02
手入れ部屋に持続的な浄化を施したその夜、あの子らに張っていた結界を解くことにした。星の綺麗な夜だった。
闇の帷(とばり)の落ちた庭を眺めながら、不意に「もう結界は不要だろう」と思い立ったのだ。盛り塩によって穢れを抑えられるようになった今、私にとっても彼らにとってもあの結界は無用の長物であろう。
離れの縁側で夜風にあたっていた私は、膝で寛ぐこんのすけをそっとどけて立ち上がる。小さな狐の「どうなさいましたか」という問いに、「ちょっとね」と軽く返した。言いにくいわけでも隠したいわけでもない。彼らの結界を解く事は私の中で些細なものでしかなくて、いちいち説明するのが面倒だった。だから、物臭故の「ちょっとね」になった。
目線が高くなったことで視界がぐっと広がり、敷地内が一望できる。星明かりを受けててらてらと煌めく池の水面が美しい。鯉たちは橋の下で眠っているのだろうか。楽しい夢を見ていればいいのだけれど。……魚も夢を見られるのならば、の話だが。
夜の黒に彩られた草葉や花が風に揺れ、さわさわと涼し気な音を鳴らしている。緑の濃いそれらも、直に赤や黄色に色づいていくのだろう。来月か再来月には、すっかり紅葉した秋景色を観賞することができるはずだ。
池の向こう、「御殿」の名に恥じぬ豪壮たる武家屋敷の縁側に、一人の刀剣男士が佇んでいる。暗くて顔は見えないが、背格好で太腿に大怪我を負っていた子だと分かった。癒えた傷はもう痛くないかな、足は引き摺らなくても歩けるかな、と人知れず思う。
大きな刀を背負っているあの子の傷が治ったのは、私が無意識のうちに「治れ」と念を込め力を送ってしまったから、ということだった。これは刀剣男士を修繕する正規のやり方ではないらしく、政府への報告を済ませた後にこんのすけと斉藤さんに注意を受けてしまった。
その理由は「力の消費が激しく、体に負担がかかってしまう」、というもので、斉藤さんはお小言をぼやきつつも私の体調を案じてくれていた。なんだかんだいい人だよね、斉藤さん。
特段具合が悪い感じはなかったので、まああのくらいなら直接治しても大丈夫なんだと思う。こんのすけが「なりませぬ」って怖い顔したからしないけど。はいはいちゃんと手入れ部屋で式神(?)呼び出して資材放り込んで治したらいいんでしょ。次はマニュアル通りにしますよ。
先刻の出来事を一通り思い出し、これから自分が行おうとしている事へ関心を寄せる。さりとて、別に難しい事案ではない。
音を立てずに私を見張るあの子を取り巻く結界へと狙いを定め、ボールの空気を萎ませるように力を抜いていく。目には見えないぽしゃりと潰れたそれを引き寄せるよう精神を集中すれば、なんら抵抗なくこちらに流れてきた。
感覚を研ぎ澄ませて、本丸御殿に在る己の力を探す。目当ての物が見つかったので、同時進行で黒い髪の子と青い髪の子の結界も解いた。どや、遠隔操作もお手の物なんだぜ? ……あの子たち、驚いているかしら。
「結界を除かれましたか」
下から声をかけられ目線をおろせば、黒くて丸い二つの眼が私を見上げていた。
「うん。もう要らないでしょ」
「……ええ、そうですね」
澄んだ双眸を本丸御殿へ徐ろに向けたこんのすけは、そのままじっと前を見据え、微動だにしない。思慮深いこの狐は、いったい何を見て、何を思っているのだろう。聞いたところで教えてくれはしないかもしれないが、その瞳に映り、その心に抱くものが、哀しさに染まっていないことを願う。
さて、向こうのあの子に一声くらいはかけておこうか。
「もう要らないと思うから、取っ払ったよー」
闇に紛れているあの子へ放った声が、暮夜の静寂を切り裂いた。言った後で「主語がなかったな」と気付くが、まあ、きっと分かってると思う。……たぶん。
あちらさんは何も言い返してこない。身じろぎ一つとせず、ただ粛として縁側に腰掛けている。反応がないのにもだいぶ慣れっこになっていたため、「やっぱシカトか」とさらりと差し置く。夜暗のせいで表情も読めないけど、良い顔はしてないでしょうなあ。ま、どう思われてもいいや。どうせ何やっても批判的に捉えられるんだから。
「聞こえてんのかなー?」
ふんと鼻で息をつき、首を傾げる。声量は十分なはずだが──もしや耳や鼓膜にも傷があって難聴が、って、そんなわけないよね。今まで普通に話せてたもん。やっぱりシカトだわ。
「お声掛けは届いておりましょう」
「うーん、だよね」
こんのすけの言葉に対して反対側に首を倒し、もう一度鼻で溜息。はあ、考えるだけ無駄だ。
……おや?
「あれ、誰か出てきた」
あの子の後ろ、縁側に面した障子襖がするりと開き、細長い隙間にうっすらと人影が現れた。ぼんやりとしたシルエットだが、背が高いので黒髪の子であろう。ちょろりと揺れる緩く縛られた細く長い毛束が、うっすらと見える。ほほう、私が結界を解いたもんで、何事かと警戒して出てきたのかね。
「鯰尾藤四郎にございます」
「んー、うん」
しばし動向を窺うが、あの子らが刀を抜いて突撃してくる気配はない。星の瞬く夜空の下、二つの人影は二言三言交わし、こちらをじいっと凝望していた。やあねえ、視線で射殺す気? へっ、そこまで私ヤワじゃないわー。
「おお、主様」
出し抜けに私の足元に擦り寄った狐が、仰天したように抑揚のついた声をあげる。続けて、「足が冷たくなっております」と可愛い前足で私の片方のふくらはぎを抱きしめてきて、肌がごわごわした温かさに包まれた。
そういえば、ちょっと寒い。日中は残暑に茹だる時もあるが、やはり九月初めとはいえ秋。朝晩はやや冷え込むようになってきた。そのうちもっと寒さは増していくだろう。
「あー。ほんと、ちょっぽし寒いね。……中に入ろっか」
「はい。お体を冷やして風邪を召されてはいけませぬ故」
「私、風邪とかあんまりひかないんだけどなー。年に一回なるかどうか」
「ご丈夫でいらっしゃるのは良いことですが、秋夜の寒気はお体に障ります」
「ええーっだからそんなにひ弱じゃないよ! このくらいの冷えで体壊すようなタマじゃないって」
顔も頭の出来も性格も普通な私であるが、体はたぶん健康で、病気知らずな方だ。目も歯も良いし、病院なんて子供の頃以来行ったことがない。
昔は「体が丈夫なのなんてどうでもいいから顔を良くしてくれ」と思ってみたりもしていたけれど、今は違う。元気な体ってすごく大事。顔はもうどうでもいいから(どうにもならないし)、無病息災でできるだけ長生きしたいな。
「そろそろ寝具も冬用にすべきでは?」
「や、まだいいまだいい。もっと寒くなってからでいいよ。でも、衣替えは……そろそろ考えとかないとね」
七分袖や長袖、厚手の上着、もこもこの靴下──晩秋には半纏も欲しい。畑仕事や庭いじりをするのでできるだけ動きやすくて、軽い物。着脱が楽なやつがいいな、洗濯できる布材で。
縁側から部屋に戻り、障子襖をそっと閉める。行灯の暖かな火が静かに揺れ、それがほんの少し寒さを緩めてくれた。