15*
「始めは、信用などしていなかったのです。新たな審神者もあの男と同じであろうと高をくくり、無礼ながらよそよそしく接しておりました。人の子なぞどうせ、と半ば投げやりにもなっていましたなあ」
鳴り止まぬ稲妻が度々空を眩く照らし、雷太鼓は大気を揺らす。狐はその合間を見計らい、凛と声を張った。
「けれど、あの御方は前任とは違いました。気さくに笑って私を気にかけ、他愛のない話をしたがる。あろうことか、なんの抵抗もなく湯浴みや食事に誘うてこられるのです。されど無理強いはせず、私の望む距離を気長に保ってくださりました」
暗く淀んでいた狐の眼に、清らかな光が宿る。そこには、今は眠りし女への情愛が満ち満ちと溢れていた。
「私を縛りも殴りもせず、暴言すらも吐かない。あの男以外碌に人を知らなかった私にとって、驚きの毎日でしたよ」
女と過ごした日々を追想するその眼差しは、なんともたわやかで。狐の面差しはとても優しく、穏やかなものだった。
「……色々ございました。おかしな事、不思議な事、初めての事──本当に、色々。あの御方の傍で日々過ごすうち、私の心は徐々に徐々に移ろうたのです。流れ変わる季節のように」
ほう、とついた狐の溜息には、たんと幸福が混じっている。
「いつの間にやら私はあの御方に惹かれ、ひと度気を許してしまった。……好きだとはっきり判るまで、そう時間は掛かりませんでしたよ。募る想いのなんと早いこと」
物柔らかに語る狐を見下ろす神々の心境は、ひどく複雑なものだった。確かに狐は幸せそうで、「主」とやらをいたく慕っているように見える。その言明のみを鵜呑みにするのであれば、新たな審神者は前任とは違う善き人間なのだろう。
しかし、傷が癒え、まともな思考力を取り戻したばかりの刀剣男士たちの大半は、狐の言う事を受け入れられなかった。記憶にドスリと刻み込まれた忌まわしき過去と、己を虐げ続けた男への怨恨が、神々をきつく縛り付けている。
無理もない。彼らの受けた仕打ちは苛烈極まりないものだ。人を憎み、恨み、用心するのは当然のこと。それを狐は、重々理解していた。
「今、私はあの御方を主と定め、一心にお仕えしております。なれど、全ての人間に懐を開いたわけではありませんし、あの男の所行を甘受したわけでもありません」
ひたすらに柔らかかった声音に、仄かな厳しさが滲む。
「あなた方が人を毛嫌うお気持ち、このこんのすけには痛いほど分かります。ですので、あの御方を主と呼べ、あの御方のために身を捧げよ、あの御方を敬仰せよ、などとは申しません。……ただ、隅でもよいので心に留めておいてほしいのです。我が主が先の審神者と異なる生き物であることを」
力強く言い切って、真面目な面になる狐。
微動だにしない神々へ真っ直ぐな眼差しを注ぎ、やがて「お願いがあります」と声高に鳴いた。
「どうか、あの御方へ刃を向けず、その胸に根付く凄まじい敵意や憎しみを、できれば抑えていただきたい。新たな審神者へ──人間へ思うことは多々ありましょうが、しばらくはそっと、様子を見るにとどめて下さいませ」
切々と請うた狐は深くお辞儀し、長い間頭を下げたままでいた。政府の式神を囲む付喪神は、誰も何も口にしない。本丸を急襲した雷雨だけが、ざあざあゴロゴロ、煩く喚いている。
「我が主は、諸兄に決して危害を与えませぬ。ですので、あなた方も同様に──あの御方の心をみだりに掻き乱すような行いは、何卒なさらないで下さい」
狐はやおら姿勢を戻し、居並ぶ神々を見渡しながら声を放つ。粛々としたそれは、どこか言い聞かせるような口調をしていた。彼はどうしても、付喪神が女へ乱暴狼藉を働かぬようここで箍(たが)をはめておきたかった。彼の大切な主のため、そして、昔年の朋輩である刀剣男士のために。
政府の式神、審神者の忠実なる管狐の「お願い」は、単に女を守るためだけのものではなかった。
神々が総出で攻勢を仕掛けたり、辛く当たるような事をすれば、きっと女は心身共に傷付くだろう。それだけでなく、付喪神どもの非情な行いによって女が彼らを嫌ってしまうようなことになれば──……相和の道が遠ざかるのは明白だ。最悪の場合、女は苦痛に耐え切れず転任を希望するかもしれない。そうでなくとも、貴重な人材である審神者を気遣った政府が、別の本丸への異動を命じてくる可能性もあった。
……再び審神者の居なくなったこの地を、時の政府はどう扱うか。
ここは希少な刀剣男士も揃い、練度の高いものばかりが居る本丸ではあるが、あまりにも政府の手を焼きすぎている。歴史修正主義者との戦いにおいて、この先ずっと役に立たないのであれば……共闘の見込みがないままであれば……政府はこの地を付喪神ごと消し去る判断を下してしまうのではないかと、狐は陰ながら危惧していた。
今まで女は、鯰尾藤四郎らに斬り掛かられても、冷ややかな目で見られても、無視をされても怒鳴られても、ぼやきはすれど神に対する嫌悪感を根付かせはしなかった。主体的な交流を控え、やや受け身になりはしていたが、そこに強い苦手意識はない。
狐は、いつか刀剣男士が人に心を許す日が来た時のためにも、女側の溝を深めたくなかったのだ。
思慮深い狐は様々な可能性を考え、先々を見据えていた。皆で笑って暮らせる、幸せな未来を求めて。
「……ご安心を。あの御方に癒えたばかりのあなた方を戦場に駆り出すおつもりはありません。快癒の暁には、『休んで好きなことをしろ』、とおっしゃっていましたから。そうでしょう、鯰尾藤四郎」
一期一振の後ろに佇む脇差は、名を呼ばれてハッと身じろいだ。まだ新しい記憶が彼の脳裏に蘇る。
「みんな元気になったらさ、ゆっくり休みなよ。のんびりだらだら自由に好きなコトして」と。春先に来た新たな審神者は、本日手入れの取り決めをした際に三口へ告げた。どうということもない、お気楽そうな口ぶりで。
確かに。確かにそう言った。けれど、鯰尾藤四郎はそれを声に出して肯定できなかった。そうしてしまって、こんのすけに──ひいてはあの女に肩入れしていると、仲間に思われたくなかったのだ。
傷が癒えたばかりでひどい人間不信の兄弟たちや他のものに、「裏切り者」だと認識されやしないか、怖くて。
だが、口を硬く閉ざし、暗紫の瞳をひたすらに伏せても、端的な否定はできなかった。人の子などどうでもよいはずなのに、あの女の言葉をなかったことにはできなかったし、「ちがう」「言ってない」と嘯くこともできなかった。
だって、確かに、あの女は言ったのだ。
何かに耐えるように歯を食いしばる脇差を、一期一振は心配そうに、しかし疑義として横目で見ている。
「……だんまりですか。まあ、よいでしょう」
一向に話す気配のない脇差から視線を外し、小さな狐は人知れず思う。やはり神々は主を……新たな審神者を受け入れられそうにもなく、また好意的な意味での興味を持っていそうにもない。
今粘っても無駄だ。それどころか余計に悪感情を煽ってしまう。
──そろそろ頃合か。
降りしきる雨、轟く雷。狐はこれで最後だ、と威儀を正し、肺いっぱいに息を吸い込んだ。
「もう一度だけ言っておきます。あの御方はあなた方を戦地へやろうとは考えておりません。過去、あなた方が前任に虐使され、それ故に人嫌いだということをお知りになられていますが為、刀剣男士の協力を得るのは難しいと察されておられるのです。過ぎた干渉もなさらないでしょう。『好きに過ごせばいい』、というのが、主様のご意向にございます。しかし、『物騒なのは好きじゃない』、とのことですので、なにとぞ荒々しい真似はなされぬように」
言い放って、小さな狐は再度深く一礼した。
「では、私めはこれで。長居をしました。くれぐれもよろしく頼みましたよ」
腰を上げ、俊敏に身を翻す管狐は、ふと振り返って「ああ」と漏らす。
「雨戸を閉められた方がよいかと。……恐らく、長雨になります」
神々は怪訝そうに眉根を寄せるだけで、その勧告へは誰も返事をしやしなかった。暖簾に腕押し糠に釘。だがそれもまた致し方ない。さして気にすることなく、狐はふむ、と上空へ目をやった。
仰ぎ見た空は黒雲が立ち込めていて、漠然とした不安が狐の心に這いずった。
(あの御方は、お目覚めになるのだろうか)
寝息も立てず、寝返りもうたぬ女。弱い鼓動は風前の灯火のようで、ずっと眠ったままなのではないかと鬼胎を抱いてしまう。
「……主様」
ぽつりと溢された声が雨音に溶ける。
いつ意識を取り戻すか分からぬ主を思い、狐は悲しげに瞳を曇らせた。