雪解け - なんとはなしに

45


 薄闇の被さった顔。長い前髪の間には皺が見えた。三日前にもあった谷だ。
「どうしたの? 黙ってちゃ分かんないなあ。何かあるならなんでも言って。ね?」
 両の太腿に手を置いて体を前へ倒し、中腰で「いまのつるぎ」と視線を交わす。口から出た自分の声は柔らかく、話し方はゆったりとしていた。子供扱いにならないようにとは思ったが、なんだかそれっぽくなってしまった。
「……」
 彼は押し黙ったまま、いよいよ深く俯いた。がっくりと頭が垂れ、もう目を合わすことは敵わない。
 寒くて、静かで、仄暗い冬の庭。私は返事の催促を我慢し、忍耐強く待つ。無視されたことにも、待たされていることにも、苛立ちはない。どんなに待ってでも知りたかった。この子がどうしてここへ来たのか。今何を考えているのか。
 明度が低くなってゆき、空の紫が桔梗の花の色になる。あの子の腕が音もなく動いた。折り目のついた袴がするすると手繰り上げられ、細い足が露出してゆく。その肌は発光しているみたいに真っ白だった。
 白く滑らか。つるつるしていそうな皮膚。それがどこまでも続くのかと思えば、そうではなかった。
「あ……」
 左膝に凹凸がある。酷くはなくも、ひと目で傷だと分かった。
「怪我したの?」
 ポケットから携帯を取り、しゃがんでそこを照らす。膝小僧には赤い血がべたりと付着していた。ごく最近できたであろう、新しいものだ。だらだらと流れてはいないが、血は傷に蓋をするようにして滲んでいる。
 逆転した身長。私より高くにある短刀の頭が、こくんと頷いた。
「痛い?」
 一拍ののち、また彼は首を縦に振る。
「ここ、ぶつけたの?」
 今度は否定の首振り。
「じゃあ、転んだりとか?」
 次に肯定の頷き。
「そっか……ちゃんと洗った?」
 うーん、これは否定。水で流してないのか。土や砂利はついてなさそうだけど──。
「え、洗わないとだめだよ。ばい菌入っちゃうよ」
 余計なお世話ながらも、軽はずみで溢してしまった。でもそうでしょ。ちょっとした怪我でも雑菌が悪さすると、膿んで治りが遅くなる。腫れたり、熱が出たり、ヤなことだらけだ。
 あ、もしやこの子。治してもらいに来たのかな。
 血塗れの膝に気を取られていた私だったが、冷静になって考える。
 いや、「治してくれ」とは言われてないけど、私に傷を見せてきたんだし。……だよね? 違う?
「……治そうか?」
 この前も同じことを聞いたな。大男の後ろに隠れる彼に。その時は「良い」とも「嫌」とも返ってこなくて、だけど擦り剥けた肘が突き出たまんまだったから、治してみたんだった。
 さあ、今宵はどうだろう。
 蹲った体勢で神様を見上げる。桔梗色の空をバックに、一振りの少年付喪神。私の気のせいでなければ、眼と眼が交錯した。「いまのつるぎ」は依然閉口している。袴は捲られたままだ。
「黙ってるなら前みたいに治しちゃうぞー」
 冗談めかして言う。やはり回答はなかった。剥き出しの傷が代理で返事をしてくれたら解決するのに。
 んー、迷うなあ。また「うんともすんとも」。けどどこにも行かずにいるし、怪我も見せてくれてるし、これはあの時に倣ってもいいの? はあ……治していいのか悪いのか……でも嫌だったら逃げるよね? 私に傷を公開しに来たりなんかしないよね? 治して欲しいけど「治して」って口にするのが嫌とか、プライド的な? お前察せよとか思われてたりして。ああー、わかんない。
 ともあれ、短刀の怪我を治療してもいいかを相棒に問い合わせておかねば。三日前が良かったから大丈夫かな。
 携帯をポケットへ落として立ち上がり、離れの方へ声を張った。
「こんちゃん、こんちゃーん! この子、膝擦っちゃってる。前みたいに治してもいい? おんなじくらいの怪我ー」
 戸口の敷居をぴょいんと飛び越え、駆け寄ってくる管狐。こんな遠くで次から次へと言ってしまったが、聞き取れただろうか。
「今剣が怪我を?」
「うん」
「ふむ。傷の深さを診てみましょう。浅ければ主様のお力のみでお治しになられても構いません」
 杞憂だった。私が説明し直さずとも、こんのすけは全て存じ上げていた。獣の耳が持つ聴力は優れたるものだ。
 小さな狐が子供の造りをした神様のもとへ近付く。「いまのつるぎ」が微かに身体を引いた。私が彼の傷を見ようとした時はそんなことしなかったけど……ああ、こんのすけがすたすた迫ってきたからびっくりしたのかも。
「大丈夫だよ。見るだけだからね」
 安心させるべく言うが、「いまのつるぎ」は管狐を睨んでいる。強張った表情だった。嫌そうではあれど退避はしないので、うっすらとした夕闇の中、この子の怪我が見えやすいようにと、私は再び携帯の光を膝へ当てた。
「転んだんだって」
 血の付いたそこをまじろぎもせず眺め回すこんのすけへ、私の知っていることを教える。
「……転んで出来た傷、ですか」
「うん。痛そうだよね」
「──今剣、これは」
 こんのすけが付喪神の顔へ目を移す。すると、「いまのつるぎ」の面持ちが取り分け不機嫌になった。刃物の切っ先のような、子供らしからぬ双眼。私の相棒はギラギラと睨みつけられていた。
 えっ、どしたの? こんちゃん別に変な事してないよね? 何が嫌だったんだろ。
 この子の変わり様に少し驚いて、相棒と彼とを見つめる。狐がふすーっと、太い息を鼻で出した。
「主様、傷は軽うございます。手入れに支障はございません。あなた様のお力で容易く癒やせましょう」
 私を仰ぐこんのすけは、何事もないかのように穏やかで。うーん、いつものこんちゃんだ。
「あ、うん」
 許可が出たため付喪神に向き直れば、顔を上げた「いまのつるぎ」と瞳が絡む。分厚い鉄板を射抜いてしまいそうな眼光は大人しくなっていった。……なんだったんだろう。引っかかりを覚えるも、こんのすけに「さあ、どうぞ」と一声かけられ、聞くに聞けなくなってしまった。
 なんなのかなあ。まあ、今回もお手軽手入れのオッケー貰ったし、しゃっと治そう。
「時に主様。竈の火は風前の灯火になっておりますが……」
「え、まじか。あー、だよねえそうなるよね。いいよいいよ、また火打ち石カンカンする」
 放置していた竈の行く末など分かり切っている。薪を足してないので仕方がない。今日は戦闘で力を使ったから、お腹はすんごく減ってるけど……火起こしは帰ってすりゃあいいさ。先にこの子を治すのだ。
「ねえねえ、前みたく治してもいい? 覚えてるよね、三日前」
 神様の正面に屈む。こんのすけが私の隣へ腰を下ろした。「いまのつるぎ」の唇は閉じていて、開かれる気配はない。
「あれ、まただんまり?」
 じっとしている短刀の神様。私は彼の動向に注意を払いながら、「黙ってるなら治しちゃうよ」と最後の通知をする。
「嫌なら逃げてね」
 逃げ道を残すことを忘れず、携帯で照らした膝へ左の掌を翳し、そうっと力を送った。治れ、治れと一心に祈る。完治に時間は要さない。
「……はい、終わりー」
 たかだか数秒で終わる手入れ。痛々しい傷のなくなった膝小僧は、つるりとした白い皿のようだった。彼の擦り傷が治ったのを確かめ、私はその場で身を起こす。ライトを消した携帯もお役御免。ポケットに滑り落とした。
「綺麗になったね。色白さんだから、怪我があると目立つねえ」
 そう言って笑えば、自分の膝を覗き込んでいた「いまのつるぎ」が俊敏に前を──私を見た。零れんばかりに目を瞠って、心底驚愕したかのような顔をしていた。
 わ、やば、地雷踏んだ? 馴れ馴れしかったかな。謝ろうか。
 不安になったが、彼は詰りも怒鳴りもしてこない。
「──っ」
 短い気息が聴こえる。顔中をくしゃくしゃにした彼の、袴を掴む手が放された。衣擦れの音がし、脛までが隠れる。
 泣きそうな顔だと、思った。
「ごめん嫌なこと言っちゃっ」
 言い終わらないうちに腕が伸びてきた。私より短く、ほっそりとした腕が。
「わっ、え」
 あっという間だった。視界の端でこんのすけの尻尾がぴくっと揺れる。黄色と白の、可愛い尻尾。
「いまのつるぎ」の二本の腕はするりと私に巻き付いており、痩せた体がぴったりとくっつく。透明な膜の内側、彼と触れ合っている部分の下で、肌がぞわりとした。
「ど、どうし──」
「あなたなんて、きらいです」
 どうしたの。と伺う前に、神様が「嫌い」と言い捨てて。だのに、私を捕まえている腕の力がぐっと強くなる。虫が這うようなぞわぞわ感も増した。
 ──三十センチの間隔。防壁の上から抱きつくこの子は、顔を下に向けている。結界に帽子ごと頭を押し付け、「きらいです」と、もう一回言葉を吐いた。
「嫌い」だとか言うくせに、ひっつくことを止めないのは、なんでだろう。
 この子は今、どんな表情をしているんだろう。
 泣いてはいないかな。辛いのかな。
 突飛な言動に面食らったが、彼の境遇や先日のやり取りを考えると、なんとなく「いまのつるぎ」の縺れた心が視えたような気がして、私は何も言えなかった。謗られたのに反発心すらわかなかった。不快でもない。
 足元のこんのすけは騒がずにお座りしている。聡い狐も、たぶん分かっているのであろう。だから尻尾ビンタが炸裂しないのだ。
 ぎゅうぎゅうと、蛇に締め上げられているんじゃないかってほどにしがみつかれ、どうしよう、どうしてあげたらいいのだろうと悩む。
 落ち着かせつつ、少し離れようか。
 僅かに動くと、刀が声を震わせた。
「どうして、さいしょにきてくれなかったんですか」
 ぐっさりと胸が貫かれる。それは今更言っても詮無いことで、言われた私もどうすることもできなくて、だけど心は痛かった。
 ああ、辛いんだな。すごく辛いんだな。やっぱり「始まり」を悔いてるんだな。「もしも」を考えちゃってるんだな。
 伝わってきた彼の苦衷に、体が張り裂けそうになる。気持ちを共有しているかのような、心の断片が解ったような、とにかく悲しくて、切なくて。
「……ごめんね」
 結界は解けず、抱き締め返せない私だったが、この細腕を振り払うなどできなかった。
 苦しいまでの抱擁を、されるがままに受け入れる。優しい顔した薙刀が迎えに来るまで、私は彼の傍に居た。

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