03
ミーン、ミンミンミンミーン……ミーン、ミンミンミンミーン……。
夜明け前から夕暮れまで、絶えず大合唱している蝉の鳴く音は来る日も来る日も姦しいもの。短い命といえど、ほどほどにしてほしい。風趣に富む、といえばそうなのだけれど。
八月初旬。本丸地方はとにかく暑い。雲一つとしてない晴天なんて、茹だってしまいそうなくらいムンムンする。凪いでいる日は殊更に最悪だ。ここには扇風機もエアコンも実装されていないので、風がないと本当に暑苦しい。
さて、私の審神者業についてだが、進展がないのでわざわざ述べる必要もないだろう。相変わらず刀剣男士たちには忌避されていて(こんのすけは少しずつ変化していると言い張るけど)、修繕なんぞできやしない。本丸御殿の掃除や修復にも取り掛かれておらず、悲しきかな、畑仕事やガーデニングに精を出している毎日だ。
すべき事が分かっており、できる力も持ち合わせている。だのに仕事(それ)に取り組めないなんて、非常に歯痒い。
──おまけに、困ったことが一つ。日々猛暑や夕立と戦いながら秋にむけて畑の整備をする中で、甚だ宜しくない事案が発生してしまっていた。
*
「うーん、また澱んでるね。お屋敷」
「……ええ」
池にかかる朱い太鼓橋の上、欄干に凭れて頬杖をつく私。側にはこんのすけがおり、器用なことに擬宝珠に乗ってお座りをしている。上手にバランスをとって静かに佇んでいる様は、置物というか、橋の装飾品のように見えなくもない。
一人と一匹が揃って気難しい視線を向けるは、先の審神者によって荒屋と化した本丸御殿──の、周囲に漂う黒い靄。ここへ来た当初よりも薄く、微量なものではあるが、その禍々しさと鬱々しさに眉が顰まる。
審神者として着任した次の日に浄化したはずの「穢れ」。それがまた、出現し始めた。七月の末か、八月の頭頃からだっただろうか。
「消しても消しても、次の日になったらまーた出ちゃってるんだもんなあ。キリがない」
「やはり、元凶をお絶ちになるより他はありませぬ」
気付いた時に細々浄化をしているにもかかわらず、気味の悪いそれは時間が経つと復活する。どれだけ力を注いでも、念入りにしようとも、一晩明ければ薄い靄に覆われている本丸御殿。完全なイタチごっこである。
補助役である小さな狐は、「本丸御殿に穢れの原因があるせいだろう」と言った。私によって一度は浄化され、しばらく鳴りを潜めていた穢れだったが、徐々に徐々に出処から漏れ出してきているようだと。政府側の回答も、こんのすけの見立てと同様だった。
つまり、私の浄化は不完全だったのだ。チーン。とんだぬか喜びだよ! しかも時間差! いやこんのすけも最初の浄化で「元凶」を消せたと思ってたらしいから、しょうがないんだけどさあ。
「元凶、ねえー」
鬱陶しい。面倒くさい。
重い気分のままに、とりあえず浄化(オシゴト)を始める。シュッと力を放って黒く霞がかった本丸御殿を包み、あの忌々しい穢れに溶け込ませる。低密度でありながらもおどろおどろしい靄は、瞬時に消え失せた。所要時間は約三十秒。慣れたせいかコントロールがうんと上達し、つい先日、力の使い方が上手くなったとこんのすけにお褒めの言葉を頂いた。嬉しい。
……。
……。
……はあ。
溜息一つ、夏の空気に混ざる。
池の向こう側、本丸御殿の縁側にいる男の子がじっとこちらを見ていて、ひらひらと手を振れば、その子は射抜くような眼で小振りの刀(「短刀」というらしい)を構えた。今日の見張りは、青い髪を一つに結った小さな男の子だ。先ほどまで柱に寄りかかってぐったりしていたというのに、私が穢れを浄化したもんだから、変に元気になってしまったみたい。
付喪神である刀剣男士たちも穢れがあると体が辛いようで、私の監視中も蹲るようにしていたり、苦しげな表情を浮かべていたりしている。だから、浄化はこまめにしてるんだけどね。全然感謝されないけど。親の心子知らず、ってやつ? いいよいいよ、べっつに、お礼が欲しくてやってるんじゃないもん。仕事だもん。けっ。
「元凶を絶つ、って言ったらさあ、あそこに行かなきゃいけないんだよね」
「はい。禍根に直接、強力な浄化を施さなければならぬ故」
「あー……だよねー」
正直、気は乗らなかった。ほら、触らぬ神に祟り無し、って言うじゃん?
いや、原因を叩くことには大賛成だし、それであの穢れを掃蕩できるのであれば是非そうしたい。腰が引ける理由は、未だに警戒心を露わにし、私に対して攻撃的な刀剣男士の存在だ。
あの子たち、私が本丸御殿に近付いたら絶対襲ってくるよ? 断言できる。事の次第を説明しても協力が得られるかどうか……可能性は低いと思う。うん。まず話しかけたら威嚇されるよね。
「うーん。こんちゃんの言うことは分かるし、そうした方がいいと思うんだけどねえー……あの子たちがさあー……」
だらしなく欄干に突っ伏し、重苦しく呻く。こんのすけが小さく息を吐く音が聞こえた。
本日は久しぶりの曇り空。日差しがない分、いつもより涼しい。こうやって真っ昼間に外に居ても耐えられる。まあ、暑いのは暑いが。うちわ持ってくればよかったな。
「物は試しに、仔細をお伝えしてみては?」
「ええー! 無理無理、ダメだって。声かけた瞬間バッサリ殺られるよ。ずっと前もそうだったじゃん」
四月だったか五月だったか、あの子たちに接触を挑んだ苦い記憶が蘇る。なけなしの勇気を振り絞り、離れ周辺に当たる自身の領域を出て挨拶がてらちょっと近付いただけだったというのに、いきなりシュバッ! よ。「こんにちは」の「こ」の字も出なかった。
常に張り巡らせている結界によって剣閃を弾くことができたため無傷だったが、あれ以来、私から距離を詰めるのが──和解への取り組みが、億劫になった。向こうが寄ってきたら仲良くしようかな、と、考えを改め、彼らを放っておくほどには。
斬られるのは嫌だし、怖い。
「かつてはそうであっても、今は違うやもしれませぬ。刀剣男士の御心には、僅かながらも確かに変化が生じております。また、人を好かぬとはいえど、あの方たちとて暗愚ではない。話せば理解る事もお有りかと」
「うえー、それマジで言ってる?」
「ええ、『まじ』にございます」
顔を上げれば、くりくりとしたどんぐり眼が私をじっと見下ろしている。まじろぎもせず正視され、こんのすけの本気度合いがなんとなく分かった。マジなのね。はい。
心の天秤がぐらりと揺れ始めた。今の今まで「やりたくない」方に大きく傾いていたそれは、「やらないといけないかな?」辺りまで浮上しつつあって。さて、「やろう」「やらなきゃ」になるまでどのくらいかかるか。
「物は試しに、如何ですか」
審神者(わたし)の補助役である小さな狐は、絶妙な力加減で背中を押してくる。
さすがサポート上手だなあ。強要はせず、けれども、退かない。この感じ、誰かに似て──あ、うちのおばあちゃんだ。
「ええー……」
自分で言うのもなんだが、こんのすけは私に甘い。私が本気で嫌がれば、きっとこの話をお流れにし、見過ごしてくれるだろう。できる限り別の手立てを一緒に考えてくれるはずだ。
だけど、この狐がそうしないのは……たぶん、私の迷いを見通しているから。「絶対嫌!」ってわけじゃないの、分かってるから。
「うーん……」
四月か五月か、私はあの子たちに斬り掛かられた。一度だけでなく、その後も数回、同じように。
近付こうとしただけで、話し合おうとしただけで、激しい憎悪を向けられて。──あの子たちに痛ましい事情はあれど、それを差し引いても、とても嫌な思い出である。
「不肖の身なれども、私めも付いております」
真っ直ぐに、真っ直ぐに、奥の奥まで澄んだ瞳で私を見つめる小さな狐。目は口ほどに物を言う、という言葉があるが、なるほどどうしてその通り。
ふ、と。自ずと笑みが漏れた。
「そうだね」
いかにも。以前とは違い、今の私には信頼できる相棒がいる。支えになってくれる存在がいる。
「前の時さあ、こんちゃん知らん顔してたよね。口だけで心配して。あれひどかったわー」
四月か五月か、私はあの子たちに斬り掛かられた。当時、心を閉ざしていたこんのすけはひっそりと後ろに控え、「お怪我はありませぬか」と、ただ一言、抑揚のない声で淡々と言っただけだった。
「……誠に申し訳ございません。弁明の余地などありませぬ。恥ずべきことです」
「ははっ、いいよいいよ。昔のことじゃん。責めてないから」
仰々しく頭を垂れるこんのすけにカラリと笑えば、もう一度謝られる。
「申し訳ございません」
「んもー、いいって! 今はそんなことしないでしょ? 私が襲われそうになったらちゃんと助けてくれるよね?」
「当然です」
力強く頷き、一点の曇りもない眼を私に向ける小さな狐。その瞳の、意思の、なんと篤実なことか。
そう。あの時とは、違う。私は独りじゃないのだ。この狐はきっと力になってくれる。成功すれば共に喜び、失敗すれば共に悲しみ、そして慰めてくれるだろう。
こんのすけ。私の心の拠り所。頼もしい仲間。
天秤がゆっくりと傾斜を増す。こんのすけがいるのなら、やってみてもいいかなあ。……はあ、しょうがない。できるできないは置いといて、いっちょ頑張ってみますか。うまくいけば穢れを完璧に消せ、あの子たちとの距離も縮まるかもしれない。うん、ポジティブシンキングだ。
「はー……やるだけやってみよっか。ダメ元で」
零れた笑みは、どこか皮肉めいていた。目を見張ったこんのすけの毛に覆われた顎をくすぐり、「失敗したら慰めてよ」と唇の端を吊り上げる。
「ええ、ええ、勿論。微力ではありますが、私、誠心誠意を以って主様にこの身を奉じましょう。たとえ刀剣男士の犀利な刃が閃こうとも、必ずやお守り致します」
「ふはっ、大げさ。でもありがと」
少しごわついた頭を撫でれば、小さな狐は気持ちよさそうに目を細め、手のひらに額を押し付けてきた。かわいいなあ。超癒される。暗い気分もほっこり明るくなるわ。あれ、これってもしやアニマルセラピー? こんのすけ万能過ぎ。
「さて、そうと決まれば作戦会議。スイカ食べようよ。もういい具合に冷えてるでしょ」
愛らしい狐をひと撫でし、背筋を伸ばして欄干から体を引く。やることがないのにいつまでもここに居るのもなんだ。そろそろ離れに戻って、ぐうたらしたい。いや作戦会議もしますよ! おやつでもつまみながらね。今日は畑で採れたスイカ(初収穫!)を一玉、井戸で冷やしてるんだ。うひひ。
「ええ、参りましょう。しかし主様、西瓜は体を冷やす故、食べ過ぎぬようご注意を。腹をくだします」
「あー、そういえば去年の夏、スイカの食べ過ぎで下痢になったなあ。好きだからつい、食べちゃうんだよねえ」
ひょいと身軽に飛んだこんのすけが、きちんと肩に乗ったのを待って歩き出す。これなんてナウシカ? ……くどいか。
「なんと。既に経験済みであられましたか」
「うん。あの時はほんと食べ過ぎた。一日かけて大っきいの一個食べきったもん。そりゃ水分取り過ぎてお腹壊すよ」
「一玉をお一人で……それはいけませぬ」
「あはは、だよねー。まあ、今日のは小玉だから大丈夫だって。こんちゃんと半分こするし。ホントは二玉くらい食べたいんだけどなあ」
「……あなた様が過食せぬよう、見張っておかねばなりませんな」
「えっ、なにそれ! 私の楽しみ奪う気?」
「まさか。主様の健康管理の一環ですよ」
「うっそ。そんなこと言って、私からスイカを取り上げるんでしょ。ダメだから。許さないから」
「可笑しゅうございますなあ」
珍しく肩を震わせて笑うこんのすけの鼻を人差し指でピンと弾き、じっとりと軽く睨んだ。
苦労して一から自分で育てたスイカを、私がどれだけ心待ちにしてたと思うのさ。おうこんのすけ、絶対に渡さんぞ。
*
こんのすけの忠告をはねのけ、思う存分スイカを頬張った翌日。
「ふふん。ほーらお腹壊さなかったじゃん。小玉だから大丈夫って言ったでしょ!」
「くっ、不覚」
ドヤ顔の私に、悔しそうなこんのすけ。私の消化管を甘く見ないでよ。小玉スイカの一つくらい、下痢なんてせず収められるのさ。
夏の畑にゴロゴロ実った小玉スイカ。その日の午後、物言いたげなこんのすけをよそに調子に乗って二玉食べ、夜にはトイレと友達になってしまった。のちのち、こんのすけにお灸を据えられたのは、言うまでもない。
とほほ、スイカは一日一玉まで、か。
「半玉です」
「えっ」
「半玉です」
「でも」
「は、ん、た、ま、です」
「……うん」
──スイカは一日半玉まで。