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ドタン、ガラガラ……。
「いち兄!」
自分が倒れた音と、手伝い札の散らばる音、そして黒髪の子の叫び。どん、と肩にぶつかる何か。一瞬何が起きたか分からなくて虚を突かれるも、新古ごっちゃな血のこびりついた畳に手を付き、上体を起こして振り向けば、すぐに状況が把握できた。
水色の髪をした男が、虚ろな、しかし殺気立った金の瞳を脇目もふらずに私へぶつけている。その男の握る、錆だらけの刃毀れした刀が私の足元にだらりと落ちており、どうやらそれが凶器らしい。
そうか、私はあれで足を攻撃されたのか。で、バランス崩して転んだと。
男の体はうつ伏せになっていて、おそらく、彼は倒れたまま腕だけを使い私に刀を振るったのだろう。その並々ならぬ怨嗟と執念に恐怖を覚える。
両のふくらはぎにじんじんと痺れたような感覚はあったが、そこに痛みはない。視界に入った己の足は無傷で、結界のおかげで一刀両断はまぬがれたようだ。
「主様、お怪我は」
「っ、だい、だいじょぶ」
顔を覗き込んでくるこんのすけに、口をぱくぱく開閉して返事をする。気が動転していてうまくしゃべれなかった。状況を理解しようと、これからどうすればいいのかと、思考回路がめまぐるしく回転している。
倒れた先に誰とも知らぬ付喪神の体があったが、結界を張っているため私とそれの肌が触れ合うことはない。空気の層のようなものに阻まれ、重力がおかしくなったように感じた。
「ご、ごめんなさ」
半ばパニックになっていながらも、のしかかってしまった相手へ咄嗟に謝る。返事はなかった。
私の下敷きになっていた神様はやはり傷だらけで、意識朦朧としているようだ。微かに開かれた眼は、赤と黄の混ざったような丹色。頬骨の縁に沿うもみあげは深みのある葡萄色で、図体のでかい男の身なりをしていた。
「いち兄、だめ。やめて」
黒髪の子が悲痛に顔を歪め、私にギラギラと殺意を向ける男に駆け寄る。
「いち兄、大丈夫だよ。大丈夫だから……」
いちにい、いちにいと宥めるように黒髪の子が声をかけるも、私を攻撃した男は凄みのある面でこちらから視線を外さない。あの子の声に一切の反応を見せず、制止をふりきって立ち上がろうと満身に力を入れている。我を忘れる、とはあのような状態なのかもしれない。
「鎮まりなさい一期一振。我が主はあなたやあなたの兄弟に決して危害を加えませぬ」
小さな狐が私を庇うように男の前に立ちはだかったが、やはり男は止まらない。力んだせいか、彼の肩や腕の大きな切り傷から血が噴き出す。ああ、鉄臭い。新しい血がどんどん畳に鮮やかな染みを作っていった。B級ホラー映画さながらだ。
これはやばい。脳が警鐘を鳴らし、慌てて立つ。
どうする。逃げるか? だが手入れは。
ハッと周囲を見渡し、必要なものが手元にないことに気付く。手伝い札は畳に散らばっているが、式札が見当たらない。転げた際に落とし、どこかに紛れてしまったか。
「こんちゃん、どうしよ、式神の御札がない。落として失くしたかも」
後ずさりをして男と距離をとりつつ、畳に視線を這わせる。紙でできた四枚の白い札は、いずこ。
「ならば一旦引きましょう」
「わ、わかった」
どうしよう。札がない。手入れができない。あの男にまた攻撃されたらどうしよう。私は逃げられるだろうか。どうしよう、どうしよう、どうしたら──。
焦ってはいけないと分かっていても、ばくばくと打つ心臓が勝手に暴れ回る。落ち着かなければと自分に言い聞かせ、一時退散すべく部屋の入り口の方を向くと、誰かの震える声が耳朶を打った。
「なんで」
そちらを見れば、血を垂れ流しながら膝立ちになった男にしがみついている黒髪の子と視線が合う。そうだ、あれはこの子の声だ。
手入れをしに来たはずの私が帰ろうとしているものだから、驚いたのだろうか。黒髪のその子は青痣で飾られた口をわなわなと開く。今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。
「なんで、……? はやく治してよ。いち兄が、いち兄が……っ」
絞り出したようなひどく苦しげな声音に、離れに戻ろうとしていた足が引き止められる。
今この子がどんなに必死で、辛いのかが伝わってきて、胸がぎゅうと苦しくなった。こんなこの子、今までに見たことがない。私を殺そうとしている瀕死の男は、黒髪のこの子にとってそれだけ大切な存在なのだろう。
重傷を負い、だれだらと血を流す仲間。私だって、肉親や親しい友人が目の前でこんなことになっていたら──。
「治して、早く治して……お願い」
ひん曲がった眉、潤んだ双眸、悲しみに歪みくしゃくしゃになった面貌と沈痛な喘ぎに、私の心は突き動かされた。
『お願い』と、あの子は確かにそう言った。
「お待ちなさい鯰尾藤四郎。私と主様は離れで再度手筈を整えて参りま……主様?」
正規のやり方ではないが、治れと念じて力を流す。灰色の髪の子の太腿の傷は、それで治った。
では、血飛沫に沈むこの神──黒髪の子の大事なこの男も。……もしかすると、ここに居る全ての刀剣男士も。
式神なぞ喚ばずとも、審神者の力でなんとか治せるのではなかろうか。
──……力を溜めなければ。人嫌いな黒髪の子が私へした、初めての「お願い」なのだ。叶えてあげたい。治してあげなきゃ。
「主様! お止めください!」
滅多に声を荒げぬ狐が吠えるように言うが、私はやめなかった。
『禁則ではありませんが、式神を介さぬ直接的な手入れは体に負担が掛かり過ぎるため、あなたにはお勧めしません』
以前受けた斉藤さんからの注意が一瞬頭を掠めるも、アドレナリンが出過ぎて舞い上がっていたためか、「まあでもなんとかなるんじゃないかな」と軽くスルーしてしまう。
ご法度じゃあないんだし、ちょっとくらいイケるんじゃなかろうか。無茶をするつもりはないし、加減さえできれば無問題。気分が悪くなったら止めればいいだけの話だ。そう思って。
「大丈夫大丈夫、とりあえずこの人だけでも、……」
なんて呑気なコトをほざきつつ、体の内側に私の力を集め続ける。どの程度でこの場に居る付喪神どもを治すことができるのだろうか? 己の力の限界を知らぬ私には見当もつかない。まあ、そこそこは必要なんだろうな。なにせこの数だ。
全員は無理でも、せめて、この水色の髪をした刀剣男士だけは。だってあの子の『お願い』だから。
やるだけやってみて、だめなら帰って再準備。フォローは補助役の狐にお任せ。
ひとまず、黒髪の子の大事な人っぽいあの男を治してみて──。
「いけません、主様!」
「大丈夫だいじょ……あれっ?」
足元には、作務衣の裾を咥えて引っ張るこんのすけと、カタカタ振動し始めた複数の手伝い札。
札が勝手に揺れ動く……何事? 地震? でも私は揺れてない。建物だって静かだ。
「ああ、札が共鳴を……これはまずい」
共鳴? まずいって、何が。
「主様!」
聞く前に、力が弾けた。忽然と現れた真っ白な光で目が眩み、同時に自分の中からたくさんの……経験したことのないほどたくさんの力が一気に出てゆく。まるで何かに根こそぎ吸い取られたようだった。私が意図してやった事ではない。私は、私はまだ力を溜めていただけだったのに。
脳天がふわふわする。気持ちが悪い。足もグラグラするし、視界がちかちかして前がよく見えない。
「うっ……」
「主様、こちらへ!」
「こんちゃ、ん」
周りがどうなっているのか分からない。手入れは成功したのだろうか、手伝い札はなぜ震えていたのだろうか、私は力を使い過ぎたのだろうか、コントロールできなかったのだろうか。疑問は多いのに、眼前は白くて、ふわふわしてて、何がなんだか、……。
うまく力の入らない足を懸命に動かし、こんのすけの声のする方へ歩く。
「小夜左文字、襖をお開けなさい。我が主は離れへ戻ります。主様、足元にお気をつけを」
声による小さな狐の誘導に、一心不乱に着いて行く。衣擦れの音や知らない男の声が耳に入るが、それらを気にしている余裕なんてなかった。
「皆、お控えなさい! 後追いはこのこんのすけが固く禁じます」
威厳のある声が空気いっぱいに響く。思考能力が低下していて深く考えられなかったけれど、私を守ろうとしてくれていることだけははっきりと分かる。
こんちゃん、やっぱ頼もしいなあ、と思ったところで、私の記憶は途切れてしまった。