雪解け - なんとはなしに

12*


「主様」
 鼻歌を口ずさみ、固く搾った雑巾で畳を拭いている女を見つめ、こんのすけは呼びかけた。しかし女は作業に集中しているのか、彼女の補助役である小さな狐が一声かけても一向に気付く素振りがない。狐の呼び声が控えめだったこともあるが、女が掃除に没頭しているには違いなかった。
 それを見知した管狐は、己が気配を消し、そうっと室外へ足を忍ばせる。目指す場所は特段決まってはおらず、ぐるりと屋内を一巡できればそれでよかった。御殿内部の破損状況や穢れの残滓を確認しようと、また、ただ単に久方ぶりの古巣を見て回ろうと思い立ってのことである。実行できるか否かはともかくとして。
 艶のない木目張りの廊下は埃で薄汚れており、判を押したように幾つかの足跡が付いている。狐のもの、狐の主人のもの、他のもの……合わさったそれらは、不可思議な模様となり床を飾っていた。
 ──キチリ。
 小さな狐が廊下に出るやいなや、二つ重なった鍔音が鳴る。白と黄色の耳がヒクリと動き、瞬時に音を捕らえた。
「これはこれは」
 こんのすけの見上げた先には、二口の刀剣男士。どちらも抜刀体勢に入っており、唇を引き結んで警戒の色を示している。膚(はだ)を刺すような強い敵愾心を向けられても、小さな狐は臆さなかった。
 深々と頭を下げたのち、居住まいを正した小さな狐は凛然と口を開く。くりくりとしたどんぐり眼に浮かぶのは、懐旧の念。
「名だたる刀剣より生まれ給ひし付喪神。蛍丸、鯰尾藤四郎──お久しゅうございます」
 うっすら笑って柔和な挨拶を紡ぐこんのすけに、相対する二口の刀剣は疑念を抱いた。
「……『久しぶり』って、どういうこと」
 身の丈を超える大太刀を背負い、その柄に手をかけたまま蛍丸が怪訝そうに問う。幼いなりをした彼には、今目の前に居る「こんのすけ」とこれまでに会った覚えがなかったのだ。隣で眉を顰めている鯰尾藤四郎もまた、同じく。
「ほほ、言葉通りにございますよ」
 目尻を下げた小さな狐がにこやかに告げるも、二口の刀剣男士にはピンと来ないようで。
 黙したまま不審がる付喪神たちの反応を見たこんのすけは、「おや」と心外そうな声をあげる。
「なんとすげない。……いえ、仕方ありませんか。過ぎし日も、そう関わりを持つことはなかった故」
 小さな狐がぼやくように呟けば、鯰尾藤四郎は暗紫の瞳をカッと見開いた。記憶の中から思い当たる節を見つけ、そして、驚いたのである。
「もしかして、お前」
 脇差の柄を掴む指が緩む。鯰尾藤四郎は心底驚愕していた。
 彼の覚えのあった式神は、管狐は、「こんのすけ」は──。
「如何にも。私は、前任の審神者へもお仕えしていた『こんのすけ』にございます。云わば、あなた方の朋輩」
 蛍丸と鯰尾藤四郎がヒュッと息を呑む。二口の脳裏に様々な光景がフラッシュバックし、忌まわしい往昔が流れた。
 常に無表情だったあの審神者の顔、出会った頃から呪で縛られ、唾棄されてきた自分たち、手入れもされずに戦に出された事、罰だと称して仲間同士で斬り合いをさせられた事、失った一振り──……。
 どれも惨憺としていて、厭わしく、許せぬもの。この地に在る付喪神たちにとっては、思い出しただけでも身の毛がよだち、腸が煮えくり返りそうな過去だった。
 そんな旧時の記憶に、政府の遣いである式神「こんのすけ」も紛れ込んでいた。
 あの審神者のおどろおどろしい呪で雁字搦めにされ、拘束を受けていた管狐。毛は抜け落ち、震える四肢でやっと立てるかどうかとなるまで痩せ衰え、ひどく澱んだ眼をしていた「こんのすけ」。声を奪われ、ひゅうひゅうと喉を鳴らすことしかできなかった哀れな式神。
 見るも無残だった「こんのすけ」と、眼前に佇む福々しい「こんのすけ」とが、彼らの中で結びつかない。
 それもそのはず。過去と現在の「こんのすけ」は、あまりにも違い過ぎた。顔つきも、身なりも、纏う空気も──全てが。そのため刀剣男士たちは、「名こそ同一であれど、女に伴ってやって来た『こんのすけ』は新たな式神であろう」、そう認識していたのだ。
 まさか、いや、でも──。虚実に悩む二口だったが、次に放たれた狐の言葉によって、ここに居るモノは辛苦を共にした「こんのすけ」だと断定した。
「驚かれますのも無理はないでしょうな。私めはもう、かつての『惨めで憐れな獣』ではないのですから」
 惨めで憐れな獣。
 それは、あの男が、あの審神者が呼んでいたこんのすけの渾名だ。二口の刀剣男士は苦々しい顔をし、押し黙る。
「……さておき、そこを通しては頂けませぬか。屋敷内における損害の度合いを確かめたいのです」
 以前とは違う澄んだ双眸が二口を映す。彼らの知らぬその目つきは、穏やかな様相は、心をいたく惑わせた。
「どうして」
 苦しそうな、泣きそうな面をして、鯰尾藤四郎は声を絞り出す。
「なんで、人間に付いてるんだ……お前だって、あんな目に遭ったのに、どうして……!」
 悲痛な問いかけだった。
 鯰尾藤四郎は分からなかったのだ。人よりあれほどまでに粗末な扱いを受けてなお、人に添う狐の心が。それも、新しく来た女の審神者を「主」と呼び慕い、楽しげに笑い合うなぞ──鯰尾藤四郎には、到底理解ができなかった。
「声をお抑え下さい。あの方に気付かれてしまいます」
 横目で女を気にする仕草をし、こんのすけは耳をそばだてる。敷居の向こうではふんふんと小気味よい鼻歌が続いており、狐の主人は異変に感付いてはいなかった。この本丸において唯一の人間は、依然清掃作業に熱中しているようである。
「話すのならあちらで……歩きながらにでも」
 ゆらりと尾を振り、一歩踏み出した小さな狐。二口へ向けた誘うような視線で釣れたのは、脇差だった。
「っ、待て……!」
 狐は女の張った結界を軽やかに抜け、刀剣たちの足の間を縫い進む。鯰尾藤四郎は踵を返した。
「蛍丸はここに居て」
「あ……わかった。何かあったら呼んで」
「うん、そっちも」
 勢いに突き動かされた鯰尾藤四郎ではあったが、足に大傷を負っている蛍丸への配慮もあった。大太刀の痛む下肢を引きずらせるより、自分が後を追った方がよいだろうと。
 狐の歩みに付き合うか、止めるか、──はたまた、斬り捨てるか。
 小さな狐の揺れる尻尾を追いかけながら、この式神への対処をどうすべきか一考する脇差であった。

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