54*
小雨そぼ降る冬の本丸。ひとしきり歓談していた一匹と二振りは、庭を横切る髭切と膝丸を見つけた。
長い散歩に出ていた源氏兄弟。彼らがそぞろ歩きを始めた頃、一時的に雲間から朝陽が差していたが──それは十分ほどだけで、光は再度遮られる。みるみる悪くなりゆく空合に、膝丸は「帰らないか」と兄へ呼びかけた。けれど髭切は「まだいいじゃない」とのんびり散策を続け、とうとう雨が降ってきた。さすがに散歩は打ち切りになり、兄弟は御殿に戻ることにしたのである。
雨に打たれているにもかかわらず、髭切の歩みはマイペースなもので……。先を行く膝丸が急かすも、兄の速度は変わらなかった。
「おーい! お二人さん、こっちで雨宿りしないかー」
管狐を誘った時のように、獅子王が二振りへ大声を放つ。
「いや、玄関から上がろう。もうそこだからな」
御殿の玄関口と獅子王らの座す縁側。どちらも兄弟のいる場所から同じくらいの距離だった。
「気遣い感謝する」
礼を述べた膝丸は後ろを振り返り、「兄者、少しは急ごうとしてくれないか……」とぼやいた。だが髭切の足は速まりやしない。彼はおっとりと微笑んで、ぽつぽつと肌に触れる雨滴の温度や触感を楽しんでいる。
「そんなにせかせかしなくてもいいだろう? 小降りなんだから、濡れ鼠にはならないさ」
「全く濡れないというわけでは──」
「ほらほら、あとちょっとで家に着くよ。歩くなら前をちゃんと向いてね」
「あ、兄者」
「はい、回れー右」
ぴんと立てた人差し指をくるっと回す髭切。弟は何か言いたそうな顔をしつつも、大人しく踵を返した。獅子王たちが二振りを目で見送ると、漣のようなざわめきが聞こえ始める。源氏兄弟と江の刀が玄関で鉢合わせたのであった。
「おー、あっちが騒がしくなったな。玄関に居るの、髭切と膝丸だけじゃなさそうだ」
「篭手切江と豊前江の声か?」
「桑名江と松井江の声もしますよ。江派の刀は裏の広野でれっすんをしていたはずですから、皆、雨で戻ってきたのでしょうねえ」
「へえ。……って、なんでこんのすけが知ってんだ?」
「先程、庭で桑名江と話をした折に耳に入れました。篭手切江がとても張り切っていたそうですよ。可哀想に」
感傷的に目を萎ませ、管狐は雨天の空を見上げた。土砂降りではないにしろ、この雨でれっすんも中止になったのだろう。そう憐れんだ管狐だったが、彼の予想は外れている。
「雨が降っても、外じゃなくても、れっすんはできます! よーし、豪華に大広間を使いましょう!」
「おっ、いいねえ」
胸の前で両手に拳を作る篭手切江。豊前江も乗り気だった。
「ええっ、あの広い座敷で? 蜻蛉切様に叱られないかな……」
大広間での飛んだり跳ねたり、歌ったり。生真面目な槍に咎められないかと冷や冷やする桑名江へ、りいだあの豊前江がウインクをする。
「でーじょーぶだよ。うるさくし過ぎなきゃな」
「音の反響が外とは変わってくるね。声の使い方も変わるだろうか」
松井江は音響に関心を寄せながらショートブーツを脱いでいた。大広間でのれっすんも吝かではなさそうだ。
「屋内すてえじでのあくとを想定した練習をみんなでできるなんて……嬉しくて鼻血が出そう」
「鼻血……やはり、出来る」
鼻を押さえて感極まっている篭手切江が松井江の後に続く。管狐の悲観など何一つ当て嵌まらないウキウキっぷりであった。
これらの会話は狐たちの耳に達していない。一匹と二振りの惻隠の情は、ただの杞憂に終わったのである。
やがて源氏兄弟や江の刀らの声が遠のき、雨音だけがさあさあと歌う。密やかに、庭や縁側に溶け込むようにして奏でられるメロディは、不思議な静寂を生み出した。管狐たちは黙ったまま、雨の庭にぼうっと見入っている。
狐の目の前で、軒先瓦からまた一滴雫が落ちた。垂直に落下してゆく透き通った雨粒。ガラス玉にも似たそれを瞳に映し、管狐は卒然と思う。
──今、ここに居る二振りの刀剣男士は、主人についてどのように思っているのだろう、と。
管狐は怒りを露わにしていた山姥切長義の顔を思い浮かべる。あの打刀は「審神者は謀を企てに政府本部へ行った」と喚き立てた。山姥切長義の憶測を聞いて、他の神々はどう考えたのだろうか。良からぬ波紋が広がっている恐れは十分にある。
自分と打刀が口論していた際、獅子王は仲裁に回っており、どっちつかずであった。御手杵は困ったような表情でおろおろしているだけ。彼らに主人を疑う言動はなかったが、心の奥では疑っているのかもしれない。
雨垂れの音に耳を傾けることしばらく、管狐は聞くか聞くまいか逡巡し、きりりと冷えた空気を吸う。そして、隣の太刀とその隣に居る槍へ、ゆっくりと視線を向けた。
「朝方、山姥切長義がああだこうだと申しておりましたが──あなた方はどうお思いですか」
黒の双眼が獅子王と御手杵を捉える。狐の声は落ち着いていて、けれど、ひとつまみの不安が内包されていた。もしも彼らが主人を不審がっていたら。そう思うとひどく悲しくなる。
「主様のことを、疑っておいでですか」
はっきりと問われ、獅子王と御手杵は僅かに目を瞠り、一様に左を向く。二振りを見つめる狐の瞳は、雨雲よりも暗く翳っていた。
「んー」
獅子王の眉根に皺が寄る。
「あー」
御手杵は閉眼して腕組みをする。
太刀と槍の呻き声。悩ましいとでもいうように、獅子王が腿の上で頬杖をつき直した。御手杵は石像の如く固まって黙考している。
雨はしとしとと降っていて、大地に水が滲みていく。充満するのは雨の匂い。冷たい冬の雨が庭を征服し、我が物顔で漫遊していた。
「……疑ってるか疑ってないかでいうと、微妙だな」
少しの沈黙ののちに雨声を掻き消したのは獅子王だった。「微妙」。その言葉に管狐は頬を強張らせる。
「全然疑ってないとは言い切れねえ。でもこれといった証拠がないし、黒だとも思えないんだよな。あいつ、今になって俺たちをどうこうしようとか考えてなさそうだろ? そういう奴じゃないっつーか……まあ、俺がそういう奴じゃないって思いたいだけかもしれねえけどさ」
厳しい表情をしている獅子王の横で、御手杵が何度か首を縦に振った。
「俺もそんな感じだ。あの審神者が俺たちを苦しめるようなことをするとは思えないが、万が一ってこともあるしなあ」
組んでいた腕を解き、片手でぐしゃぐしゃと頭を掻き回す御手杵。元より無造作なヘアスタイルだった黒茶の髪はボサボサになった。
槍と太刀の意見はほぼ同じのようで、白か黒かを決めかねている。彼らの胸では信じる心と疑う気持ちがせめぎ合っていた。審神者と仲間を天秤に掛け、どちらが正しいのか迷っている。最悪の結果になった時にはどうするか──までは考えていなかったが。
「ただの考え過ぎで終わるのが一番良いよな」と御手杵が零せば、「だな」と獅子王は相槌を打った。
「あいつは前の審神者みたいな人間じゃない。なんかさあ、普通に良い奴なんだよな」
「ああ。見返りなしで手入れしてくれて、その後も俺たちを無理に使おうとしない。恩着せがましくもなけりゃ偉そうでもなく、自由に過ごして欲しいと言ってきたり、家具を用意してくれたり──変わってるよなあ」
彼女は先の審神者と何もかもが異なっている。認め、理解し、獅子王と御手杵は女に対する態度を軟化させていった。彼女への評価も徐々に上がっており、今や好ましく思うほどだ。管狐が本丸を空ける日には、一人になった審神者が寂しくないか気にして声を掛けていた獅子王。庭で会う度、友にするように気さくな笑顔を送っていた御手杵。二振りとも、新たな審神者に心を許し始めている。
「穢れを祓って家の掃除をしたのもあいつだろ。っと、こんのすけもか。ありがとな、何日もかけてここを綺麗にしたって蛍丸に聞いたぜ」
「いえ、私は些細な手伝いしかできず……主様のご奮闘あってのことです」
管狐は肩の力を抜いて頭を振る。あやふやな回答であれども、二振りに一方的な思い込みや偏見はない。それが分かり、狐は若干安堵した。
「けどよ、長義の気持ちも分からないでもない。俺だって、『もしも』を考えたりもする」
対価を求めるわけでもなく全刀剣の手入れをし、「戦わなくてもいいから毎日を楽しんで」と言った審神者。彼女は「時の政府が刀らを害さぬよう約束を取り付けてくる」と宣言した。口だけでなく実行もした。そうして、「神々を自分が守る」と敢然として謳った。あの時、女の想いに魂を震わせた刀も多い。
「前の審神者とのことがあってみんな人間が嫌いになってたし、信じられなくもなってただろ? ……俺もさ、まだたまに思うぜ。あいつが本当はあの男みたいだったら、とか、化けの皮被ってんじゃねえか、とか」
自分たちと向き合ってくれている彼女が今更手のひらを返すとは思えず、だが、だからといって山姥切長義の弁論を「神経質」だと切り捨てられはしなかった。
「そうですか……」
気を落とし、管狐は庭に目を逸らす。獅子王は山姥切長義のように苛烈な怒りや疑念を抱いてはいない。しかし、主人を信じ切ってもいない。やや残念ではあったものの、反論する気にはならなかった。彼らの複雑な思いには共感できるところもあったからだ。管狐もそう──女と打ち解けるその日までは、人を、主人を信じていなかったのだから。
「あなた方の身の上を考慮すれば、不安や疑心が拭い切れないのも仕方ありません」
狐は反省する。もっと山姥切長義の心を斟酌していれば良かったと。自分は冷静だと思っていたが、今考えるとそうでもなかった。きつく反撃し過ぎたかもしれない。俯いた管狐の隣の隣で、御手杵が溜め息を吐く。
「いつまでも疑ってちゃだめだってのは、分かってるんだけどなあ……『心』ってやつは難しいよな」
管狐も細い息を漏らした。然り、心とはげに難儀なもの。
「まあなあ……」
槍から始まった溜め息が移ったのか、はあ、と、獅子王も大息をつく。どこか辛気臭いオーラが漂い、各々物思いに沈んでいたが、幾許もなく太刀が動いた。
「……よし!」
頬杖をやめ、彼は己の太腿を叩く。ぱん! と小気味良い音が鳴った。
「どうせあいつを待つしかないんだし、もうこの話は終わりにしようぜ」
獅子王の表情は太陽に引けを取らないくらいに明るい。彼は重い空気を吹き飛ばすかのように破顔していた。
「でさ、話戻るけど──あいつは晴れと雨、どっちが好きなんだ?」