58*
冒頭に話された情報を筆写すべく、二冊の帳面を抱えそそくさと自室へ帰っていった打刀。聞き逃しや書き漏らしがないか、お互いの帳面を照らし合わせたいと考えた薙刀は、部屋を辞去して打刀の後を追った。残った槍や太刀は管狐とわいわい談話し、それを剣が傍で聞く。
ややあって、縁側に光が差した。もともと小降りだった雨はよりまばらになり、空が明るむ。雲の切れ間から注ぐ天の梯子が、二つ三つと山々へ降りていた。空と大地を繋ぐかのように。
「近々、雨も止みそうですね」
管狐が薄雲鼠の天空を仰ぐと、獅子王や御手杵も同じように首を伸ばした。神秘的な光芒は皆の視線を掻っ攫う。狐だけでなく刀剣たちも晴れの兆しを予感した。
どんどん薄れ、煙のようになっていく雲。地上に広がる陽光。管狐の見込みに違わず、雨は上がった。雨宿りももう必要ない。
「……止んだな」
「ええ。陽が顔を出しました。良い天気になりましょう」
眩い白日に目を眇めたのち、管狐は座ったまま尻を回して神々に向き直る。雨は止んだばかり。地面は濡れ、草葉に雫もついているが、乾くのを待っていては時間が掛かる。狐は昼飯時になる前に離れの裏庭も見ておきたかった。
「私はあちらへ戻ります。まだすべきことがあります故。皆々様、楽しいひと時をありがとうございました」
暇を告げた管狐の頭が深々と下がる。謝意を表した狐へ、槍と太刀が笑顔を贈った。
「おう、またな! いつでも来いよ」
「俺たちも楽しかったぜ。ありがとな」
二振りの後方では白山吉光がしずしずと礼をしている。彼なりのさようならだ。肩の上に立つ白い狐も折り目正しく会釈した。
「はい。では御機嫌よう」
ひらり。黄と白の尾を靡かせ、管狐は軒下へと降りた。湿気で若干膨らんだ尻尾が小さく揺れる。庭の中ほどまで進み縁側を振り返った彼は改まって一礼し、前を向いた。歩みを速め、もう後ろは見ず、一直線に離れへ前進。湿った土や水滴に潤んだ芝が桃色の肉球と白い毛を濡らす。水たまりやぬかるみはなかったが、狐の脚は泥で汚れた。今ここに主人がいれば、「足が汚れちゃう」と言って甲斐甲斐しく彼を運んでいただろう。しかし今日は抱き上げてくれる温かな腕も、泥を丁寧に拭ってくれる優しい手もない。遠くの地で家族水入らずの旅を満喫しているであろう主人を想い、心に寒風が通るような寂寞を覚え、狐は無事の帰還を祈った。
離れへ着いた彼は土間を突っ切って裏庭に出る。竹垣に沿って植えられた椿の生垣、樹齢の若い梅や松、夏に大蛙の住み着いていた池庭──どこか変わったところはないか警備員の如く巡視にあたり、異常なし、と踏石に尻を下ろす。軒下から見渡す雨上がりの裏庭は美しかった。雫が太陽に反射して、どこもかしこもキラキラしている。
午前の務めは済んだ。離れの中ではつい今しがた壁掛け時計が十二回鐘を鳴らし、管狐に昼を報じる。ランチタイムにするか考えた狐だったが、今日はあのいざこざがあって遅い朝食だった。腹もそう空いていない。半刻ほど後にしてもよいだろう。となれば、昼飯まで時間ができる。さて、何をしよう。主人のため自分に出来ること、すべきことはないだろうか。
むむむ、と、管狐は髭を震わせた。ただの暇つぶしをするなら簡単だ。御殿で相手をしてくれそうな刀剣と話をするなり、庭を逍遥するなり、主人の本や雑誌を拝借するなり、どうとでもなる。だが「主人に還元できる何か」となると……。
懸命に思慮を巡らせることしばらく。良い着想がわいた。閃きを宿す狐の黒い瞳は竹林へと向けられる。
うむ、主様が安全に材料集めをできるよう、下調べをしておきましょう。刀剣男士に頼り切りではいけません。
ふんす。管狐は意気込んで鼻息を漏らし、プランを立てていった。山麓を時計回りに探索するのだ。開始地点は竹林の奥、終点は水楢の森。以前主人と歩いた道順である。めぼしい成果がなければ別の場所も視野に入れてもよいかもしれない。
クリスマスパーティーで部屋に飾るクリスマスリースを作ろうとしている女は、その資材を自ら収集するつもりでおり、先日、下見と言って狐を連れ山の境目まで出向いていた。そこまでは何ら問題なかったのだが、なんと彼女は軽装のまま未開の山に分け入ろうとしたのである。管狐が強く止めたため無謀なハイキングは阻止されるも、女は山での材料集めを諦めていない。管狐は主人の頑固な一面を知っているので、リース作り当日に「大丈夫大丈夫!」「危ないとこには行かないから!」「ちょっとだけだし!」などと、強行突破されやしないか恐れていた。
主人の望みは叶えてやりたい。けれど、主人を危ない状況に遭わせたくはない。山は自然の宝庫であると同時に、危険が潜む一帯なのである。
狐は祢々切丸や山伏国広に同伴してもらおうと考えていた。もし女が嫌がったとて、そこは譲れなかった。主の御身を思えばこそだ。山に詳しい彼らになら案内を任せられる。滑落、転倒、遭難……万に一つ不測の事態が起こった場合も、刀剣男士が一振り居れば何とかなるであろう。この矮小な体では主人を抱いて運ぶことも主人を守ることもできないのだから。
祢々切丸と山伏国広への協力要請は、狐の中でほぼ確定事項だった。だが彼らにおんぶに抱っこというのは如何なものか。ちっぽけな狐の体でできる働きは限られているが、せめて歩きやすそうなところを探しておこう。
思い立ち、管狐はすくっと尻を上げる。お供の狐や白狐より少し太い四脚が一本ずつ踏石を降りた。黒の双眸は裏庭全体を捉え、障害物のない道筋を見定める。冬の匂いと一緒に空気を吸い、狐は主人の胸の高さほどの竹垣目掛けて走り出した。
玉砂利を蹴って助走する管狐。南天の赤い実を啄んでいた鵯が驚いて逃げていった。狐は矢のように裏庭を駆け抜け、目前まで迫った竹垣を軽々と飛び越える。彼が華麗に着地すると、水でしっとりと濡れた笹の葉が肉球に張り付いた。管狐は前足を振ってそれを剥がし、竹の香りを胸いっぱいに取り込む。昼飯前の探検が今、始まった。
目を凝らして歩きに歩くが、前回と同じく、竹林から山へ入る道はなさそうだった。畑の裏手にある水楢の森も似たようなもので、狐だけならまだしも、主人が楽に進めそうな入山ルートは見つからない。斜面、転がり放題の岩、生い茂る植物、ぐらつく足場──人の手が入っておらぬ山はやはり嶮岨であり、容易に通れるはずがなかった。身体能力の高い管狐ならまだしも、山慣れしてない人間が、となると殊更に危ないだろう。
がっくりと肩を落とした狐だったが、収穫なしにはならなかった。御殿の裏で偶然にも山伏国広と会い、良いルートを教わったのだ。太刀曰く、御殿を出て左手に見える山であれば傾斜が緩く、自分や祢々切丸が拓いた道が残っているであろうとのこと。狐は朗報に喜び、渡りに船といった様子で山伏国広へ話を持ち掛ける。
「主様と私だけでは心許ない。山伏国広、よろしければ供をしてくださいませんか。あの山に登ったことがあるというあなたや祢々切丸がいると気強うございます」
「拙僧が、供を……?」
「無理にとは言いませんが……受けてくださると嬉しいです。強制ではなく、この管狐めのお願いです」
「……些か驚いた。本当に拙僧で良いのであるか?」
「ええ。適役です」
「おお、ならば任されい! 露払いの任、しかと承ろう。カッカッカ!」
思いも寄らぬ頼みに面食らっていた太刀だったが、管狐に「適役」だと頷かれ、豪快に笑い了承した。
狐はホッと安堵する。山伏国広には主人への敵対心や悪意がみられない。断らずにあっさり受諾したので、山姥切長義の邪推に影響を受けてはなさそうだ。
「祢々切丸殿にも拙僧から話しておこうぞ。山を愛するあの御仁は、きっと引き受けてくれるであろうな」
「それは助かります。よいのですか?」
「うむ!」
山伏国広と祢々切丸の付き添い。非常に頼もしい。許可も取らず勝手な真似をして主人の不興を買うかもしれないが、安全第一なのである。主人はなんとか説き伏せようと、管狐は打つ手を算段した。
「ありがとうございます。主様へは私がお伝えしておきますね。まだ細かな日取りが決まってないので、分かり次第知らせに参りましょう」
「そうであるか。では仔細は待っていればよいのであるな?」
「はい。恐らくは週末辺りになろうかと」
「相分かった! 拙僧も準備をしておかねばなあ。そろそろ山で修行をしたいと考えていたのだ」
「……修行ではなく、材料集めなのですが」
「むん!? ああ、そうであったな! カッカッカ! 集めた物は拙僧と祢々切丸殿で持とう」
「おや、手伝いまで? 重ね重ねありがとうございます」
供だというのに山籠りをしてしまいそうな太刀へ僅かな不安を抱きつつも、管狐は礼をする。
「なあに、礼には及ばん。審神者殿のために一肌脱ぐとしようぞ!」
自身の胸をどんと叩いた山伏国広。彼のよく通る大声に狐は微笑んだ。御殿外壁の向こうで「今誰か脱ぐと言いましたね? ワタシも脱ぎましょうか。一肌でも二肌でも」「やめろ村正ー!」という声がしたが、管狐は空耳だろうと聞こえなかったことにするのであった。