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「……! …………!」
秋の夜長、二つの月のある景観に、前触れなく男の声が混ざる。
ぼーっとしていて第一声は聞き取れなかったが、その後、先程よりも少し大きめの声で同じ言葉が続けられたので、付喪神がなんと言っているのか割りとすぐに分かった。
「亀吉、亀吉ー! そっち行っちゃだめだってば!」
……ふむ。てっきり「立ち去れ」だの「消えろ」だのと怒鳴りだしたか、私への悪意を剥き出しにして威嚇し始めたのかと思ったけれど、なんだか違うみたい。
池の向こう、幾つかの人影が月明かりの下に揺らめいている。状況の細部までは掴めないが、どうもあいつらは「かめきち」という刀剣男士を呼び止めているようだ。「そっち行っちゃだめ」ということは、その「かめきち」とやらはこっちへ──恐らく私の方に近寄ろうとしているらしいんだけど……。
もしかすると「かめきち」なるものは、私を仕留めるべく夜襲をかけてこようとしているのかもしれない。
月見で緩んでいた気がぴりりと張る。付喪神どもの動きに警戒しつつ、月夜の庭に目を走らせた。しかし、こちらに接近し過ぎているような、あからさまに近づいて来ているような影はない。縁側や軒下に居る付喪神の一部が、慌てたように右往左往しているだけ。
「んー?」
「かめきち」とやらの姿を探して首を捻る私とは反対に、こんのすけは耳と尻尾をピンと立てた。
「ほう。亀吉、ですか」
「こんちゃん分かるの? 私には見えないんだけどな」
「ええ。あちらにございます」
「んんんん……どこー?」
うんと両目を細めてみたところで、不意にある方向の空気に違和感が生じる。──なんと表現すればよいのだろう。気配を感じるというか、見えない何かに生暖かい息を吹きかけられているような……とにかく、体験したことのない妙な感覚だった。
その不思議な現象の元を視線で辿った先は、池の外縁に沿って並ぶ石の辺り。あの付近はちょうど、あちらとこちらの境界線だ。
手入れを終え、付喪神との溝を深めた私は、つい先日結界の範囲を広げていた。可愛がっている錦鯉に危害が及ばないか憂慮した結果である。こんのすけは不要だろうと言ったのだが、私は人を憎む五十もの神様を信用できなかった。これまで、黒髪の子や青色の髪の子は鯉たちに何もしなかったけれど、他の刀剣男士はそうでないかもしれない。
万が一に、あいつらが私への当て付けで錦鯉に手を出したりすれば、……きっと、私は怒ってしまう。付喪神のせいでもう心を傷めたくなかったし、大事な鯉たちを失いたくもない。──そして、これ以上あいつらを嫌いになりたくなかった。善悪にかかわらず、強い感情はたくさんエネルギーを消費するものだ。
身を守るために張り巡らせた結界。前までは離れ周囲と畑、池に少しかかる程度のものだったが、動ける刀剣男士がぐんと増えた今、私の領域は御殿側の池の縁まで距離を伸ばしている。離れ側と御殿側で土地をほぼ二分するに至ってしまい、こんなことをするつもりはなかったのだけれど、一つの大地に二つの国が出来上がったようになってしまった。
……錦鯉を保護するためだとしても、こうしてしまって本当に良かったのだろうか。いいはずだと思いたいのに、なぜだか胸の奥が波立つ。
「ううーん……なんかあそこらへんがさあ、ぞわぞわというかもわもわというか──変な感じがするんだけど」
「かめきち」は見つけられないし、あの場所の違和感は消えないし、頭の中は微妙に複雑だし……なんだってんだ、もお。
「それは、亀吉があなた様の結界に触れているからでしょう」
「え、そうなの? へー、誰かが結界に触ったらこういう風になるんだ。……変なの」
そうか、結界に接触されるって、今までにありそうでなかったんだもんな。黒髪の子たちは直接私へ刃を振るったことはあったけど、区分線紛いに張った結界へ刀を打ち込むようなことはしなかったから。
「ざわつきますか」
「うん。直接触られてないのに、なんか周りの空気がおかしい」
弾く対象が結界に当たると、こんな感じになるのか。じゃあ、もしも刀剣男士が私の結界にドーン! とかズバーン! とかしてきたら感覚で分かるのね。センサーみたいだな、便利。
「亀吉い! だめだって言ってるだろー!」
「よせ、あまり近付くな」
「長曽祢兄ちゃん、でも!」
「ほら、亀吉、戻って来るんだ。浦島が心配しているぞ」
「……蜂須賀兄ちゃん」
「かめきち」騒動で徐々にどよめき始めたあちら側。あらら、まーた付喪神さん増えてるわ。もう数える気もしない。
「浦島虎徹と長曽祢虎徹、そして蜂須賀虎徹ですな。ふむ、虎徹兄弟が揃い踏みのようで」
「ふうん」
御殿の前にぽつりぽつりと散らばっている神様方の中に、他のものより一歩前に出てきている影が三つある。今しがたこんのすけが口にしたのは多分、あの三人の名前だろう。やはり、あまり興味はないので聞き流してしまったが。
私が気になるのは別の──騒ぎの原因であり、結界に触っちゃってるっつー「かめきち」だ。
「主様。亀吉がこちらへ来たがっているようです」
「ん、ああ。……んん?」
こんのすけの視線の終わりと私が違和感を覚えている方向とは一致していて、そこをよーく見てみると、人の姿ではない小さい何かがもぞもぞと動いていた。
「え、あれって刀剣男士?」
それにしては、サイズが……というか人間の形じゃないよね?
満月のおかげで何かがあそこで蠢いていることは分かったが、石の影で全貌は見えない。しかし、あれは絶対に人体じゃない。小人だというなら話は違うけれども。
疑念を露わにする私へ、こんのすけは破顔一笑してみせた。
「刀剣男士? いえいえ。亀吉は『亀』にございますよ」