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「じゃあ、そろそろ行くね。こんちゃんのご飯、いつものお膳に置いてあるよ。昼は右のお椀、夜は左のお椀ね」
土間でよそ行き用のパンプスを履きながら、小さな狐のために作りおきした料理のある方を指差す。先ほどせっせとこしらえたメニューは、昼は山菜と鶏肉のおじや、夕は焼き魚ときつねうどんだ。どちらもこんのすけの好物だったりする。特に大きな油揚げの乗ったきつねうどんは、小さな狐のお気に入り。きつねうどんというか、こんちゃんは油揚げに目がないんだけどね。
「お心遣い、痛み入ります」
小さな狐がしずしずと頭を垂れる様を見て、なんだか急に胸がもやもやしてきた。この子を置いて私だけ外に行くなんて、行くなんて……! すごく心配で、申し訳なくて、悲しくて……。
もし私に子どもができたらこんな感じになっちゃうのだろうか。我が子を家に残して仕事に出る母親の気持ち……あっなんか分かる気がするどうしようまだ未婚なのに。彼氏すらいないのにっ。
「ううん、ごめんね急にお出かけすることにしちゃって……。こんちゃんの好きな油揚げ、いっぱい入れてるから」
今、この状況でこんのすけに一人(一匹か)で留守をさせてしまうことへの罪悪感はあるが、さすがにこの時間になってドタキャンはできないし、やはり友人には会いたかった。なんとまあ、私も身勝手なものだ。
「それは楽しみでございますなあ」
「おいしいかどうかは分かんないよ。ああ、あと、お皿にお煎餅出してるから、おやつに食べて」
「おや、間食のご用意まで? 重ね重ね、ありがとうございます」
嬉しそうに笑う小さな狐の頭を撫で、離れの戸を開ける。おひさまの昇った空は明るく、今日は本当に天気に恵まれたいい日だ。……とはいっても、ここと向こうの天候が同じとは限らない。まあ、ネットで見た天気予報では晴れになっていたので、きっと私の世界のあそこもお天気さんなのだろう。
眩しい日光に目を細めつつ、大股で敷居を跨ぐ。最近パンプスなんて履いてなかったから、なんだか足元が変な感じだ。こっちではずっと動きやすい靴ばっかりだったもんなー。……妙齢の女が長靴か運動靴しか履いてないって、ちょっとまずい気がする。いやでもこんな場所でミュールとかパンプスとかブーツとか履いてもさあ、仕事(畑)しづらいっていうか機能性がないっていうかなんというか……。
束の間、一人で悶々としてしまったが、隣に来たこんのすけの足音で我に返る。いつまでもぼやっとしていてはいけない。待ち合わせに遅れてしまう。
「晴れてよかったー」
「ええ、まことに」
二人して空を見上げた後、足並みそろえてゲートまで歩く。ここと私の時代とを繋ぐ摩訶不思議な時空ゲートは──いや、正しくは時空ゲートの出現する場所は、本丸御殿の玄関から真正面、数十メートル離れた所にある。離れからそこまでけっこう距離があるのだが、心配ご無用、道程にはきちんと結界を張ってます。
ゲートの開く場所(斉藤さんは「なんたら座標」って言ってた)には特に何があるわけでもなく、一見分かりにくかった。なので、秋の初めに行った庭の模様替えの際、ゲート付近に赤い山茶花の苗を目印代わりに三株植えた。
椿と山茶花、どちらにするか迷ったのだけど、椿は裏庭の竹垣に沿って列で植え込んでいたから、それなら山茶花にしようか、とこんのすけと相談して決めたのだ。冬にはきっと、カタログに乗っていたような美しい花を咲かせてくれるはず。
「こんちゃん、私がいないときはあんまり一人でうろうろしちゃだめだよ。前とはもう、違うんだから」
先日の手入れによって、この地に住まうすべての刀剣男士は全快した。あの三人だけでなく、五十もの付喪神が今や自由に動けるのだ。
こんのすけにとってどうかは定かではないが、少なくとも私にとってそれは、脅威だった。
ここの神様たちとこんのすけは顔見知りで、先の審神者の代、苦節を共にしている。刀剣男士は人を恨み、嫌ってはいるけれど、同じ境遇の式神(こんのすけ)には何もしないかもしれない。けれど、だからといってこの小さな狐が襲撃されないと言い切れるわけでもなくて、私がいない間に何かありゃしないか、やっぱり気がかりだった。
「主様……」
小さな狐の小さな声。心細いのだろうか、不安なのだろうか。──それとも、憂えているのだろうか。
「もし危ないことになりそうだったら、すぐに政府のとこに逃げてね。絶対だよ」
「……はい」
どこか悲しげで、何か物言いたげなこんのすけへどうしたのかと声をかけようとしたその時、遠くから地を踏みしめる音が聞こえた。それはこちらに近づいてきているようで、神経過敏になっていた私はすっかり気を取られてしまった。
振り向くと、今日の日中監視担当の付喪神どもの姿が視界に入る。げ、見たくないものを見てしまったわ。一瞬だけど目も合ってしまったじゃないか。
努めて表情を変えず、ふいっと視線を逸らす。こいつらは多分、監視対象である「人間(わたし)」の姿が見えなくなったからわざわざ追ってきたのだろう。けっ。ストーカーかよ、おまわりさーん!
私の見張りをしている神様たちには、一言だって、目礼だってくれてやらない。神様がなんぼのもんじゃ。私はもう、あんたたちのことなんて知んないからね。そっちはそっちでやってください。お互い、自由にやりましょうや。
心の中でムッとした瞬間、ポケットの中の携帯が震える。
「あ、斉藤さん」
画面の表示を見てすぐに電話に出れば、「こんにちは」と清々しい挨拶が。……いつも思うんだけど、斉藤さんって声だけは爽やかなんだよね。お腹の中は黒いのに。
このタイミングでの政府のお役人からの連絡──もうじき私がここを出る時刻になるので、ゲートを開く前に寄越されるいつもの通知だろう。
「こんにちは。今日は急にすみません……」
「いえ、構いませんよ。昨日こんのすけと少し話をしたのですが、息抜きも必要ですからね」
「斉藤さん……ありがとうございます」
「気にしないでください。今回はお友達とランチ、でしたか?」
「あ、はい。久しぶりに会う子なんです」
「それはそれは。息抜きし過ぎて萎まないよう注意が必要ですね」
「え? や、そんな、風船じゃあるまいし」
「ああ。……ふふ、そうでしたね」
「えっちょなんで笑うんですか」
……今のは嫌味? ただの冗談? その笑いはなんなのさ。ぐぬぬ、やっぱり斉藤さんは斉藤さんだ。
「すみません、つい。お気になさらず」
「『つい』ってな」
「おや、もうこんな時間に。さあ、これからゲートを開きますよ。私はこちらでお待ちしていますから」
「ええ、ちょっ──んんん、はい、分かりました。よろしくお願いします」
なんだかもやもやするまま、通話が終わる。刹那、淡く白い光が音もなく目の前に現れた。はるか未来の時の政府が操る、奇妙奇天烈な時空ゲートだ。
「じゃあね、こんちゃん、行ってくるね。七時までには戻るからね。ご飯食べて待っててね。危ないことはしちゃだめだよ。何かあったらすぐ政府ね」
その場にしゃがみ込み、こんのすけの頬を両手で挟む。彼の小さなおでこに自分の額をぐりぐり押し当てながら別れを惜しみ、二言三言言葉を交わしたのち、私は白い光の中へえいやっ、と飛び込んだ。