06
「うっ、わ。汚っ」
あの子たちに誘導され、玄関口ではなく縁側から上がり込んだ本丸御殿。
障子は破れ、屋根に穴が空き、土壁の剥げた──そんな荒廃した外観のお屋敷は、中も大層ひどかった。
至る所に血痕が撥ね散り、どす黒い染みがこびり付いている廊下。深浅様々な切り込みが幾多も入った柱。無残に袈裟斬りされ、仕切りの意味を成さない襖。ほつれの目立つ畳に、通路の端や梁木の上にこんもりと溜まった綿埃。
あらゆる「汚れ」に共生するかのように付着しているのは、黒く濁った澱み。
なんだ、ここは。まるで穢れの温床ではないか。
ひっっっどい。これはひどい。
じろり。鋭い視線が咎めるように射してくる。
「あ、ごめんごめん」
こちらを振り向き睨みを効かせる黒髪の子に、引き攣った顔のまま詫びを入れる。彼は私が「汚い」と漏らしたのが気に食わなかったようだ。
それもそうか。ここは彼らの──刀剣男士たちの根城なのである。意地悪で言ったつもりなどなかったのだが、私は彼らの家を侮辱してしまった。
……いや、でもこれはいかんでしょ。掃除しないの? 私の監視をする暇があるくらいなら、まずはここ綺麗にしようよ、ねえ。手伝うからさ。掃除道具なら貸すし。私、無限大に雑巾出せるよ!
そこら中に蔓延している生臭さに、吐き気を催す。これは、この匂いは何? 血? 肉? 錆のような、腐ったような──とにかく嫌な匂いだ。その場しのぎでしかないが、首かけてあったタオルで口を覆い、マスク代わりにした。これだけでも随分息がし易い。
「こんちゃん、大丈夫?」
「ええ。主様こそ、具合悪うはございませんか。お体がお辛くなれば、すぐにお申し付けください」
「え? うん、ありがとう」
足元を行く小さな狐を心配するも、逆に気遣われてしまった。いい子だ。
「こんちゃんも、しんどかったり気分悪かったりしたらちゃんと言ってね。隠しっこなしだよ」
「心得ました」
目と目で微笑み合い、互いに頷く。こんな悍ましい場所に居ても、この狐と共にあるならば。
「へへっ」
締まらない笑い声が漏れる。不思議なことに怖さが薄れ、小さな安心感が生まれた。
ああもう、私はすっかり、どっぷりこんのすけを信頼してしまっているようだ。この異次元に着任した当初を思えば、嘘のよう。まさかここまで深い絆が生まれるとは思ってもみなかった。こんのすけ大好き。よし、頑張るぞ。
愛の力でやる気を充填し、そこいらの細かな穢れを浄化する。そうして先に待つ黒髪の男の子のもとへ歩めば、彼はくしゃりと顔を歪ませ、「こっちだ」と背を向けた。
前に黒髪の子、後ろに青い髪の子。二口の刀剣男士に挟まれて、屋敷内を練り歩く。明るい灰色の髪の子は、私が屋敷に上がり込むやいなや、切傷の残る脚を引き摺ってどこかに行ってしまった。彼が離れゆく際、ダメ元で「足治そっか?」と声をかけてみたけれど、案の定「いい」とお断りされた。痩せ我慢は身を滅ぼすだけなのに、頑固だなあ。
あの子らの会話を聞いた限りでは、灰色の髪の子は「手入れ部屋」という所の警護に当たるそうだ。どうやら他の刀剣男士(重傷)たちはその「手入れ部屋」とやらに居るらしい。そこにガードマンつけるって、なんなの。別に私、討ち入りなんかしないし。手負いの神様に「さあ全員ぶちかますぞ!」とかしないし。むしろ、まとめて治してあげるんだけどな。
「んー……」
思わず、唸り声が漏れる。彼らの警戒心や閉じた心は非常に悩ましいが、今はそれよりも。
……多い。
二人(二口か)の監視の下、穢れの元凶を探して本丸御殿をうろついているが、状況は思った以上によろしくなかった。
屋敷の内部は物理的に不衛生なだけでなく、汚れと癒着しているかのように、そこかしこに穢れが散らばっている。一つ一つは小さくて薄いが、なんせ数が多かった。
「一個一個は大したことないけど、多いなー。こんちゃん、やり漏れがあったら教えてね」
「ええ、承知致しました」
目に付いたものを浄化しながら進みゆくなか、私の脳内は苦慮にこじれていた。
──もっと、簡単な話だと思っていたのだ。本丸御殿で穢れの大元を探し、完全に消し去るだけでよいと。それで全て収まると、そう考えていて。
だがしかし、実際に来てみればどうか。「大元」とはいわずとも、不潔な環境は無数の穢れを生み出しており、それらはおそらく、屋敷内全体に及んでいるのだろう。
「うーん……こりゃ、ちょっとやり方を考えないといけないねえ」
独り言ちて、こんのすけに相談を持ちかける。
「こんちゃん。根っこを一つ潰せばいいってもんじゃないみたい。穢れの元いっぱいあるんだけど、さあ、これどうしようか」
私の隣を歩く狐は、「ふうむ」と小首を傾げたのち、「虱潰しをしていくしかないでしょう」と告げた。ちまちまするのは面倒臭かったので、一気に浄化できないものかと聞いてみたが、霊力と神気の消耗が激しいため得策ではないとのことだった。うあー、一つ一つとかめっちゃ煩わしいんだけど。
「浄化のみならず、穢れの発生源となっている汚れも清めなければなりますまい」
「えっ。それって、掃除して綺麗にしなきゃいけないってこと? この汚れ全部?」
「如何にも」
「うっげえー。マジで?」
これまでの人生において、こんっなに汚れた屋内(しかも広い)の掃除などやったことがない。ここに来た初日に行った離れの大掃除が可愛らしく思える。
「『まじ』にございます」
「面倒くさいー」
私、清掃業者じゃないんですけどー! 掃除のおばちゃんに転職するつもりないんですけどー! 斉藤さーん清掃業者呼べませんかー!
表情筋が盛大にひん曲がる。あー、また黒髪の子にギロッとされてしまった。ごめんごめん。五月蝿かった? でも口だけじゃなくてきっちり足も動かしてるんだからさあ、このくらい許してよー。立ち止まってないでしょ? 付いて行ってるでしょ?
それとも、人間(わたし)が「余計なこと」をしそうだから牽制をかけたつもり? ……あー、ね。そうね、気に入らないよね。
「虱潰し」をするならば、御殿の隅々を回らなければならない。けれど、それをこの子らが許すだろうか。私の事など丸っきり信用していないこの子たちが。──はっ、無理である。
ガードマン付きの「手入れ部屋」は絶対に入らせてくれないと思うし、その他にも多分、私に踏み入って欲しくない所がごまんとあるはずだ。既に幾つか、彼らの意図によって通り過ぎた部屋があるのだから。
「主様」
傷だらけの背をぼんやりと見つめ、機械的に足を動かしていた私に声が掛かる。しまった。思考に耽っていたせいで、穢れを見逃したのかもしれない。
見下ろせば、小さな狐が毛を逆立てて四肢を踏ん張っており、面食らう。これは、何事か。
「ど」うしたの。一語しか出なかった私の音を遮り、こんのすけが切羽詰まった声を出した。
「近うございます。禍々しい気が──なんと、邪悪な」
顰められた獣面が、詰まった言葉が、苦しげな声遣いが、私達を待ち受けるモノの凶悪さを知らしめているかのようで。
「こんちゃんだいじょ──え、ちょっ」
ドッ……と、数歩先にいた黒髪の子が静かに、本当に静かに崩れ落ちる。埃だらけの床板に片膝を付き、頭(こうべ)を垂れている様は、見ていてヒヤリとした。後ろからなので顔は見えないが、苦しげな呻き声が聞こえる。辛いのだろう。
振り返れば、後ろにいる青い髪の子も柱に手をつき貧相な体を支えていた。苦悶の表情を浮かべ、青白い肌には玉汗を滲ませている。肩を上下させて繰り返される息は、荒い。
なんだ、一体何が起こっているというのだ。
状況を把握し切れていない中で、懸命に脳みそを働かせる。分かっているのは、この先に在るモノのせいでこんのすけや刀剣男士が不調に陥っているということ。
──「大元」が、近いのか。穢れの中核となっている箇所が。
背を丸めている黒髪の男の子のずっと向こう、薄暗い廊下の奥に目を凝らし、ごくりと息を呑む。昼間だというのに日の差さぬそこには、どす黒い靄が立ち込めていた。これは、随分濃密な──酷い穢れだ。
どれほどのものがこの先に在るのか。私はそれを、消し切ることができるのか。
……だが、まずは。
穢れの重圧に耐え忍んでいるこんのすけたちをなんとかしないと。
体の内側から勢い良く力を放ち、妖しげに蠢く澱みにぶつける。やや反発力を感じたが、気合を入れて押し通した。次いで、こんのすけとあの子たちの周りに力を流し、結界を創る。
私だけがケロッとしているのは、きっと自身に施している結界のおかげなのだ。どうしてもっと早くに気付かなかったのだろう。完全に「大元」の度合いを見くびっていた。ちゃんと最悪の事態を想定して、最初からこうしておけばよかったのに。悔しい。
「大丈夫?」
小さな狐を抱き上げ、黄色の毛並みをそっと撫でる。……大事な相棒をしんどいメに遭わせてしまった。
「ごめん」
「謝罪など口になさらないで下さい。主様は何もお悪うございませぬ」
こんのすけは湿った鼻面を私の頬に擦り寄せ、優しく言った。
「……ごめん」
「気に病む必要はありません。あなた様のお力にて楽になりました故」
どんぐり眼を細め、上品に笑う小さな狐をぎゅうと抱きしめる。お揃いのシャンプーの匂いが鼻をくすぐり、あたたかな体温に安堵した。
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「ううん、謝んないで。……もう辛くない?」
「ええ、この通り」
私の腕からぴょん抜け出して、くるりと一回転してみせたこんのすけに、ほっと息を吐く。
「よかった」
人魂を一筆書きしたような朱い紋様の入った額を撫でれば、小さな狐は気持ち良さそうに瞳を閉じた。
「君たちも大丈夫?」
強大な穢れに喘いでいたのはこんのすけだけではない。つい二人の世界に入ってしまっていたが、監視役として同行していた刀剣男士も気がかりだ。
前方に居る黒髪の子は座ったままこちらに向き直っていて、口を半開きにさせている。暗紫の双眸は私にあてられているはずなのに、どこか遠くを見ているようだった。どうしたどうした、ぼーっとしちゃって。
後方に立つ青い髪の子は柱から体を離し、唇を真一文字に締めていた。乱れていた呼吸は整っていて、私と目が合うなり、陰を孕んだ縹色の瞳が逸らされる。この子は目元がつっており、もともと目つきが悪い。険しい顔でそっぽを向かれると、ねえ? うーん……睨まれるよりはマシなのか?
「ね、大丈夫なの?」
一向に返答がないため、再度問う。二人とも先程までのように苦しんでいる様子はないが、やはりどちらからも返事はなかった。シカトかよ。なんなの、ヤな感じ。結界張ったのは余計なお世話だったんですかね。良かれと思って、ってか助けようと思ってしたのになー。へえへえすみませーん。
あ、そうか。もしかして、人間(わたし)なんぞに防護されちゃったもんだから、バツが悪いのかな? もしくは戸惑ってるとか?
……まあ、辛そうじゃないからいっか。
ふう、と一息ついて気を取り直す。こんなトコで考え込んでもしょうがない。
「えーと、……それで」
話題を変えるべく口を開けば、黒髪の男の子がのっそりと起き上がる。もう呆けてはいないようで、渋いような悩ましいような、なんとも言えない顔をしていた。
「……あそこが、探してる場所だと思う」
歯切れ悪く出された声と併せ、俯きがちに彼が指をさしたのは──廊下の果ての襖障子。ついさっき、強い穢れが溢れていたところである。なんとなく察してはいたが、……予想通り、あの向こうに穢れの根っこが在るようだ。
「分かった。ありがとう」
うん、後は任しといて。不安だけど、やってみるよ。
「ふんっ」
シャツの袖をまくり上げ奮起している私を、二口の刀剣男士は何やら複雑そうな面構えでチラ見していた。