01
粉骨砕身して屋敷(手入れ部屋を除く)の清掃にあたり、九月第一週の半ばには本丸御殿の大掃除が無事完了した。予定していた日程よりも早く済んだのは、私とこんのすけのひたむきな努力があってのことだ。それと、彼らの邪魔もあまり入らなかったから。これは算段違いだったわ。あの子らの妨害行為を含めて所要日数の計算してたもんねえ。拍子抜けだけど、スムーズにいって何より。
総仕上げに私の力と木材や土、藁などを混ぜ、お屋敷全体の修復を行った。こんのすけの指示に従い、材料に力を流し込みながら念ずれば、あら不思議。
破れた障子は真っ白な紙がピンと張り、梁や柱に刻まれていた切り傷は跡形もなく消え、剥げていた土壁はむらなく塗り上がり──あっという間に見事な御殿へと様変わりを果たした。本来の姿を取り戻したそれは、もう荒屋ではない。穴あきだった屋根だって元通り。これで雨漏りに悩むことないね。
ただ、ノータッチ条約の結ばれている「手入れ部屋」だけはそのまんまであり、これが参った。
というのも、血みどろで不潔なあの場所も、例外なく経時的にじわりじわりと澱みを生み出していて。そこを掃除せずに放っておくということは、折を見て再々浄化をしなければならないということになるし、また、今後穢れの大温床となり得る可能性も最悪ある。
どうしようかと考えあぐねて、頼りになるお助け狐に意見を求め、一人と一匹で頭をひねった結果──手入れ部屋の周囲に盛り塩を設置する事にした。塩を媒体に私の力を留め、常時浄化を施す形をとるのだ。
ただし、離れや畑の周りのような「結界」とはしない。あくまで浄化であって、彼らを拘束する檻ではないのだ。私に刀剣男士を閉じ込めるつもりはなかったし、もしそんなことをすれば動ける三人に確実にシメられる。自ら争いの種を増やすようなマネはしたくなかった。
大掃除を終えた翌日、早速あの子らに清めの盛り塩の提案をし、その理由と必要性を説明する。私が信じられないのか、生理的に無理なのか……やはり初めは渋っていた彼らだったが、「穢れがあると君たちもしんどいんでしょ?」と言えば、苦い顔をして頷いた。
善は急げ。あの子らの気が変わらないうちにと、そそくさ御殿に上がり込み、綺麗な三角錐に固めた塩を部屋の外側に盛っていく。床に膝を付き、四隅に置かれたそれらにゆっくりと力を注いでいると、明るい灰色の髪の子が私の斜め前に移動してきた。萌黄色の瞳はじっと塩に向けられており、なにやら興味深そうだ。
そんな灰色の髪の子を一目し、ただ単に観察してるのかなー、気になるのかなー、とぼんやり思う。さして気にせず力を注ぐ作業に集中しようとしたが、ふと、この子の足にある大きな裂傷が目に留まった。
右の太腿、股下のあたりから膝の上まで一直線に走る傷。新たな血は出ていないが瘡蓋にもなっておらず、赤黒い肉がじゅくじゅくとしていて、何度見ても痛そうだ。いや、実際痛いのだろう。彼は歩く時、不格好な右脚の動きに合わせて眉間に皺を寄せているのだから。
これなあ、痛そうだよねえ。てか痛いよねえ。治させてくれたらいいんだけどなー……治んないかな?
グロテスクな傷口を凝視し、そんなことを考えていたら。
「んん? ……あ」
気が付けば、塩に注いでいた力が細い支流を作っており、いつの間にやら灰色の髪の子へ──痛々しい傷へ流れ込んでいた。え、なんで? 何が起こってるの?
「主様」
こんのすけの驚いたような声が背中にかけられ、「こ、こんちゃん」と情けない返事をする。自分でも何が何やら分からなかった。そうこうしているうちにも、腿に刻まれたあの子の傷はみるみる塞がり、赤い肉を肌色が包んでいく。
刀剣男士のお手入れって、手入れ部屋の中で式神呼び出してやるもんじゃなかったっけ? マニュアルにはそう書いてあったはず──。
「あんた、何して……!」
チャッ、という金属音が鳴り、慌てて振り向けば黒髪の子と青い髪の子が刀を振りかぶろうとしていた。
これはやばい。
「わ、やっ、ごめん!」
コンマ一秒で立ち上がり、即座に逃げの態勢をとった私は、こんのすけを抱きかかえてダッシュした。我ながら良い反射神経。
回れ右をした刹那、ビュン、と、風が背に吹き付ける。おそらく、振られた刀の纏う圧だろう。ひゅう、間一髪。いや結界あるけど斬られるのはやっぱ怖いしこんなところで殺られてたまるか! っていうかマジで何が起きてああなってこうなったの!? せっかく盛り塩させてもらえてたのに。
「あっぶなあ!」
鈍くさいながらもどたどたと懸命に駆け、スパーン、スパーンと勢い良く襖を開けて脱出口を目指す。とにかく縁側に出て、離れの安全地帯に逃げ込まなければ。
「お、落ち着いて下さい主様っ」
「無理無理無理無理!」
小脇に抱えたこんのすけが「落ち着け」ともがいているが、この状況でどうやって落ち着けと──……。
「主様! 追手はありませぬ!」
……え?
ビックリして、体に急ブレーキがかかる。よろめきながら後ろを見ると、だーれもいない。……あれ、もしかして私、一人運動会してた? 自意識過剰だった?
ぜえはあと荒々しい呼吸をしつつ、呆然と来た道を眺める。黒髪の子も青い髪の子も灰色の髪の子もいなければ、追いかけてくるような足音も聞こえない。
「……へあ、なんで?」
息絶え絶えに漏らす私に、こんのすけが「追う必要はないと判断したのでしょう」と冷静に告げた。
「なーにーそーれー」
一振りぶちかまして私を追っ払えりゃそれで良かったってこと? はあーなんじゃそりゃ。
襲いくる脱力感に身を任せ、へなへなと畳に崩折れる。とんでもない走り損だ。肺が痛い。汗やばい。
私の腕から抜け出し、華麗に着地した小さな狐が、ふうと息を吐く。
「いやはや、目まぐるしゅうございましたな」
「……ほんとにね」
げんなりしてそう返せば、こんのすけはお上品に笑った。疲れてるから私は笑えん。笑えんぞ。いやーひっさびさに全力疾走したわ。足は遅いけど。
ひいふう深呼吸をして息を整え、大きく溜息をつく。呼吸が沈静したタイミングを見計らったかのように、補助役狐が口を開いた。
「如何なされますか」
いかが、とは。なんぞや?
「いかがって、戻るか戻らないか、って事?」
「ええ」
こっくりと首を縦に振るこんのすけは、至って泰然自若だ。余裕ありすぎ。羨ましい……見習わないとなあ。
「んー……気持ち的には戻りたくないけど、中断しちゃったからなあー……ちゃんと塩に力が入ったか気になる。盛り塩しても浄化効果がなきゃ意味ないしね」
「ふむ。ご安心を。四方のお清め塩には、十分あなた様のお力が宿っております」
「え、本当?」
「はい。現在、手入れ部屋は清浄な気に満たされているでしょう。浄化は為されました」
「へえー、あのくらいでイケたんだ。良かった」
そうかそうか、盛り塩は成功したか。これで浄化のために日々本丸御殿に行かなくてもよくなった。まあ、定期的な力の補充は必要だが、それはもっと先の事になろう。少なくとも、何ヶ月かは保つはずだ。
何はともあれ、目的が果たせていて一安心である。掃除が終わってやっと毎日のお屋敷訪問とバイバイできたのに、やり直しとか面倒だから嫌。もーしばらくはここに来たくないわー。
疲弊感で気怠い体。「よいしょ」と掛け声を出して起き上がる。
「やることやれたんだったら、別に戻らなくてもいいっしょ。帰ろ、こんちゃん」
力の注入が不十分であればおっかなびっくりでも引き返していたが、そうでないなら戻らなくともいいだろう。あの子らも私に長居などされたくないはずだ。むしろ、「てめえこら追い払ったのに戻ってくんな」とかなりそう。
「ほほ、そう仰られると思っておりました」
どんぐり眼を柔らかく細めたこんのすけだったが、私の次の一言で表情を一変させた。
「はー、心臓に良くない運動しちゃった。寿命縮んだかも」
「なんと。それは由々しい」
小さな狐はやにわに真顔となり、真剣な眼差しで私を仰ぎ見る。寿命のくだりは冗談で言ったのに、不安にさせてしまったようだ。
「え。うそうそ、冗談。私、だいぶ図太いからさあ、百まで長生きするよ」
「……百」
憂いを帯びた瞳をしているこんのすけを優しく抱き上げ、耳の付け根をやわやわ揉みながら撫でる。滑らかな毛に覆われた背中をとんとんと、幼子をあやすように叩いてやった。
ぎゅう。肩に置かれていた狐の前足に力が入り、可愛らしい肉球でしがみつかれる。あら、なんだかやけに甘えん坊。
どうしたのかと問おうとしたその時、狐の毛がそろりと肌に押し付けられた。とても静かな頬ずりだった。
「百では嫌です。千も、万も──ずっと、お側に居りとうございます。私を置いて逝かないでください」
切なげに漏らされたのは、今にも消え入りそうな音。賢い狐が言いそうにない、天則を無視した弁。
かろうじて耳が捕らえたそれは重くて、どうしようもないほど胸を締め付ける。
──ツキンと。尖った針で貫かれたみたいに、痛い。
私は脳天気で、楽観的で、難しいことが嫌いだが、こんのすけの吐露した言意が分からぬ程、馬鹿でも阿呆でもない。
人と式神では、命のつくりが異なるのだろう。……きっと、私の方が先に死ぬ。
どうして忘れてしまっていたのだろう。私とこんのすけは違う生き物だってこと、識っていたはずなのに。──忘れていた。
だって、こんなにも、近いとこに居るから。種別の差を意識しないくらい、この子の隣は居心地が良くって……今の関係が、二人の時間が、永遠に続くような気がしてて。
でも、そうじゃない。
いつか、私は、……。
「申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
作務衣に皺が寄るほど掴まれていた肩から重みが去る。とん、と身軽に飛び降りた小さな狐は、いつもの穏やかな面持ちで微笑んでいた。