07
「おーい」
秋晴れの昼前。畑の水遣りを済ませた私は、こんのすけとの最終打ち合わせののち、御殿の付喪神様に声をかけた。今日の見張りは、以前はからずも右大腿部の傷を治してしまった明るい灰色の髪の子だ。
小さな体に大きな刀(「大太刀」というらしい)を背負い、縁側で体育座りをしているあの子は、面食らったように目をまんまるにし首を伸ばしてこちらを見ている。何やら驚かせてしまったみたい。まあそうだよね、夏の大掃除以来、こっちから話しかけてなんかなかったもんね。
「ちょっといーい? 話があるんだけど」
手をひらひら振って「あんたに話しかけてんのよ」アピールをすると、ここでようやく灰色の髪の子の眉間に皺が寄る。うん、平常運転でなによりです。人間(わたし)なんかに話しかけられて不愉快ですよねすみません。
池の側、丸裸の桜の幹の隣で、そっと溜息を吐く。傍らで私を見守ってくれているこんのすけが、「主様、お気を強く持って」と囁くように励ましてくれた。……うん、頑張るよ。
私は今、ひと夏のあのときのようにあちらとこちらの境目にいて、できれば結界から出ずに話をつけたいなー、あの子もうちょっと近づいてきてくれないかなー、なんて思ってたのだけれど、そう思惑通りにいくはずもなく。
灰色の髪の付喪神は面白いくらいに警戒心を露わにして微動だにしない。私の呼びかけを耳にし、てててっと近寄ってきて「どうしたの?」なんてかわいらしく小首を傾げたりなんぞも、もちろんない。そんなの夢のまた夢だ。
へえへえ分かりましたまた私がデカイ声はりゃいいんでしょ。あーもう今度メガホン買おうかな。……はっ、いやそれより電話、電話だ。お屋敷に固定電話を置いておけば、用がある時に連絡できる。あれこれってナイスアイデアなんじゃない? あーでも、用事っていう用事ほとんどないもんなー。やっぱメガホンでいいわ。いや本当に買うかわかんないけど。
すうっと大きく息を吸い、「あのさあ」と口火を切る。あの子がピクリと身じろいだので、声は届いているのだろう。
「そっちの掃除した時、わざとじゃないけど『手入れ部屋』? ってとこ私見ちゃったじゃん? そんで、君らの仲間けっこうひどいことになってたからねえ、そろそろ治させてもらえないかなーって思うのよ。ずっとあのままはよくないと思うし」
そこで一度言葉を切り、向こうのあの子の様子を窺う。萌黄色の瞳が放っていた強い眼力から固さが薄れ、弛みなく私へぶつけられていた真っ直ぐな視線は右に左にぶれている。両手で膝を抱え、前後に小さくゆらゆらゆれている姿は、どこか所在なさげで。
……あれまあ、なんか、たじろいでる? てっきりギン! って睨みつけられて、「いい」って突っぱねられると思ってたんだけど。だから色々理由付けを用意してるのになあ。いや、まあ、すんなりオッケーしてくれてもいいのよ。うん。拍子抜けだけど。
なんか、押せばいけそうな雰囲気があったので、もうすこーし言葉を添えてみる。あくまでもすこーし、ね。やかましい主張はNG。
「治すだけで、他は何もしないよ。お手入れが終わったらすぐ出てく」
敢えて笑顔は作らない。媚びも優しさも含ませず、ただあっけらかんと。裏も何もないような風を装い、密やかかつさり気ない誘い文句をしれっと出した。
ピタリと、灰色のあの子の揺れが止まる。大きな双眸がじっと私を見つめ、やがて眉尻が緩やかに下がり始めた。ああ、見覚えのある表情だな、と思い、それが何なのかを思い出すまでに時間はかからなかった。
あれは、刀剣男士の「どうしたらいいのか分からない顔」だ。いつかの黒髪の子も、あんな顔をしていたっけな。懐かしい。
苦いような、でも切ないような──なんとも言えない気持ちになり、困り顔で視線を彷徨わせるあの子をぼうっと眺めてしまう。
……きっと、悩んでるんだろうな。信じるか信じないか迷って、私が無害か有害か考えて、大切な仲間の治療と人(わたし)への拒絶を天秤にかけてるんだろうな。人間不信もここまでくると大変だよねー。可哀想に。
傷ついた仲間を治したいのに、私を信用できないもんだから託せない。葛藤し憂苦に苛むあの子を、つい憐れんでしまう。
不憫よなあ、と同情する中で、ふとあの子の脚が気になった。この前うっかり治してしまった太腿の、ぱっくりと割れ生々しい肉が見えていた赤黒い傷。あれが消えた今、ああやって両膝をぎゅっと抱えることができるのは、痛みがないからだと思いたいのだが……。
「そういえばさあ」
あの子に一つ、聞きたかった。
「ね、太腿はもう痛くない?」
指し示すように自分の腿をぽんぽんと叩くジェスチャーをする。私がやらかしてしまったせいで、中途半端な治し方になっていないか気がかりだった。肉眼的には綺麗になっているが、痛みはどうだろう、と。
あの子は鳩が豆鉄砲を食らったように萌黄色の瞳をまあるくし、次の瞬間にはあどけない顔をくしゃりと歪ませ、寸時のうちに立ち上がる。かと思えばやにわに身を翻し、本丸御殿の周りを縁側に沿って走り去ってしまった。なんと慌ただしいことか。
「え、ちょ」
引き止める間もなく、ぴゅーんと姿を消してしまった灰色の付喪神。えええなんで? なんで逃げた?
はくはくとわなないていた唇は、私にいったい何を言いたかったのだろう。それとも、単に言葉が出なかったのだろうか。
あー……なんか私、ヘマしちゃった? 痛くないか聞いただけだったのに、なんなの、タブーだったの? てかやっぱり私、めちゃんこ嫌われたままなんじゃない? 生理的に無理だと思われてそう。
あの子が足を引き摺らず走れるようになったのは嬉しいんだけど、はあ、逃げられるとは。
「あーあ、逃げられちゃった。だめだったね」
灰色の髪の付喪神の消えた先に目線を投げながら途方に暮れるが、足元のこんのすけは「いいえ」ときっぱり否定した。
力強い声音に何か含みを感じて見下ろせば、黒いどんぐり眼と視線がかち合う。
「手応え有り、にございます」
「はあ? 手ごたえ? ないでしょ」
なに言ってんのこんちゃん、と驚いてツッコミをいれたが、こんのすけはゆっくり、しかししっかりと首を横に振る。
「いいえ、主様。きっと、良い方向へいきますよ」
口元に弧を描いてにんまり笑う狐は、さも愉快そうで。
「えー!? うっそでしょ? あれのどこが上手くいきそうなの? 『余計な心配してんじゃねーよクソ審神者!』みたいな感じだったじゃん」
そりゃあ、最初の方はイケるかもとか思ってたけど、結局困惑させた上に逃げられちゃったしねえ。
「ほほほ、いえいえ。違いましょうぞ」
「うっそ、違わない。なんなの、その自信どこから来てんの?」
「さて、どこからでしょうねえ」
「えーっ何それ」
「ほほほ」
ころころ笑う小さな狐と、盛大に狼狽える私。
ひとしきり笑ったこんのすけがふうと息を吐き、ついと視線を遠くへやる。屋敷の陰に消えていった、あの子の影を追うように。
「なんとまあ、蛍丸も随分可愛らしくなりましたなあ」
「……ええー? そう? ちょびっとはしおらしかったけど、うーん……」
面白がるように、けれど親しみの篭った声で呟かれたそれに、私は全く同調できないのであった。