小話 - なんとはなしに

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 西の空に三日月の浮かぶ夜。女と夜空を仰いでいた三日月宗近は、体を休めるべく奥の座敷へ戻っていった。かの刀剣の頬は柔らかく緩んでおり、先に座敷に居た数珠丸恒次は、「おや、何か良い事でもあったのですか」と、問わずにはいられなかった。
「これは、数珠丸殿。……何故、そう思われる?」
 尋ねられた三日月宗近は僅かに驚き、けれど、微笑みを絶やすことなく問い返す。
「唇が綻んでいたので」
 指摘を受け、三日月宗近は静かに口元へ手を当てた。黒い手袋越しに触れた唇の端には、明らかな窪みがあって。
(──なるほど、確かに)
 三日月宗近はもともと柔和な表情でいることが多い付喪神だったが、刻下、彼の口角は普段よりずっと上がっていた。美しき三条の太刀はそれに気付くなり、小さく笑う。
(「良い事」。……まあ、そうなのだろうな)
 離れに住まう人間。新たな審神者としてやって来たという一人の女。彼女は三日月を綺麗だと、そして、好きだと。そう口にした。
 己へ向けられた言葉でなかったにしろ、自らの号の由来となったものを好ましいと言われ、悪い気はしない。いいや、彼は嬉しいと感じていた。故に、いつにも増してにっこりと相好を崩しているのである。
「……やはり、良い事があったのですね」
 三日月宗近から漏れた笑みを耳にして、彼に「良い事」は訪れていたのだと確信する数珠丸恒次。破邪顕正の刀は、穏やかに、微笑ましげに、向かいに腰掛けた一柱の神を眺めた。
「ううむ」
 姿勢良く正座をし、三日月宗近は短く呟く。
 付喪神として現世に降ろされ、先の審神者に縛られた刀剣男士。
 数多の呪いを受けた。やりたくない事ややってはいけない事を強いられた。傷だらけになっても手入れをされなかった。助けなど来なかった。苦痛に身悶え、精神は参り──いっそ無に還ることができればどれほどよいものか、と、祈りにも似た思いを抱き続けた過去。
 女に手入れをされ、神々の怪我は全て治った。されど、心は癒えていなかった。三日月宗近も例外ではない。自由となった体を持て余し、どこか虚ろに明け暮らす。
 在りし日、政府の管狐に本丸の存続を、ひいては刀剣男士の消滅を危惧された際、三日月宗近は「それもいいかもしれんなあ」と、受け入れるともとれぬ発言をしていた。彼にとっては、どちらでもよかったのだ。「自分」という存在が続こうと続かまいと。
 あの時、三日月宗近が間延びした声で述べたのは、紛れもなく本心だった。
 ──しかし。
 一旦口を閉ざした彼は、庭で交わした女とのやり取りを想い起こしたのちに、ゆっくりと喉を震わせる。
「……『みかちゃん』になるのも良いかもしれん、と思ってな」
 春のそよ風のように優しく、まろみのある声音で紡がれたそれは、未来への憧憬。
 今の三日月宗近はもう、消えてしまってもよいなどとは考えていない。たとえ必要とされていなくとも、まだ付喪としてこの地で過ごし、あの人間を見守るのも悪くないと、そんな気になっていた。
「あなたをそう思わせられるのなら、やはり彼女は外道ではないのでしょうね」
「いや、分からんぞ。無害そうな顔して、実は極悪人ということも……」
 冗談めかして言うと、数珠丸恒次が低い笑い声をあげる。ひとしきり笑いあい、三日月宗近は装具の上からそっと胸に手を当てた。そこには喉輪の冷たい感触しかないはずなのに、なぜだかひどく、ぽかぽかしていて。
 降ろした瞼の裏に、空を見上げる女の横顔が浮かぶ。
 決して長い会話ではなかった。女が気の利いた台詞を贈ったわけでもなかった。それでも、三日月宗近の空っぽな心には、温かな何かが注がれていたのであった。

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