01
六月初めから雨の日が増え、日毎に気象庁が日本各地の梅雨入りを発表していった。ここがどの辺に当たるのかはさっぱり分からないけれど、近日の天気を見る限り、私の職場である本丸地方もたぶん梅雨入りしたんだと思う。
畑や庭の水遣りをしなくてよいのは楽だが、おいしい作物をゲットするためにも、育ってきた野菜たちの手入れは続けなければならない。
細い竹で支柱を作って伸びた蔓を誘引したり、大きな実をつけてもらうために摘芯したり、土の養分を横取りする雑草を引いたり……いや私農家じゃなくて審神者です。審神者ですよ。その、ネットで知識を得たもんだからちょっと農業に詳しくなっちゃって、ついでに畑作にドハマりしてるだけなんです。超楽しい。
「ふいー。終わった終わった」
雨空の下、傘を差しての農作業を済ませ、離れに戻る。土間で番傘の水気を落とし、合羽代わりにしている濡れた上着を脱いだ。
「こんのすけ、タオルいる?」
頑なに傘に入らない人間嫌いなこんのすけは、雨粒にもろに打たれてずぶ濡れだ。まさに濡れネズミ。いや狐だけど。
「いえ、結構でございます」
「ほんとに? 寒くない?」
「……ええ、お気遣いなく」
このやり取りも何度目になるだろうか。タオルドライのお誘いは毎回断られ続け、こんのすけはいつも自然乾燥。濡れたままで気持ち悪くないのかな。狐の毛皮って水捌けいいの? 油分で水弾いてるとか?
「分かった」
傘と上着を適当に置き、用意していたタオルで濡れた箇所を拭きながら、小さな狐を観察する。ブルブルと頭の先から尻尾の先まで震わせて水滴を飛ばす姿は、まるで犬のよう。
あ、そういえば狐ってイヌ科なんだってね。この前ネットで調べたんだ。ええと、ネコ目イヌ科キツネ属だったっけ? 結局どれなんだよ! って一人でパソコンに指摘しちゃったわ。
や、こんのすけは見た目狐だけど「式神」とかいう不思議生物だから──……あれ、そもそも式神って生き物なのか? どこのカテゴリー? わかんない。謎だなあ。
頭の中で「式神」について想像を膨らませつつ、毛繕いを始めたこんのすけを眺め続ける。小さな狐は片方のあんよを可愛らしいピンクの舌でぺろぺろと撫で付けていたが、私と目が合うなり体ごとそっぽを向いてしまった。
……んん?
背の向けられるその瞬間、狐の足にないはず赤が見え、そして隠れた。
右の前肢の肉球に、鮮やかに滲んでいたあれは。
あれは──血?
「……ちょっと。ねえ、あんた前足怪我してない?」
梅雨時の日常が一転。みるみるうちに心が曇り、思わず眉が顰まる。濡れそぼった後ろ姿に声をかけるが、こんのすけはこちらを向かない。見ようともしない。
──ああ、なんか。
なんか、嫌だな。
「いえ、そのようなことは」
私に見えないように体を背けたのか。
なぜ隠すの。見間違いじゃない。確かに赤かったのに。
「血みたいなのが見えたんだけど」
嫌──……嫌だ。なんか、ものすごく。モヤモヤする。
こんのすけの淡々とした声を遮り、言葉を畳み掛ける。つい詰問調になってしまった己の声は、僅かな憤りを含んでいた。
小さな背中は微動だにしない。少しの間沈黙が流れ、やがて空気が震える。
「……問題、ございません」
にべもなく、ピシャリと撥ねつけられた。壁が、溝が、立ち塞がる。「問題ございません」。それを耳にした途端、私の中で何かが弾けた。
私を心配させまいとして隠すのか? 否、違う。単純に、私に知られるのが嫌で隠すんだ。
……怪我くらい。怪我くらいは、教えてくれてもいいじゃない。痛みくらい、我慢しなくてもいいじゃない。
どうして、この狐は、こんなにも。
「っ、あんた、あんたねえ! なんなの!? 何が問題ないって? やっぱり怪我してるんじゃん、嘘つき!」
歪む。歪む。顔が歪む。
私は心底怒っていた。傷を隠したこんのすけに、信頼されていない自分に、嘘を付いたこんのすけに、もっと早く怪我に気付けなかった自分に……他にももっと、たくさん、たくさん。
突然噴火した火山のように感情が一気に荒ぶって、ありとあらゆることが腹立たしく思える。
「ちゃんと言ってよ! 怪我したら痛いでしょ!? なんで隠そうとしたわけ!? そんなに私が」──嫌いなのか。
傷を隠すくらいに。嘘を付くくらいに。見られたくないくらいに。弱みを曝したくないくらいに。
痛みに耐え、手疵を放るほど、そんなに私が嫌いなのか。
私の怒声を受け、こんのすけは弾かれたように振り向いた。瞠目している二つの眼と視線がかち合う。深い黒の瞳は揺れていて、上げられている前足から、赤が一滴したたり落ちた。
ほらみろ、血だ。
「──っ」
息を、声を、言葉を飲み込む。相手は怪我人(狐だけど)だ。そして人(わたし)を恐れている。
久々に沸き出た猛々しい情動を堪え、ぐっと自制した。ここで怒り狂っても仕方がない。
「……痛い? いつから?」
フリーズしている小さな狐の側にしゃがみ込み、血に彩られた肉球を間近でとらえる。人で言う「てのひら」の部分にあたる掌球に、傷はあった。抉れているそれは中々に深そうで、まだ流血は止まりそうもない。
「は。あ、い、いえ、これしきのこと──」
ああ、もう、いい加減にして。
尚も身を引こうとする狐に苛立ちを覚える。これのどこが「これしき」なのだ。
「こんのすけ」
怒気を孕んだ強い声音に、こんのすけは固く口を噤んで怯えを見せる。
「怒るよ」
既に怒ってはいるが。
「いつやったの?」
「……先程、畑より戻る道中で」
子を叱る母さながらに問いただせば、ひどく狼狽えながらもごもごと口を開いた。全く、手のかかるお狐さんだ。
どうして怪我したその時に言わなかったのか、と咎めたい気持ちを抑え、更に問う。
「何か踏んづけちゃった?」
「……雨で足が滑り、避け損ねた木枝を。そこが、丁度……尖っておりまして」
途切れ途切れの声は濃い戸惑いを抱えていて、こんのすけがいかに動揺しているかを教えてくれる。
「そっか。……痛い? 正直に言って。嘘ついたら怒るから」
「……少々は」
チラチラと私の様子を窺いながら出された返答は、遠慮がちだった。「少々」というのは嘘っぽい。あの傷、結構痛そうなのに。……まあ、でも、「痛くない」と一蹴してこなかっただけ良しとしよう。
はあ。
息を吸って、吐く。激しく渦巻いていた怒りは、もう勢いを無くしていた。今になって、こんなに怒ることなかったかな、と若干後悔してしまう。
今回の爆発はきっと、これまで溜まっていたストレスも一因にあるのだ。慣れない環境、慣れない生活、上手くいかない人間(対神様)関係──……それらは少しずつ私の中に蓄積し、燻っていたのだろう。
ある意味八つ当たりのようで、罪悪感が生じる。いやこんのすけのあの態度はさすがにムカついたんだけどね。ま、それが引き金になっちゃったわけよ。
ふう。
もう一度、息を吐く。腹の虫を追い出すように。
「怒ってごめん。さ、それなんとかしないとね」
カラリと笑い、救急箱を取りに行く。身を縮込めていた小さな狐は、所在なさげにオドオドしていた。
「私のような『惨めで憐れな獣』に、手当など」
「はい、黙る。今回はなんと言おうと手え出すよ。今までさあ、ご飯食べない事とか、寝ない事とか、家に上がらない事とか、無理強いせずに我慢してきたけど、その傷はほっとけない。膿んだらどうすんの。もっと痛いよ?」
負傷した肉球を水で清め、血が止まるまで布で圧迫し、最後に包帯をキツ目に巻く。
この時、私は初めて、こんのすけの体に触れたのだ。毛皮に覆われたそれは小さいけれど温かくて、昔実家で飼っていた犬を思い起こさせた。
「こんのすけさあ」
BGMを雨音に、私は静かに口を開く。
包帯を巻き終えた小さなあんよを両手でくるみ、そっと撫でた。
「人間……っていうか、私のことは嫌いでいいから、自分のことは大切にしなよね」
黒い瞳はゆらゆら揺れていて、どこか弱々しく、儚げだった。
「癇に障るかもしれないけど、今度からちゃんと言って。怪我した時とか、具合が悪い時とか。体調管理も仕事の一環だよ。後で大事(おおごと)になってもダメでしょ。こんのすけがいなくなると、私困るんだよね。寂しいし」
諭すように告げた言葉は、小さな狐の硬い心に届いただろうか。
いや、何もトラウマ持ちのこの狐を改心させようとか、私に好意を抱いて欲しいとか、心の闇を除きたいとか、そんな大層なことは考えていない。おこがましいし、私は聖人君子などではないのだから。自分の度量は分かっているつもりである。いつか仲良くなれたら、とは思うけれど。
今、こんのすけに望むのは、とりあえず、傷や病を隠さないこと。
傷や病をひた隠し、それが原因でこんのすけがいなくなるようなことになれば、私は非常に困るだろう。審神者として未熟な私が一人でやっていかなければならないなんて、心許ないにも程がある。代わりに他の式神が寄越されるとしても、なんか嫌だ。
こんのすけがいなければ、仕事に影響が出る。仕事に影響が出れば、雇い主に迷惑をかける。雇い主に迷惑がかかれば、何らかの処分に繋がる可能性がある。何らかの処分がなされれば、減給やリストラ等、恐ろしい事態が待っている。これは避けたい。
また、傷や病を隠されたことで、斉藤さん、ひいては政府に「こんのすけを虐待している」、などと誤解なんぞとされたくなかった。前の審神者さんと同一視されるのもお断りである。私は私だ。
そして何より、ただ単に嫌だった。この小さな狐が苦しむのが、痛い思いをしているのが。……なんだかんだ、私はこんのすけを気に入っているのかもしれない。
少なくとも、代わりなど要らないと思うくらいには。進んで手当してやるくらいには。
「分かった?」
握ったままにしているあんよを軽く上下させ、反応を──肯定を求める。包帯越しの前足は、熱いほどに温度があった。
小柄な体躯は小刻みに震え、どんぐり眼が潤みだす。黒い瞳に膜を張るのは、毛先からつたった雨の雫なのか、はたまた涙なのか。
「……はい」
僅かに詰まった声はか細くて、耳を澄ませていないと雨音に掻き消されてしまいそう。
意固地な狐が「はい」と諾ったことに満足し、私は一人うんうん頷いた。
「ん。分かってくれたならいいよ。怒ってごめんね」
微笑んで、手を離す。こんのすけは伏し目がちに「いえ」と言った。ああ、怖がらせてしまったか。怒っていたとはいえ、トラウマ持ちの小さな狐に可哀想なことをしたなあ。結構怒鳴った気がする。うひゃー、申し訳ない。
「ごめん。もう怒ってないから。あんまり気にしなくていいよ」
返事はない。屍のようだ。……ってそれはドラクエだ。
無言の狐にもう一度謝り、そそくさと畳間に上がる。しばらくそっとしておこう。
さて、では何をしようか。夕飯の支度にはまだ早い。ネットサーフィンか、読書か、昼寝か──。
「お手当、ありがとうございました」
不意に、しとしとと鳴る雨の音に混じって、こんのすけからのお礼が聞こえた。割りとはっきりしていて大きめの声だったから、少し驚いてしまった。
「えっ、いや、包帯巻いただけだし、いいよいいよ」
そう言って振り返った私が見たのは、こちらを真っ直ぐに見据える小さな狐。姿形はなんら変わりないが、その黒い瞳に怯えはない。目に宿った光に惹き込まれ、私は視線を捕らえられた。そうして、絡んだところから融解していく。何かが。
「深く、感謝致しております。……主様」
たったそれだけの言葉が、妙に心に響いた。
語気も、声音も、これまでとは丸っきり異なっていて、水面に広がる波紋のように、瞬く間に五臓六腑にじんと沁み渡る。
ゆっくりと下げられた頭は、地に鼻先が付いてしまいそうなほどで。
溶けていく。溶けていく。何かが。
「ううん、いいって」
こんのすけも、そしてまた、私も、心の奥で何かが変わった。そんな所感が芽生え、自ずと声が漏れる。考える間もなく、思ったことを、そのままに。
「これからも、よろしくね」
耳朶を打ったのは、ひどく優しい自分の声だった。どうやらこんのすけだけでなく、私も溶けてしまったようだ。
純粋に嬉しくて、だけどむず痒くて、でもやっぱり嬉しくて。無意識のうちに頬がだらしなく緩む。
私たち、きっと上手くやっていけるだろうな。これからは。
何の確証もないけれど、そこはかとなくそう思った。
「はい」
上げた顔の、鼻の頭に土がついている。小さな狐の不自然に歪んだ口元は、笑っているようだった。
*
その日の晩、こんのすけの怪我について斉藤さんに報告した私は、式神(こんのすけ)の傷が審神者(わたし)の力で治せるということを知った。「審神者の力で式神の傷が癒える事は、こんのすけも承知のはずです」だと。
すぐさま土間で丸まる狐を呼びつけ、小さなあんよに力を送れば、抉れていた肉球はあっという間に塞がった。疼いていた痛みもなくなったとのことだ。
うん。めでたし、めでたし、なんだけどね。
傷を治したのち、「手っ取り早い方法があるなら教えといてよ」と私がこんのすけにお説教を食らわせたのは、無理もない。
罰として、今後一切の食事と睡眠を一緒にとるよう申し渡してやった。へへへ。