21
離れを出て、黒雲が去った空の下へと一歩踏み出す。鼻を通る湿気た雨の残り香は冷たく、つい身震いしてしまった。太陽輝く昼下がりとはいえ、秋の大気は少々寒い。雨上がりなら尚更だ。
三日も続いた長雨の後らしく、やはり土壌はゆるかった。長靴越しにぐじゅぐじゅとした感触が伝わり、気持ち悪いような面白いような、不思議な気分になる。小さな狐のかわいいあんよが泥で汚れているのを見て、犬用のレインブーツを調達しようかな、とゆくりなく思った。
「こんちゃん、今度長靴でも──っ」
生じたばかりの思い付きをぽろりと口から落としながら、池を挟んだ向かいの本丸御殿へ何気なしに目線を移す。
刹那、短く吸った息が詰まった。心臓が大きく跳ねたのが自分でも分かる。
飛び込んできた光景があまりにも強圧的で、足が竦んでしまったのだ。──それほどまでに、脅威を感じた。
「かの方々は二口一組体制で見張りをしていたはずですが……これはまた、随分と群れて。何故、このようなことを」
冷静につらつら述べるこんのすけの言葉が半分しか頭に入らない。それもそのはず、私のちっぽけな頭は現在真っ白で、情けなくも肌を刺す凄みに体が縮み上がっているのだから。
軒先に、縁側に、障子襖の開け放たれた室内に、ずらりと並ぶ面々。ざっと数えて三十、いや四十は居るだろうか。容姿も服装もバラバラだが、腰に刀を下げていることは共通している。中には槍や薙刀らしき物を携えているものもいた。
皆、しかと床に足をつけ、姿勢良く起立している。その精悍な有様に、手入れ部屋で虫の息だった頃の弱々しさは微塵もない。彼らの身体に傷らしきものは見当たらないが、着ている服はズタボロだった。さすがに衣類までもが元通り、という風にはいかなかったようだ。
あちらこちらへ大勢が居並んでいるけれど、全員集合ではないみたい。青色の髪の子や灰色の髪の子等、小さな姿のものは視認できなかった。青年、大人……そんな背格好の男がみんな揃ってこちらを凝望している。あれらは全て、付喪神なのだろうか。……ああ、きっとそうなのだろう。
これだけたくさんいるというのに、声は無い。誰一人として口を開くものはおらず、ただただ黙って私を視線で射抜くだけ。四辺は不気味なほどに静寂だった。
冷たい。なんとも冷たい。
温かな夢の残渣が急速に失せていく。
──やはり、ダメなのか。
向けられている無数の目は、どれも凍てついているように見えた。眉間に皺を寄せているもの、真顔のもの、睨むように目を眇めているもの、口元だけが笑っているもの、不安げに唇を引き結んでいるもの──……表情こそそれぞれ違っていても、私を歓迎していないということは、どうやら皆同じのようである。
あの目を見ろ。警戒心に溢れ、品定めをするような、嫌厭にまみれたあの濁った眼を。沈黙は続いているのに、「お前が憎い。お前なんか大嫌いだ」と言われているような錯覚に陥った。
みんながみんな同じ目をしているわけじゃないかもしれない。ただ単に私を観察しているだけのものもいるかもしれない。だが、どちらにせよ「痛い」のには変わりなくて。
痛い。そう、心が。
グサグサと、鋭利なナイフで何度も心を突き刺されているみたいで、……いたい。
胸が苦しくて、苦しくて苦しくてたまらないのだ。
付喪神の一群には三月からの付き合いになる黒髪の子も混ざっていて、彼は私と目が合うなり睫毛を伏せてそっぽを向いた。形のよい頭が他の付喪神の陰に隠れてしまい、あの子がどんな面をしているのかはもう分からない。
初めての「お願い」、ちゃんと聞き届けたはずなのに。あんたの大事な仲間も、あんた自身も治ったんでしょ? それでも喜んでくれないの? そんな突き放すようなことするの? 時間をかけ、お互い少しずつ慣れてきたと思っていたのは私だけだったの?
……どうしてなんだろう。
御殿に佇む神々を、呆然と眺め回す。どれも目鼻立ちの整った、見目麗しいものばかりだった。彼らの面差しはとても端正だったけれど、どういうわけか今の私には「きれい」だと思えなかった。あの美しさを好ましいものだと感じられなかった。
誰も何も言わず、誰も微動だにせず、気ままな秋のそよ風だけが私達の間を通り過ぎてゆく。
時が止められたかのようなしじまの世界に、チャリ、と。微かな音がやにわに鳴った。そちらを見やれば、水色の髪の男が刀の柄を掴んでいる様子が見える。鍔のあたりで銀に煌めくあれは、刃だろうか。彼はそれはもう険しい顔つきをしていて、金の瞳には明らかな敵意が滲んでいた。
……なんで、こうなっちゃうのかな。
何かが音を立てて崩れてゆく。期待、希望、薄っぺらい自分、これまでの努力、我慢……全てが。
なんとはなしに、もう一度ぐるりと彼らを見渡した。……体が熱い。なぜだか胸が苦しくて、鼻の奥がツンとする。
恨み、怒り、憎しみ、疑念、拒絶──交わる視線はことごとく淡白で、忌避的で。立ち並んだまま動く気配を見せぬ神々は、やはり私を拒んでいる。
罵られないだけマシなのか。鋭い刃を向けられないだけマシなのか。
……何が? 何がマシだって? こんな、こんな──針のむしろじゃないか。
人間が嫌いだからって、何もしてない私にここまでしなくていいんじゃないの。
こんな大勢で、まるで集団イジメみたいなこと──……。
悔しい。悲しい。むかつく。
心の奥底から込み上げてくるドロドロとした感情を、必死で押さえつける。「仕方がない」と、いつものように流すことができなかった。
それほどまでに胸を衝かれ、気が高ぶっていた。心がガツンと殴られたみたいだった。
「主様」
下方から呼び声が聞こえる。
……ああ、落ち着かなければ。感情的になってはだめだ。
泣くものか。喚くものか。怒るものか。あいつらの居るここでは、絶対に。
「だいじょぶ」
喉から出した声は硬く、僅かに震えていた。
しっかりしろ、自分。あんたは立派な大人だろう? こうなることも予測していたじゃないか。心を偽れ。腹の中を晒すな。そう己を奮い立たせ、すうっと深呼吸をする。
さあ、何でもない風を装う準備を始めろ。役者になれ。普段のように飄々とするのだ。……三、二、一、はい!
強張っている顔面の筋肉を総動員し、にこやかな表情をこしらえる。しかし暴れ狂う激情を完全には抑制できず、さすがに笑顔までは作れなかった。
「どうも」
しっかりと口を開け、たった三文字を明瞭に放つ。努めて明るい声音にできたが、だからといって友好さを含ませているわけではない。挨拶? いいや、ただの社交辞令だ。
ぺこっと形だけの会釈を軽めにし、畑に通ずる太鼓橋へとっとと方向転換する。
「行こ、こんちゃん」
親愛なる小さな狐へ向けた声にしては淡々としていて、一方的で。だけどそんなの気にも留めなかった。どれもこれも、あいつらへの不快感のせいだ。
黙々と足を動かす。決してあちらに目線などやらない。今あいつらがどんな顔をし、どんな反応を見せているのかなんて、どうでもよかった。
激昂を抑えんとする私の横顔がどう映っていても、私のこの態度がどう思われようとも、そんなのもう知るか。
業火がうねる。猛り狂う。心の隅から隅まで、轟々と燃えていた。
前だけを見てずんずん歩き、あいつらからは見えない畑の奥まで進み入る。水気たっぷりの畑はぐじゅぐじゅで、畝溝にいくつも小さな水たまりができていた。
よく茂った茄子の葉陰に隠れるように腰を下ろすと、瞬時に目尻から熱いものが零れだす。
三日も続いた長い雨はとうに止んだはずなのに、私の眼に滲む水は次々と溢れてしまう。風に吹かれた雨雲は、どうも私の瞳に流れてきてしまったみたいだ。