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「ねえ」
蛍丸が呼びかけると、女はピクリと背筋を伸ばす。
(あ、驚かせちゃったかな)
大声を出したわけでも、気配を消して近付いたわけでもなかったが、振り向いた人間は瞠目していた。彼女は力の供与に夢中になるあまり、今の今まで大太刀の訪れに気付かなかったのだ。
仄暗い庭は閑静で、御殿の喧騒は遠い。女は夜闇に目を凝らし、蛍丸をじっと見つめる。いきなり背後に現れた刀剣男士が誰なのか、己が記憶と照らし合わせながら。
──答えは簡単に出た。
大太刀の付喪神。明るい灰色の髪と、春に萌え立つ新芽に似た黄緑色の瞳を持つ刀剣男士。
「何?」
彼と言葉を交わすのは久しぶりだ。女は懐かしさを覚え、要件を訊ねる。彼女が返事をするまでにかかった時間は決して長くない。だが、大太刀にとっては一時間にも二時間にも感じられた。
そう、蛍丸はひどく緊張していたのである。
「べ、別に。なんでもない」
焦って慌ててつっけんどん。
勇気を奮い起こして声をかけたはいいものの、いざ女との会話がスタートすると、ぎこちなくなってしまう。
(……どうしよ、ちゃんと話がしたいのに)
自由に動く体がある。自由に喋れる口もある。だというのに、なぜうまくいかないのだろう。
不安に胸が押し潰されそうになった。ただの刀だった頃には無かった感覚だ。
そわそわしている大太刀は、革靴の先で足元の小石を突いたり踏んだりし始める。そんな彼の様子をしばらく窺っていた人の子だったが、やがて桜へ向き直り、霊力を送る作業に戻った。
──ちくり。
蛍丸の心が痛む。ぶっきらぼうに答えた自分が悪い。それでも、放っておかれると辛いものがあった。
昔の彼女だったら、あの日の彼女だったら、同じ状況でもこうはならなかったのではないだろうか。黙ったままの自分を気にかけてくれたかもしれない。「なーに、どしたの? 言いたいことがあるなら遠慮せず言いなよね」、なんて。
過去と現在を比較して落ち込みそうになるも、大太刀は自身を鼓舞して再度口を開く。
「何、してるの?」
聞けば、女は縁側で騒ぐ管狐らをぼうっと眺めたのち、流暢に語りだした。
桜に力を流していたこと、今年は花が咲かなかったこと、来年は咲くといいと思っていること──。
その声振りは朗らかで、昔はよくこんな口調で話しかけられた事があったな、と、蛍丸は嬉しくなった。人を毛嫌いし、強く警戒していた当時は苛立たしくてしょうがなかったが、今は全く嫌ではない。むしろ、もっともっと色々な話をしたくて、彼は今の自分が女を微塵も憎んでいないことを自覚する。
「まあ、こんなコトしても咲くかどうか分かんないんだけどねー」
女は口元を緩めて首を傾げた。ユーモアを含む動作と声音に、蛍丸はますます喜びを深める。
昔のように接され、大太刀が安堵の笑みを漏らしそうになった瞬間。
「来年、お花見したいんだ。こんちゃんと二人で」
(えっ)
蛍丸の体が凍りつく。金槌で頭を殴られたような衝撃が彼を襲った。女はというと、うっそりとした微笑みを湛え、春への憧れを胸に桜をもう一度仰いでいる。対照的な一人と一口であった。
「こんちゃんと二人で」
それはつまり、この地に住まう神々は除かれているということだ。女はこんのすけと二人で花見をしたいとはっきり言った。だが、彼女は当てつけるつもりで口にしたわけではない。ただ意識がなかっただけなのである。
「人たる己は刀剣男士にとって拒絶の対象」だと認識していた彼女からすると、考えもつかない事だった。付喪神らと花見をするなど。なので、彼女としては自然な発言のつもりだった。何気なく放ったその言葉が切れ味の良いナイフになるとは、予想だにもしていなかったのだ。
「おーい、蛍ー」
縁側の端で明石国行がやる気なさげな声を少しだけ張っている。
「蛍、そないなとこで何してんの。はよう戻り」
首を回して兄弟を見やる大太刀へ、女は「ほら、早く戻ったほうがいいよ」と淡白に告げた。ついさっきまで柔らかだったその顔に、今や表情はない。
底知れぬ疎外感に貫かれていた蛍丸はいよいよ心苦しくなる。彼は女に追い返されたと思ってしまった。
悲しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうで──心臓がぎゅっと縮まるのに合わせ、口が短く息を吸う。
「蛍ー」
明石国行の呼び声と共に、大太刀は走り出した。辛くて辛くてたまらなく、その場に居続けられなかったのだ。けれど、背後の人間が気になってしまい、何度も何度も振り返る。片腕で葛籠を抱えている女は、蛍丸の異変を感じ取りながらも、ずっとそこに棒立ちしているだけだった。
──刃物で切り刻まれたが如く傷付いた彼の心。
以前にも増して気落ちしている同派の刀を気遣い、明石国行や愛染国俊が度々声をかけたが、大太刀は「大丈夫」としか返さない。
何が原因なのか。
塞ぎ込んでしまう直前、蛍丸は新たな審神者と会っていた。それを知っている明石国行は、まず一番に離れの人間を怪しむのであった。