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「どうも」と真顔で礼を言われ、燭台切光忠は小さく驚き、戸惑う。監視を兼ねてはいたものの、確かに彼は女を手入れ部屋まで案内した。だが、それで礼を言われるとは思っていなかった。
「いや、あ──……」
人が己に向ける真っ直ぐな視線が落ち着かず、つい目を背けてしまう。蝋燭の火を照り返したような色合いの瞳が不安げに揺れた。
長船派の祖、光忠が一振り。鎌倉時代に備前の刀工で生み出された彼は、戦乱の世や太平の世を経てたくさんの人を視てきた。「十人十色」という言葉があるように、人間には色々ある。容姿に始まり、性質、考え方、好み──どれをとっても千差万別。全てが善き人間ではなく、また、全てが悪しき人間でもない。それを解っている燭台切光忠だったが、どうしても先の審神者と眼前の女が重なる。
太刀の脈が速くなった。くらりとめまいがして、背筋が寒くなる。あの男を思い出すだけで気分が悪い。
彼の知る「審神者」は、これまでたった一人しかいなかった。
──本丸を崩壊に至らしめた、心なき男。
己等を顕現し、人の肉体を与えた先の審神者は、刀剣男士を愛しもせず、大切にもせず、ただいたずらに傷付けた。辛酸を嘗める日々が続き、「審神者」というのは付喪神(じぶんたち)をぞんざいに扱うものなのだと……燭台切光忠や他の神はそう認識してしまっていた。
そんな歪んだ偏見が作られていたがため、「審神者」への嫌悪感が自動的に湧き上がる。「人間」そのものにすら嫌気が差した。
また言霊の呪縛を受けるのではないか。昔と同じように酷使されるのではないか。人道に悖る行為を強いられるのではないか。
手入れで意識を取り戻した刀らは、皆一様に警戒した。けれど、離れの人の子は何もしてこない。刀剣男士が遠目から見る彼女は、神々など眼中にないかのように、いつも楽しそうに土いじりをしていた。口数が多く、朗らかで、陽気。明るく笑って管狐を抱き、優しく語りかける姿は、先の審神者とは大違いだ。警戒するのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに。
唇を噛んで浮遊感に耐えながら、「今ここに居るのはあの男ではない」と己へ言い聞かせる。
性別も違う、背格好も違う、霊力の質も、多さも違う。彼女はあの男ではない。あの男はもういない。あれはこの人間のように笑わないだろう? 喋らないだろう? 「どうも」などと言うはずもないさ。違う、違う、違う──あれは居ない、居ない……。
眼帯に覆われていない左目を瞬かせ、燭台切光忠は畑や庭を歩く女の映像を想い起こす。寒い寒いと腕をこすりながら駆ける彼女、管狐と並んでのんびり歩く彼女、機嫌の良くステップ踏むように跳ねる彼女、派手に転び、痛い痛いと喚いていた彼女──鮮やかに蘇るのは、情感豊かな人の子だった。
必死になって先の審神者の幻影を頭から追いやり、やっと吐き気が治まってきたというところで、ぽっと疑念が生じる。
口数が多く、朗らかで、陽気。偉ぶりもせずこんのすけを慈しみ、大事にする女は、恩着せがましくもなく、暴力を振るったりもしない。
そんな人の好さそうな人間が、新しい審神者として配属された? あの男が解任された? ……いささか都合が良すぎる。本当に事実なのだろうか。これは──現実なのだろうか。
疑いだすと止まらない。周囲の音が急速に遠ざかる。寸時、頭が真っ白になって、太刀の胸がいやに騒いだ。点と点が独りでに繋がってゆく。まっさらなそこに浮き上がったとある憶測は、燭台切光忠の心を無慈悲に抉った。
全てが「夢」だったなら。手入れ部屋で昏睡している自分の脳が勝手に創った「幻」だったなら。
今、己の目に映るこの審神者は? ……本丸の美しい景色や仲間は? 二本の足で立て、臓物の飛び出ていない自分の体は? あの男は?
恐怖が全身を駆け巡り、失せていたはずの嘔気が突き上げてくる。考えれば考えるほど、疑えば疑うほど、胃の腑がむかむかとした。
熱い喉元。逆流しそうな胃液。片手で喉を押さえて棒立ちしている燭台切光忠を怪訝に思い、大倶利伽羅が肩を叩く。「何でもないよ」と、何事もなかったかのように微笑む彼は、この日以降、新たな審神者の側に近寄れなくなった。