16
白いものが宙を舞う。雪かな、と思ったけれど、よくよく見ればそれは桜の花びらだった。
うっすらと霞んだ青空を埋め尽くさんとするほどに、薄桃色の花片はゆるりゆるりと風に乗る。大気にひらひら舞って、踊り疲れて地に落ちて、緑の上に可愛らしくちょこんと座る様は、草葉へ春を告げているようだった。
……ああ、周りが騒がしい。四方八方どこもかしこもざわついている。
池沿いに敷かれた茣蓙にひしめく男たちが、やんややんやと飲み食いし、楽しそうな大声をあげていた。みんな笑って幸せそうで、私もすごく心が温かくて……そうだ、今は宴会を──花見をしている最中だ。
なんて楽しいのだろう。満開の桜の木の下、ゴツゴツした幹に背を預け、私は舞い散る花弁を眺めていた。傍らにはこんのすけがいて、ぴたりと私に寄り添っている。
一人と一匹でしばらく花に見とれていると、やがてこんのすけが私の腕に頭を擦り付けた。
「大団円ですな」
狐の獣面がにっこりと破顔し、こちらを見上げる。
私は心底嬉しそうな、幸福そうなこんのすけに、──……。
*
「──じさま、……あるじさま」
すう、と、浮上した意識。ぼんやり聞こえるこんのすけの声。
「主様、主様」
全身の気だるさと外気の寒さを感じながら瞼を開けば、よく見知った顔が視界いっぱいに広がっていた。
なに? 何事? ここは、……あれ、桜は? 花見は? ……あー……もしかして夢か。
しばし夢と現が交錯していたが、覚醒してしまえばそれまでだ。どうも私は今まで寝ていて、夢を見ていたらしい。
「こんちゃん?」
「はい。私めはここに」
すりり、と強めに頬擦りをされ、お揃いのシャンプーに混じる獣独特の臭いが鼻を掠める。
徐々に明瞭となる五感とは反対に、消えていく夢の内容。なんだっけ、桜吹雪と宴会と、……たくさんの、あれは、……誰だか分かんないけど、刀剣男士?
もう細部まで思い出せない。けれど、心がほんわか温かくて、多幸感がたっぷりと湧き出てくる。たぶん、良い夢だったのだろう。
「良かった。ようやっとお目覚めになられまして……」
「ん、私寝てた?」
「……ええ」
寝起きのせいかだるさのせいか、呂律が綺麗に回らない。重い体を起こし、ぐるりと辺りを見渡す。首元まで掛けられていた掛け布団がずるりと落ち、自分が今、離れの土間に居る事を知った。どうやら私は上がり框で眠っていたようだ。……なんでまたこんな所で?
周囲は薄暗く、土間の格子窓がおぼろげな光をうっすらと漏らしている。どこからともなく漂っているのは、土と雨の匂い。
「んーっ、ふわあ」
私にくっついて離れない小さな狐を撫でながら大きく背伸びをすると、あくびが付いてきた。頭の中の靄がみるみる晴れ、ハッとする。
「あ! お手入れ!」
水の入った風船が破裂したかのように、どんどん記憶が蘇る。
どうにかこうにかありついた刀剣の修繕、汚い手入れ部屋、想像よりもひどかった付喪神の怪我、水色の髪をした男、ふくらはぎへの攻撃、派手に転んだ私、失くした式札──……黒髪の子のお願いをきこうとして自分の力だけで治そうとしたら、手伝い札がカタカタ鳴って……。
勢いよく奔流した力、真っ白な光、私を呼ぶこんのすけの声。……ああ、その呼び声に向かって歩き始めたまでは、覚えている。
そこから先は、何も。──何も思い出せない。記憶がごっそり抜け落ちている。
私はどうやって手入れ部屋から──本丸御殿から離れに戻ったのだろう? 自力? それとも誰かに運んでもらった? ……誰に。ちっちゃい管狐のこんのすけには無理だ。では……?
いやそれよりも手入れだ。何かに吸い取られるみたいにボシュッと力が噴き出たしたが……それで水色の髪の男の傷は治せただろうか。私はアレでどの刀剣男士をどの程度修繕することができたのだろうか。あまり考えたくはないが、まさか失敗して誰も治せていないなんてことは?
……いや、あれだけの力を使ったんだから、それなりに手入れはできたんじゃ? あんなに力を出したの初めてだったし、というか、溜めていただけの力が一気に出て行ったあの現象は何だったのだ? あんなことをするつもりはなかった。私は力を暴走させてしまったのだろうか。情けない。
「こんちゃん、私、手入れは」
疑問が多過ぎて、何から聞けばよいのかまとまらない。私は若干混乱していた。
「主様、落ち着いて下さい。順を追って説明致します故」
さすがお助け狐のこんのすけ。要領を得ない私を察し、まずは大まかな事の成り行きを話してくれた。その後、私に起きた私の知らない出来事を一つひとつ実に丁寧に教えてくれた。
水色の髪の付喪神だけでも治そうと試みたあの時、審神者の力に共鳴した手伝い札が私から力を吸い出すように大放出させてしまったらしい。結果、私は空っぽになるほど力を失い、今の今まで眠りこけていたそうな。……三日も。
こいつは驚いた。三日間眠りっぱなしって、排泄とか栄養とかどうなってたのさ! と自分の身体に気味悪さを覚えたが、こんのすけ曰く、「仮死状態に近かったので体の時間がほぼ止まっていた」のだとか。おそろしい。もう絶対力使い込んだりしない。や、使い込むつもりはこれっぽっちもなかったっていうか、おいコラ手伝い札なにしてくれとんじゃい! あれ不良品だったんじゃないの!? 力がある程度戻ったから無事に目が覚めたそうだけど、もし自然回復すらできなくなっていたらと思うと──うっ、一巻の終わりじゃん。
ちなみに、離れには自力で戻ったんだとよ。全く覚えてないから他人事みたいだけど、私は意識朦朧千鳥足よろしくで、ふらっふらながらもなんとか土間までは歩けたみたい。でも、そこで力尽きて上がり框にドテーン。意識消失でぐっすりぐんない。残されたこんのすけは、私に布団を掛けたり側で見守ってくれたり鯉に餌をやってくれたり……一匹で頑張ってくれていたようだ。迷惑をかけて本当に申し訳ない。これは何かお礼とお詫びをしないとな。
さて、肝心のお手入れなのだが……安心してください、治ってますよ。しかもね、全刀剣。いやーやってみるもんだね。こんのすけには「手伝い札と資材ありきの手入れです」「あなた様の力自体はそう強いものではありません」って説教されたけど。どうも私は手伝い札と山盛りの資材に助けられたらしい。あれらがなかったら手入れが失敗していただけでなく、意識不明な期間がもっと延び、最悪一生目が覚めなかったかもしれないらしい。ひえー。
えーと、はい、自分の力が有限であることを身をもって知ったので、もう無茶はしません。たくさん力を使う自力手入れは今後避けます。さすがにもう仮死状態なんて危なそうなもんになりたくないし、眠り姫(姫って柄じゃないけど)なんぞになりたくもない。いのちだいじに。目指せ百歳。
……まあでも、今回は結果オーライだよね。黒髪のあの子の「お願い」を叶えることができてよかった。彼、少しは安心できたかな? 仲間が治って喜んでくれたかな?
「お体の調子はいかがですか。ご気分は悪うございませんか。まだ横になられていた方がよろしいのでは……」
今しがた聞いた話を頭で反芻させていると、こんのすけが曇った顔で見上げてきた。
「ん? ううん、ちょっとだるいくらいで何ともないよ。大丈夫」
吐き気もなければめまいもしない。痛いところや違和感のあるところもない。ほんの少し、体が重いだけ。
「ですが」
手の甲に添えられた狐の前足がきゅっと強張り、黒くて丸いどんぐり眼が憂いを帯びる。
あー……そうか、迷惑だけじゃなくて心配もかけちゃったんだなあ。そうだよねえ、そんなつもりは毛頭なかったにしろ、やらかしちゃったせいで三日も寝込んだんだから。
じっとこんのすけを見つめたのち、毛皮に覆われた柔らかくて小さな体を両手で持ち上げる。そして、しっかりと抱き締めた。
「ごめん。心配かけた」
短かった。けれど心からの言葉だった。狐が苦しくないように加減しつつも、力強い抱擁を続ける。こんのすけへの計り知れない想いが、じんわりと胸を熱くした。
大事なこの子を不安にさせたり、悲しませたりしたくはない。でも、私の事でそうなってくれて嬉しくもある。自分がこんのすけにとって大切な存在なのだと、再認識できるから。
「……いいえ、よいのです。あなた様が意識を取り戻し、こうして生きておられる事が、私は大変嬉しゅうございます」
とても優しい声が耳に溶ける。首に回された前足、肌に触れる冷たい肉球、ぴたりと重なる頬、湿った鼻先、ちくちくする髭、委ねられた重み──全てが、無性に愛おしい。
やっぱり私はこの小さな狐が大好きで、大事なんだなあ。
「うん。……ありがとう」
より一層強く抱き締めれば、それに応えるかのように腕の中の管狐がしがみついてくる。まだ数ヶ月の付き合いではあるが、私たちはこんなにも昵懇の間柄。第二の家族と言ってもなんら差し障りがない。
秋のよき日。危局を乗り越え、また一つ私と小さな狐の絆が深まった。