24*
深い眠りから目覚め、期待と不安を胸に抱いて庭へ出た審神者を迎えたのは、無数の冷たい目。無言の恫喝。数多の威圧。
あの場に居た刀剣男士は総じて冷徹な行状を働いていたわけではなかったけれど、女や狐の黒い瞳には皆同じように映ってしまっていた。神々の中には、比較的冷静に女と対面しているものもいたのに。
三日続いた雷雨が去って彼女が離れを出たその時、三日月宗近や髭切、江雪左文字、数珠丸恒次らは、初めて出会う人間への警戒心を持ちつつも、憎しみをぶちまけるような素振りを見せてはいなかった。先の審神者による過去の惨事のせいで人への好意は消え去っているままだったが、彼らのその眼差しは怨嗟にまみれてはおらず、どちらかと言うと新たな審神者を見定めようとするものだった。
しかし、女はそれに気付かなかった。いいや、気付けなかったのだ。衝撃と嫌悪感、そして怒りとで。
この地で唯一の人の子は、神々の視線全てを自身への嫌悪や敵意と捉え、己はありとあらゆる付喪神に疎まれているのだと思い込んでしまっている。女ほどではなかったが、管狐も似たような心得違いをしていた。
*
女の忠実なる小さな狐は怒っていた。とてもとても怒っていた。苛立ちで顔から湯気が立ち昇りそうなほどに。
今年の春先、女と共にこの地へ再来してからというもの、ここまで彼が怒りを覚えたのは初めてであった。
人の子たる審神者に対する付喪神らの態度は、狐にとって許容範囲外だった。神々の過去を思えば女への冷遇もある程度は仕方がないと考えていたが、それでもあの大勢で、あの態度はないだろう。いくらなんでもやり過ぎだ。女の動向を探り、様子を見るにも、もっと少数で事足りたはずだのに。
神々は決して女に襲い掛かりはしなかった。だが、幾多の悪意ある目に曝されて、狐の主はひどく心に傷を負ってしまった。
雷雨のやって来た日、行動を慎むよう願い求めていたにもかかわらず、あんな──心をいたぶるような真似をして。狐は烈々たる怒りに腸を煮えくり返させていた。
──畑の隅、茂った茄子の陰に隠れてほろほろと涙を流す主人。
狐が女の涙を見たのは初めてだった。己の主が歯を食いしばって嗚咽を堪えて泣く様子は、狐の心を強く揺さぶり、そして狐を激憤させた。
小さな狐の知る女はなかなかに強かで、彼女はこの地へ着任してからというもの、愚痴をこぼしはしても本気の泣き言は滅多に口にしなかった。鯰尾藤四郎や蛍丸、小夜左文字に斬りつけられた時だって、驚き怖がってはいたが、泣いたり塞ぎこんだりすることなく、一日もすればヘラリと呑気に笑っていた。
刀剣男士にどんなに辛辣に当たられても、無視をされても、ずっと前を向いていた女。
その女が、滂沱の涙を流した。よほど辛かったのだろう。原因は言わずもがな、付喪神らの邪険な扱いだ。
狐は傷心の女を想って憂い、神々の冷酷で浅はかな行いに怒り、そして己を責めた。刀剣男士へ自身の考えを詳しく伝え、もっとしっかり忠告しておけばよかったと。そうすれば彼らは自重し、主人がここまで傷付くことはなかったのではないかと。
逆上していた狐はらしくもなく平常心を欠いており、泣き疲れた女が寝入ったのを確認してすぐさま離れを出た。そうして、ずんずんと本丸御殿へ上がりこみ、一番近くに居た鶴丸国永へキッと鋭い視線を向ける。感情的になっている狐は、女を苦しめたものどもへ何か一言言ってやらないと気が済まなかった。
「あれは、一体どのようなおつもりですか」
開口一番、狐は刀剣男士を詰問した。憤懣やる方ない彼の語気は強く、沸騰している胸の内をそのままぶつけているようだ。
「あの御方の心を掻き乱すような行いは控えるよう、お願いしていたはずです。それなのに何故、無情なことを。……愚かしい」
非難がましい言葉を苦々しく投げつけられ、白き太刀は小さく失笑した。
「なんだ、随分と怒っているな」
「当然でしょう!」
淡然としている鶴丸国永とは対照的に、こんのすけは毛を逆立てて荒ぶっている。激情のためか、小さな狐に普段の余裕はない。
「なになに、何事?」
狐の声を聞き付け、わらわらと付喪神が集まってきた。次郎太刀、太郎太刀、にっかり青江、岩融──……縁側はあっという間に賑やかになり、それぞれは警戒する一方、狐の言動に興味を見せる。縁側に面した部屋の障子襖も開け放たれ、そちらにも複数の刀剣男士が居た。
「御方々の先程の行いについて、一言物申しに参りました。はっきりと言いましょう。あなた方は、大うつけにございます」
寄り集まった神々をぐるりと見渡し、こんのすけはすっぱりと言い放つ。歯に衣着せぬ直球だった。
その台詞の裏にあるのは、己の主を傷つけた事に対する怒りの気持ち。しかし、それだけではなかった。狐の出した「大うつけ」という文字には、刀剣男士の先々を考えていないような態度への叱責も含んでいる。
新たな審神者を遠ざけるような行動をとった先に、何があるのか。自分たちが嫌われてしまうかもしれないということを、見放されるかもしれないということを──狐の主人がこの本丸を見限り、時の政府が神々にとって厳しい判断を下してしまう可能性を、彼らは理解しているのだろうか。
「あの御方へ恨みつらみをぶつけ、それがどのような事態に繋がるのか……考えたことはお有りですか」
堅く険しい声振りの問いかけにいち早く反応したのは、にっかり青江。
「『どのような事態』、ねえ……怖そうな響きだけど、なんだっていうんだい?」
縁柱に背を預け小首を傾げるその仕草は、半分飄々としていて、半分は狐の文言を推し量るようなものだった。
「ハッ、知れたこと。我らに臆した今の審神者が去って、また次の人間が送り込まれてくるのだろうさ」
岩融は尖った歯をチラつかせながら言い、おもむろに腕を組む。
この本丸に永い間君臨していた男は、いつぞや、時の政府の配下の者に連れて行かれた。そうして次の審神者や政府の公僕が何度も何度も差し遣わされたが、それらは皆、当時動けていた付喪神たちによって門前払いをされていた。
三月にやって来たという新たな審神者(ひと)だって、嫌忌し続ければ、歴史修正主義者との戦いに手を貸さずにいれば、いつか必ず出て行くだろう。……追い出したところで、どうせ次が派出されてくるだけだが。
周囲の付喪神の多くは、仔細は違えど薙刀と似たような見通しをしていた。
──けれど、時の政府の式神はそれを肯定しなかった。
「次の人間が送り込まれて来なければ?」
「……なんだって?」
含みのある狐の物言いに眉根を寄せる次郎太刀。他のものも、狐の言辞を訝しんだ。
「過去の惨劇による情けを差し引いても、あなた方は政府の手を焼き過ぎております。率直に言いますが、時の政府は御方々を持て余しているのですよ」
女が深い眠りについた三日前、管狐が時の政府へ事の次第を報告した際、彼はただならぬ言葉を耳にしていた。断片的にしか聞き取れなかったが、狐の主の担当官やその周りの人間の会話の中には、「消すしかない」「新しい本丸へ」等、狐にとって肝が冷えるようなものが幾つかあったのだ。
狐は非常に危惧している。付喪神ごとこの空間が消されてしまう事を。
「……次は、ないやもしれません」
雨の上がった冷たい大気に、狐の静かな声が重々しく響く。
人は時に、神よりも恐ろしい。彼はそれを、よく知っていた。