13*
過去、永きにわたって住んでいた──いや、囚えられていた屋敷を巡り、政府の式神は数え切れない思い出を心に浮かべ、そして、一つ一つを呑み込んだ。
苦い記憶も、辛い記憶も、悲しい記憶も、怒れる記憶も……中には許容できないものもあったが、それらもいつか、全て受け止められる日が来るだろう。狐の側に親愛なる彼女が居るのならば。
「種こそ『人間』なれど、あの御方は風姿も心延えも前の方とは異なります。まるで別の生き物のように」
御殿内を見回る最中、こんのすけは険しい顔で隣を歩む脇差へ、己の主人についてほんの少しだけ語った。
「清らけき聖者というわけでも、全美たる善人というわけでもありませぬが、好い御方ですよ」
物柔らかな口付きでゆったりと言い、しめやかに微笑む小さな狐。
「……嘘だ。信じられない」
鯰尾藤四郎は重く呟き、表情を歪める。彼の体中についた癒えぬ傷痕が、チリリと疼いた。
春先にやって来た人間の女。政府から寄越された次の審神者。
ここ数ヶ月畑仕事や庭いじりばかりを行い、毎日安閑と過ごしている彼女が付喪神たちに害をなしたことはない。
呪で縛りもせず、命も下さず、傷付けも謗りもせず──……それでも、鯰尾藤四郎は女が「無害」であると思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。
信じた先の裏切りが怖くて、情が湧いた後の失望が嫌で。過去に人より受けた屈辱や痛みだって、まだ根強く生きている。
人間不信の神々は、揃い揃って天岩戸のごとく心を閉ざし、事実から目を背けていた。自分たちが何一つ、あの女に虐げられていないということ自体、受け入れられない。
気さくな笑顔で手を振られても、古傷を案じられても、自分や仲間の手入れを申し出られても、「あれは油断させるためだ」「偽りだ」と言い聞かせ、ずっと突っぱね続けていて。
……それでいいと、考えていた。
「浮かぬ御顔をされておりますな」
小さな狐のどこまでも澄んだ黒い瞳が、瞬きもせず脇差の付喪神を見上げている。
取り詰めていた鯰尾藤四郎の足が止まり、それに合わせてこんのすけも歩みをやめた。双方の間に名状し難い情感が流れ、辺りがしんとする。縁側から入り込んだ蝉の声も、孟秋運ぶ風の音も、彼らの耳をするりと通り過ぎていった。
黙していた刻は短かかったが、一口と一匹にとってはいやに長く感じられた。永遠に正対しているのではないかと、そう錯覚するくらいに。
「……なんで」
苦しげに歪んだ顔をして、傷だらけの脇差は声を絞り出す。手のひらに爪が食い込んでしまうほど、両の拳が握り締められていた。
「なんで」
曇りきった暗紫の眼が小さな狐を鋭く貫くも、狐はたじろぐことなく変わらず温和であった。ただ静かに、穏やかに、鯰尾藤四郎を見返している。
「っ、なんで人間といるの。馴染んじゃってるの。あんなことされたのに、なんで……おかしいだろ」
そうやって狐を責める鯰尾藤四郎は、己の語勢が震えていることを知らない。彼は気付いていないのだ。今自分がなぜ苦しくて、辛いのかを。その身に渦巻いているものが、怒りだけではないことを。
人を嫌い、人を疎み、人を信じぬ脇差は、心の奥のそのまた奥で、烈々たる葛藤に苛んでいた。
「『あんなこと』をしたのは、あの方ではありませぬ」
こんのすけの言葉に、鯰尾藤四郎が目を見開く。
──そう。そうだ。分かっている。解っていた。彼にだって、解っていたはずだった。
自分や仲間を心身共に滅多打ちにしたのは、誰か? ……考えるまでもない。答えは一つ。以前彼らの「主」であった──「主」と思いたくもない男だ。決して新しく来た審神者ではない。
春の初め、彼女がこの地に赴任してから、鯰尾藤四郎を含めた三口はずっと女を見てきた。よく笑い、よく話す、気安そうな女だった。
式神を慈しみ、庭や畑を愛で、縁側でひなたぼっこをしている事の多い、伸びやかな女。これのどこが、あの男と同じだというのであろうか。正反対と言ってもいいし、こんのすけの述べた通り、別の生き物のようでもある。
けれど、それでも……それでも、「人間だから」と一緒くたにして、重ね合わせてしまって。
そうする方が、楽だった。
一方的に憎み、嫌い、遠ざける方が、何も悩まなくていいから。何も考えなくてもいいから。確実に自分や仲間を守れるから。
「……ご質問に、お答えしていませんでしたね」
人間不信な付喪神の「なんで」に応えるべく、くしゃくしゃの面で歯を食いしばっている脇差へ、こんのすけは微笑みを添えて話しかけた。
「審神者の補助を為すことが、時の政府より使わされた式神たる私めの責務でございます。──ですが、それ以上に」
一度言葉を切り、小さな狐はじっと、暗紫の双眸を見据える。
「私は、あの御方が偏(ひとえ)に『好き』なのでございますよ。それ故、お力になりたいと、お側におりたいと、そう思う次第なのです。己の役目を差し置いたとしても、私はあの方と共に在りとうございます。叶うのならば、永久(とこしえ)に」
より一層笑みを深め、眦を下げた狐の顔は、それはそれは幸せそうだった。
答えをもらった鯰尾藤四郎は、口を噤んだまま小さな狐を見下ろしている。彼には何も言えなかった。否定してやりたかったのに、できなかった。あの女の悪口も、あの女への罵詈も、出てこなかった。
幸福そうな式神のかんばせを見、愛念溢るる言の葉を聞いた脇差の目頭がカッと熱くなり、鼻がツンと痺れたが、彼にはその理由が分からない。自身がひどく切なげな表情をしていることにも、意識が向いていなかった。
「では、そろそろ参りましょうか。あまり遅くなると主様に感付かれてしまいます」
鯰尾藤四郎の今にも泣きそうな顔を目に留めたこんのすけは、確かな手応えを感じていた。返事こそないものの、この一口の付喪神の心に「何か」を与えることができたのではないかと。
狐の主に対する彼らの認識を、すぐにガラリと変えずともよい。嫌う気持ちも、信じぬ意志も、人への恐れも、苦悶の過去も、そう簡単に消えるものでも、和らぐものでもないのだ。それは狐もよくよく存じている。
けれど、これが第一歩になれば。互いが歩み寄る、黎明となれば。
どちら側にも居られ、どちらとも接点のある己だからこそ、できることがある。こんのすけは、微力ながらも人と付喪神とを繋ぐ手助けをしようと、そう考えていた。
そうして、いつか──皆が笑って睦まじく暮らすことができようものなら……なんと素晴らしいことか。
そんな大夢を胸に抱き、小さな狐は機嫌良く屋敷内の見回りに戻る。どこか気もそぞろな式神を止めることも斬り捨てることもなく、難儀な脇差はよたよたと後続するのであった。