雪解け - なんとはなしに

51*


 肌寒い冬の曇天。灰色一色の空。今朝はそんな天気にふさわしい出来事ばかりであった。
 束の間ではあるが最愛の主との別れ、余計な勘繰りをする山姥切長義とのいざこざ……どちらも良いものではない。寂しさと怒りと疲労感が胸を満たし、管狐の心はというと、重苦しい空と同じくどんよりしていた。
 けれど、今剣の変化を見受け、気持ちが少し軽くなる。喜ばしさに尻尾を揺らし、管狐はとてとてと廊下を曲がった。ここを直進すれば玄関だ。最寄りの縁側から出る道もあったのだが、今日は玄関から上がり込んでいたため、帰りもそうしようと考えたのであった。
 すれ違う神と挨拶を交わしながら帰路を歩き、玄関のある土間に差し掛かった管狐。上がり框を降りて式台に乗った彼の耳に、たん、たん、たん、と忙しそうな足音が入ってきた。音の響きからして短刀ではない。成長しきった体を持つ神でもない。重すぎず軽すぎず、体格は脇差あたりだろうか、と管狐は予想する。その音は管狐を追うように後に迫ってきていた。
 足音が大きくなる。距離が縮まる。管狐は振り向くよりも先に、誰が走っているのか識別した。鼻で匂いを嗅ぎ取ったのだ。
 周りには他の刀の匂いもあったが、濃くなっているのは彼の──鯰尾藤四郎の匂いのみ。
「こんのすけ」
 切羽詰まったような声がして、管狐はゆるりと振り返る。狐の側まで来た鯰尾藤四郎は硬い顔をしていた。何か思い詰めでもしているのか、と思わせるような表情だった。
「なんです、どうしたのですか。そのような顔をして」
 ただならぬものを感じた管狐は髭をピクピクさせる。もしや鯰尾藤四郎も主人の行き先を疑っているのではないかと推量するも、そうではなかった。
「……あの人、ちゃんと戻ってくるよね?」
 晴れぬ面持ちで重々しく言った粟田口の脇差。
「それは──どういった意味合いの問いでしょう」
 意表を突かれて瞠目し、管狐は聞き返す。何故そのようなことを尋ねてきたのか……質問の意図が掴めなかった。
 今、この板の間には管狐と鯰尾藤四郎しかいない。しかし、両端に一本ずつある廊下のうち、脇差が通ってこなかった方から別の刀の匂いがじわじわと強まってきていた。微かな物音もある。姿は見えないが、近辺にいるのだろう。
 管狐か鯰尾藤四郎に用があるのか、通りすがっただけなのか。そちらに意識を向ける管狐であったが、脇差が話し始めたため気が逸れる。
「そのまんま、だよ」
 鯰尾藤四郎はそっと目を伏せた。頬に睫毛の影が落ちる。懊悩しているからか、彼は周囲の気配にまで気が回っていない。近付いてきている刀の存在も、無論察知できず。
「外に出たあの人が、またここに戻ってくるかどうか」
 言葉を切った脇差の顔には憂色が湛えられていた。
「あっちに行ったっきりで、二度とこっちに帰ってこないなんてことは……ない、よね」
 語尾になるにつれ弱々しくなっていった声。最後の方は消え入りそうだった。管狐は暗澹とした雰囲気を纏う脇差から漠たる不安を感じ取る。狐の黒い瞳の中にいる鯰尾藤四郎は、いつもよりもうんと小さく、辿々しく見えた。風の一吹きで彼方へ飛んでいってしまうのではないかと思うくらいに。
「……あるわけないんだろうけど、戻ってこなかったらどうしようとか──思っちゃって。あの人が二泊するの、初めてだし」
 鯰尾藤四郎は頬を引き攣らせて笑った。ぎこちなく、無理やり作ったような笑みだった。
 彼の口振りは主人の不在を喜んでいるようなものでも、主人が帰ってこないことを願うようなものでもなく。その反対で、女の外出を気に病み、失踪を案じているともとれる発言だった。
 事あるごとに女へ罵声を浴びせ、近寄ろうものなら刀を抜いて斬りかかっていた脇差。だがそれは春と夏までのこと。
 秋の終わりには罵倒がなくなり、冬に入っては時々会釈をされ、敬語を使われるようになった。主人からそう聞いていたので、管狐は鯰尾藤四郎の変容を知ってはいた。主人と挨拶をする鯰尾藤四郎も実際に見ている。けれど、ここまで変わっているとなると、驚きを禁じ得ない。さながら別人だった。
「心配せずとも主様は必ずお戻りになられますよ。どうしてまた、そのようなことを」
「あー……なんとなく、ね。ちょっと気になっただけ」
 管狐に問われ、脇差はわざと明るく微笑んだ。本当は「なんとなく」などではない。彼は危惧していたのだ。
 審神者は自分たちに嫌気が差して出て行ってしまったのではないか。
 女が二泊三日の旅に出たと聞き、鯰尾藤四郎はまずそれを考えた。政府本部がどうの悪巧みがどうの、そっちのけだった。
 ネガティブな考察の理由は疚しさが大半だ。鯰尾藤四郎には負い目がある。己が昔彼女にした邪険な仕打ちを思えば愛想を尽かされていてもおかしくはないと、彼は考えていた。
 女は春も夏も秋も冬もずっと平然としていて、刀剣男士へ恨み言を言ってきたり、責め立ててきたりもしなかった。ここを離れる素振りも見せてはいなかった。だが、実のところは分からない。
「旅行」というのが建前だったとしたら。
 女が自分たちと関わることに倦み疲れて行方を晦ましていたら。
 鯰尾藤四郎は思い悩み、居ても立っても居られなくなって管狐を追いかけたのであった。
「そうですか」
 脇差に何か気掛かりがありそうだと思いつつも、深くは訊ねない管狐。言いたくないのであれば今は立ち入らないでおこう。そう決めて、管狐は浮かない表情の鯰尾藤四郎を安心させるべく口を開いた。
「何であれ、あの御方は絶対にこちらへお帰りになります。我が主は責務を放棄し出奔するような方ではございません」
 力強く告げ、管狐はニンマリと笑う。
「それに、この私がいるのです。あなたもご存知でしょう、主様の私の溺愛ぶりを。主様が私を置いて消えるわけがございません」
 ユーモアを添えた狐の茶目っ気たっぷりな双眸。悪戯っぽい笑顔につられ、脇差もほんの僅かに口角を和らげた。
「どうだか。もう帰ってこないんじゃない?」
 突然、彼らの横から声が飛ぶ。刺々しく冷たい言様だった。
 会話をぶち壊すような第三者の台詞。脇差と管狐は絶句し、声のした方を向く。加州清光が板の間と廊下の境に出てきていた。一匹と一振りの話を聞いていたらしい打刀に表情はない。冷淡な顔だった。
 凍てつく視線が管狐に刺さる。真紅の瞳は昏かった。
「こんのすけさあ、随分自信があるみたいだけど──」
 気怠げに壁に凭れ、加州清光はふう、と息を継ぐ。
「いつかお前も捨てられちゃうかもよ。花子みたいに」
 言い放つだけ言い放ち、打刀は壁から体を離して歩きだした。反論の余地も与えず廊下に消える加州清光。呆気にとられていた管狐が「何を戯けたことを」と憤り、言い返そうとした時には、彼はとうに去ってしまっていた。
 加州清光は棘だらけの茨のようだった。前々から彼の態度に目を配っていた管狐は確信する。
 この打刀は主人を良く思っていない。
 管狐が違和感を覚えたのは、審神者が御殿に家具や生活用品を持ち込んだ日辺りからだった。それまでの加州清光は、主人に対して極々普通だったのだ。顔を合わせば話もするし、地味な作業の庭仕事も眺め、「爪が綺麗」と褒められれば照れ臭そうにして。秋には爪紅ももらっていた。それが今、加州清光は彼女と接触を持っていない。遠くで見ているのみで、その目はどこかよそよそしい──否、嫌悪を孕む氷点下の眼差しだった。狐の主人も彼の挙動を気に留めてはいる。
 何が加州清光をそうさせているのだろう。何があってすげない振る舞いをするようになったのだろう。
 管狐は疑問に思っていたが、つい先刻の言葉にヒントを得た。主人が花子を捨てたと決めつけているような加州清光の物言い。主人がお土産にと陸奥守吉行へ渡したダンシングフラワーが関係していることは確かだ。突き詰めてみれば、花子そのものではなく、「主人が私物を手放した」という点が加州清光に負の作用を齎したのではないだろうか。彼は刀に──「物」に宿った神。審神者が「物」である花子を、元は自分が所有していた「物」を他者へやってしまい、気に障ったのであれば? 大切にしていた「物」をあっさり譲渡する人間だと軽蔑した可能性は? 自分もそうされるのではないかと怒り、恐れているのかもしれない。
 これらは全てあくまで仮説。しかしどれか一つでも当たっているとすれば、加州清光が審神者を避け、冷たく睨むのも理解できる。
 打刀を追いかけるべくと右の前脚を上げるも、管狐はそこに踏みとどまった。視界の端にいる鯰尾藤四郎があまりにも沈鬱な面をしていて、そちらの対応をしなければと考えたのであった。
「鯰尾藤四郎。加州清光の無稽な話は捨て置きなさい。主様は間違いなくお帰りになられますから」
 ふんわりと笑いかける管狐。今度は脇差はつられなかった。空笑いすらせず、唇を固く結んでいる。
 この脇差も加州清光の茨の棘に刺されてしまった。管狐にはそんな風に見えた。
「何ら問題はありません。大丈夫です。大丈夫ですよ」
 管狐が言い聞かせるようにして語りかけると、鯰尾藤四郎は張り詰めた顔のまま、「そうだね」と返事をする。声に覇気はなかった。
 小さな狐に鼓舞されたが、鯰尾藤四郎の心にかかった靄は晴れない。打刀の「捨てられちゃうかも」というワードが胸につかえ、もやもやする。
『主様が私を置いて消えるわけがございません』
 と、管狐は言った。きっとそれはそうなのだろう。管狐に信頼を寄せ、大層可愛がって大事にしている彼女がこんのすけを置き去りにするわけがない。
 では。
 ……では、ここに居るのが刀剣男士だけであったなら。管狐が居なかったなら。
 あの人は雲隠れしてしまうのではないかと、鯰尾藤四郎はぼんやり思った。
 捨てられるのは、誰だろう。

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