」
 私から言い出したことなのだ。そんな殊勝にならなくても。「貴様に治させてやってもよいぞ! がっはっはー!」ぐらいの返事で──いやそれはそれでちょっと、んー……。
 頭の中の傲慢な付喪神を追い払い、彼へ近寄る。薙刀は腰を曲げて額を突き出してきた。身長差を埋めるべく、配慮してくれたのだろう。大男で目つきも悪いし、歯はギザギザに尖ってて怖そうだけど、……優しいんだな。包丁手入れの時とは大違い。威圧感がないもん。これが本来の「彼」?
「いくよー」
 掛け声と共に片手を挙げ、掌を額に翳す。治れ、治れと祈るように念じ、彼のたんこぶへ力を送ると、ぼこっと盛り上がっていた皮膚は見る間に平たくなっていった。審神者の力ってすごいよね。医者要らず。自分や家族にも使えたらいいのにな。
「お見事。主様、お体の具合は」
 問題ないとは言っていたが、体調を確認してくるこんのすけ。心配性というか過保護というか。
「平気。なんともなーい」
「ようございます」
 眠くもない。怠さもなし。すこぶる元気だ。私が笑って手を振れば、相棒は安心したかのように微笑む。その可愛さに魅了され、私は管狐を抱き上げた。よしよし、愛い奴め。
 付喪神はたんこぶの消えた額をぺたぺたと触っている。彼の爪は手袋をはめていても分かるほどに長く鋭利で、つるつるになったおでこに引っ掻き傷ができやしないか気を揉んだ。しかし、自身の扱いを熟知しているのか、爪の先が赤い線を描くことはなかった。
 あれ、切らないのかな。不便じゃない? あ、爪も武器なのかも。
「ちゃんと治ってるよ。痛くない?」
「……ああ。嘘のように痛みがない。腫れも治まっておるわ」
 黒手袋に覆われた手が頭から下りた。薙刀の神様は、東雲色の瞳で私をじっと正視している。何かを考えているような、真剣な目だった。
「何?」
 彼が開口するのを待とうと思いつつも、強い眼光に焦らされ、つい発語を促してしまう。
「お主は、我らに何を望む」
 返ってきたのは、いつかにされたのと同じ質問だった。
 なぜ今、再度それを聞いてきたのかは分からない。私はあの時の記憶を一周し、「何も」と答えた。「刀剣男士を戦に出さない」という約束は生きている。なあなあになってしまってはいるが、「不干渉」の方も。
「今もないのか」
「うん」
「一つもか?」
「うん」
 怒ってもいない。当て付けでもない。意地も張ってない。自分の中にある答えに基づき、頷いていく。心は妙に凪いでいた。前とは異なる状況だからだろうか。
 冷たい視線も、刺すような敵対心も、憎しみにまみれた空気も、高圧的な態度も、ここにはなくて。上からではなく、対等に問われていると感じたのだ。
「なんにもない。今まで通りでいいよ」
 偽りのない笑みが漏れる。薙刀は唇をへの字にし、ぎろりと睨んできた。
「なんだ。それでは、我らは与えられるばかりではないか」
 この言い方! でかい図体と怖い顔で、イントネーションは拗ねた五歳児みたい。全然怖くないし、むしろ可笑しくなってくる。「与えられるばかりではないか」だって。
「っ、ふはっ。今はそれでいいってば。気持ちだけで十分。ありがとう」
 うっかり吹き出してしまったが、彼の機嫌を損ねはしなかった。武蔵坊弁慶の薙刀は天を割りそうな声でガハハと破顔し、ギザギザの歯を覗かせる。
「はっ、礼を言うのは俺の方だ。感謝している。審神者殿」

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