雪解け - なんとはなしに

46


「あの日」を忘れたい私。
「最初」を憾む彼。
 神も人も関係ない。私たちはひどくよく似ていた。過去に囚われている、という点で。

 *

「ここに居たか、今剣」
 薙刀が──「いわとおし」が現れたのは、空の星がチカチカと自己主張を始めた頃だった。
「なんだ、どうした? 審神者殿にへばり付いて……まるで生け捕りだな、がっはっは」
 口をがばりと開ける大男。笑い方こそ豪快ではあったが、顔つきは温和で、声音はふんわりとしていた。黒い手袋をはめた手が短刀の肩へ置かれる。慈しむような仕草だった。
「一振りでも会いに来れたではないか」
 彼が言うなり「いまのつるぎ」は私から離れ、薙刀の屈強な体に抱きつく。素肌のぞわぞわ感がふっと消えた。
「俺の出る幕などなかったな」
 小さな付喪神を優しく受け止める「いわとおし」。年の差兄弟みたいな彼らをぽけーっと見ていると、足元のこんのすけが喋りだす。私と短刀に代わって簡潔な説明をしてくれたのだ。
「そうだったか。今剣が世話になったな、審神者殿。うむ……また借りができてしまったなあ」
 事の次第を知った薙刀は目尻を下げ、短刀の後頭部をゆるゆると撫でた。
「ううん、前と同じでただの擦り傷治しただけだよ。借りはなし」
「貸し借りすら拒まれるとは、寂しいものよ」
 先日を思い起こさせる、拗ねたような台詞。ちょこっとだけ悪戯心が疼いて、きっと、私の目は意地悪く光った。
「ふーん? いいの? そんなこと言って。借りにしちゃうと後が怖いかもよー? 三倍返しとか、十倍返しとか、百万倍返しとか」
 もちろん、本気ではない。単なるおふざけだ。さあ「いわとおし」はどんな──。
「応、構わぬ。何百でも何千でも倍にするがいい。きっかりと返そうぞ!」
 え、う、嘘! 真に受けちゃった!
「えっちが、今のは冗談なんだけど」
「はーっはっはっは、分かっておるわ」
 ……うぐっ、からかったつもりが逆にしてやられた感じ。私が焦るハメになるとはなあ。「いわとおし」め。
「だが、恩義に報いたいという心は常にある。いつかは返させてくれ。審神者殿」
 胸の内でちょっぴり悔しく思っていると、彼の目元がきりりと引き締まる。濁りのない瞳だった。
「あ……うん。でも、いいのに。ほんと。そんな大したことじゃ」
 戸惑ってしどろもどろになりかける私。薙刀は「そう言うな」と笑い、短刀を片腕で抱き上げた。
「そうら、帰るぞ今剣」
 子供の姿をした付喪神が彼の巨躯をよじ登る。小さな「いまのつるぎ」と大きな「いわとおし」。木登りしているみたいだった。
「礼は言ったのか?」
 短刀は薙刀の首に跨っている。立派な肩車だ。「いわとおし」は右手で本体の長物を持ち、左手で「いまのつるぎ」の足を把持していた。
「いや、いいよいいよ。私が勝手にやったんだし」
 謝辞を述べるよう促す彼へすかさず言う。前回と同じく、この子は黙ったままだろう。お礼の無理強いは良くない。嫌々の「ありがとう」も嬉しくな──。
「ありがとう、ございました」
 大男の頭の上から降ってくる年若い声。語気の弱い、しおらしいものだった。
 この子が喋った。「ありがとう」と言った。私に。
 驚きで反射的に首が伸びる。見上げた「いまのつるぎ」の表情は夜の陰りで分かりづらく、彼がどんな心持ちで「ありがとう」と言ったのか窺い知れなかった。「いわとおし」の働きかけあってのことだろうが、渋々かもしれない。けれど、怒気はないように思える。……まあ、勘なんだけど。
「ううん、いいんだって。また怪我したらおいでね」
 ひらひら手を振れば、短刀の付喪神はこくりと首を縦に振る。そんな彼の様子にちょっと微笑ましくなってしまった。近所のお姉さんになった気分だ。
「良かったな、今剣」
 にこやかな薙刀へ、「いまのつるぎ」は頷きの返事をした。「いわとおし」からは見えていないような気もするが、大男は笑顔で短刀の足をぽんぽん叩いている。
「では、審神者殿。我らはこれで」
「あ、うん。じゃあねー」
 別れの挨拶をすると、こんのすけがお尻を上げて四足になった。霜枯れた草地を二歩三歩と進み出て、彼の名を呼ぶ。
「今剣」
 やや硬い、真面目なトーン。方向転換しようとしていた薙刀の足が止まる。少しの間を置き、管狐は「もう傷は作らぬように」と説くように言った。この子を心配してのことではあろうが、私は「ん?」と思ってしまった。
「こんちゃん、それは難しいんじゃない? 生きてたら怪我の一つや二つはできちゃうよ。私だって指切ったり、針刺したりするし」
 横槍を入れてしまう。傷を作らないように、って、そりゃあ無理難題だ。「大怪我するな」ならまだしも、ちょっとした刺し傷、切り傷、擦り傷をゼロにするのはさあ。
「ですが、無いに越したことはありません」
「うーん、そうなんだけど……」
 相棒の言いたいことは分かる。どんなに浅くとも、小さくとも、怪我は怪我。ない方がいいに決まってる。でも、現実的ではなくて、腑に落ちない。こんのすけはなんでこんなこと言ったんだろう。
「ううむ、遊びも程々にせねばならんな、はっはっは!」
 もにょもにょしている私をよそに、薙刀がガハガハと天を仰いだ。背を反らす彼の頭を抱えた「いまのつるぎ」は、顔の角度からしてこんのすけを見下ろしているようだった。こんのすけも鼻先を空に向け、短刀を直視している。一振りと一匹の間に言葉はない。
 笑いを収めた「いわとおし」がぎゅっと踵を回す。彼に肩車されている「いまのつるぎ」もくるりと反転した。御殿へ帰る二振りをしばらく見送り、こんのすけへ「戻ろっか」と声を掛ける。一段落したせいか、脳が空腹感を訴えてきた。私の胃は空っぽなのだ。
「はあ、お腹空いたー」
 周囲は暗い。夜空の星を一瞥して振り返る。離れの戸口から漏れる明かりにホッとした。「おいでおいで」と誘い込んでくる我が家の灯火は、もはや家族同然。
 晩ご飯、まだ出来てなかったなあ。竈の火は消えてるだろうなあ。火起こしし直すの面倒だなあ。
 あれやこれやと考えながら歩いて離れに入り、調理を続行する。空腹がスパイスになったのか、あの子の「ありがとう」が隠し味になったのか、政府支給品の牛肉が高級だったのか──いつもより遅い今夜の夕飯は特別美味しく感じた。

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