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夕暮れ時の本丸御殿。真新しい畳の良い香りが漂う手入れ部屋に、包丁を研ぐ音が一定のリズムで鳴っている。しゃっ、しゃっという、砥石と包丁が磨れるそれは不思議と心地よい。
外からは虫の声が聞こえ始め、日が落ちたせいか徐々に明るさが失せていっている。御殿には蝋燭や行灯がなく、室内はどこも仄暗かった。灯りがなくて神様たちは不便じゃないのだろうか。もしや、夜目が効くので問題ないとか?
背後の気配を探ってみるが、辺りは妙に静かだった。包丁研ぎが始まってからというもの、あいつらはやけに大人しくしている。ずっと無言というわけではなく、時折話し声はしたが、どれも短い会話ばかり。
ああ、会話といえば、式神ちゃんだ。
「ねえ、こんちゃん」
気になっていた事を思い出し、親愛なる管狐の名を呼ぶ。
「式神ってしゃべれないの? あの子、ずっと声出してないよね? もしかしてだけど、喉が悪いとか病気とか……」
式神に聞こえないよう、なんとなく声を潜めこっそり尋ねる。式札からあの小人を喚び出して以来、私は彼の声を一回たりとも耳にしていない。あの子の方にも話そうとする様子は見られず、声をかけても静かに微笑むだけ、何かを問うても穏やかに頷くだけ。
「いいえ、病を患っているわけではありません。この式神は口をきかぬよう作られております故、言葉を発することはないのです」
「え、そうだったんだ……」
なんだ、もともと話せないのか。……なんで?
「そっか。怪我とか病気じゃなくてよかった。でも、残念だなあ」
ジェスチャーで意思疎通を図ることができはしても、言葉を交わすことができないなんて。愛想の良いあの子と色々おしゃべりをしてみたかった。
「なんで話せないように作られたんだろ」
純粋な疑問をぽろりと溢すが、こんのすけも答えを持ち合わせていないようで、「なぜでしょうね」と小首を傾げる。
声を出せない理由をあれこれと考えながら式神を見つめていれば、彼がふっとこちらを向いた。私の視線に気付いたのだろう。小さなその子は作業を止めてにっこりと微笑んでくれ、私もつられて笑顔になる。
……ああ、いいなあこういうの。会話ができないのはやっぱり残念ではあるけど、言葉を交わさずとも目と目や仕草だけで分かり合えることは多いはずだ。
「こんちゃん、式神ってかわいいねえ」
半ばうっとりとしてそう言うと、小さな狐は可笑しそうに笑った。
「お気に召されたようですね」
「うん、召した! いい子そうだし、好きだわー」
力強く頷き、こんのすけの頭を撫でる。これからもっと、あの子と仲良くなれるといいな。
「んんっ、こほん」
ん?
再び包丁を研ぎ始めた式神を温かな気持ちで眺めていると、隣から咳払いが。
「何、どうしたのこんちゃん」
見下ろしたこんのすけはいやに表情のない顔で私を見上げていた。いつもの黒いどんぐり眼が半目になっており、どことなくムッとしているようにも見える。
なんだ? ちょっと不機嫌なのか?
怪訝に思う私へ、こんのすけはにやりと笑いながら口を開いた。
「式神へそのように好意を寄せられますとは、少々焼けます」
含みのある声音は芝居がかっていて、本心でそう言ったわけではない事を瞬時に感じ取る。
これは、からかっているな? ふふん、こんのすけよ、甘い。
「一番はこんちゃんなんだけど」
いたずらっぽく「焼ける」と口にした管狐へそう告げると、彼は耳をぴくぴくさせた。きっと私をからかうつもりで言ったのだろうけど、今回は私の方が一枚上手だったみたい。こんな切り返しをされるとは考えていなかったのか、こんのすけは僅かに視線を泳がせる。
自分があんな事を言ったくせに照れちゃって、もう、可愛いんだから。
「それは、──きょ、恐悦至極にございます」
なんだこのまごまごした物言いは。刀剣男士相手には高慢と言っていい程堂々していたのに、まるで別人──いや、別狐だ。
「こんちゃんってたまに面白いよね」
思わず吹き出してしまうと、小さな狐は黒い瞳を丸くさせた。
「なんと」
この子の頓狂な声は珍しい。ついつい忍び笑いを漏らす私へ、こんのすけは決まり悪げに苦笑いを見せた。