小話 - なんとはなしに

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 湿気た雨の匂いが充満していた。

 *

「いち兄なんかもう知らない!」
 あいにくの天気で薄暗い御殿屋内。襖が閉められる間際、乱れうねった刃紋の刀が怒号を放った。
 彼の兄、一期一振は硬い表情でそれを受け止め、引手を最後まで滑らせる。たん、と鳴った音は軽く、冷たく、粛々としていた。
 太刀の小さき弟らは全て拘禁された。粟田口の短刀を座敷へ仕舞い込んだ一期一振は、逆上もしなければ言い訳も叱責もせず、ひたすらに無言を貫いており。その眉間にはうっすら皺が寄っている。
「……いち兄、少しやり過ぎなんじゃないか」
 骨喰藤四郎が諌めるように尋ねるも、一期一振はうんともすんとも言わない。粟田口派の長兄は、ひどく厳しい顔付きをしていた。
 声には出さず唇だけを動かして、脇差は再度兄の名を呼ぶ。無論、届かぬ呼び声への返事はない。
(これで本当に良かったのか?)
 靄がかった心。湧き出た疑問。
 ──骨喰藤四郎は悩んでいた。
 敬愛する兄に協力し、離れの人間と接触した四振りを無理矢理連れ戻したものの、その行為は真に弟たちを守るためのものと言えるのかと。これほどまでに弟たちを縛り付けてよいものかと。新たな審神者への警戒は過剰なのではないかと。
「ほら、落ち着け乱」
「落ち着けるわけないよ!」
 閉め切られた座敷の中では、怒りの収まらぬ乱藤四郎を兄弟たちが宥めていた。薬研藤四郎はあやすようにとんとんと背を叩き、信濃藤四郎は優しく髪を撫で、博多藤四郎はうんうんと話を聞いてやり──。
 襖一枚隔てたあちらは賑やかだというのに、こちら側には陰鬱な静寂が流れている。湿気た雨の匂いで重苦しさは余計に増していた。
「……」
 表情のない顔でぼうっと宙に目をくれているのは、骨喰藤四郎の後ろに佇むもう一振りの脇差、鯰尾藤四郎。もとは明るい気性を持つ彼だったが、貴石がくすんでしまうが如く、その朗らかさはずっと曇っていた。
 鯰尾藤四郎も苦悩しているのだ。小夜左文字、蛍丸と同様に。
 神無月、離れの女の手によって、刀剣男士は治癒された。以降、鯰尾藤四郎が兄弟や仲間に見せる笑顔には、感情がこもっていなかった。明るく振る舞うことはできても、雨の降り続けている心の中は湿っていて。
「鯰尾」
 不意に、一期一振が口を開く。俯きがちだった脇差は弾かれたように顔を上げ、静かに兄を見つめた。突然のことで、また長兄の語気があまりにも暗く脆かったため驚き、声による反応ができなかったのである。
「彼女は『何』なんだ」
 毅然としていた一期一振が惑いを露わにした。険しかった面持ちは見る影もなく失せ、美しい顔(かんばせ)には苦渋が満ちている。
「あの男と同じはずだろう?」
 神々をぞんざいに扱い、意味もなく卑劣な命を下していたあの男は人間だった。
 神々の傷を癒やし、不信感を顕著に表す彼らを気遣った離れの女も人間だった。
 そして、かつての主人であった朝倉や毛利、豊臣秀吉もまた、紛れもない人間で。
「……分からなくなりそうだ」
 歪んだ顔。泣きそうな、けれど笑っているような──弱々しい顔。弟たちへは絶対に見せなかった顔。
 一期一振は常に兄として弟らの前に立っていた。強く、頼れる太刀として仲間の中心にいた。心無い処遇が辛かった時も、腸(はらわた)に凶刃が突き立てられた時も、激しい痛みに耐えている時も、いつも気丈に、かつ穏やかであろうとしていた。
 そんな彼が初めて見せた「揺らぎ」に、鯰尾藤四郎も骨喰藤四郎も驚いていた。
「いち兄……」
 鯰尾藤四郎の声が兄の名を形どる。
 先の審神者と新たな審神者は似ても似つかない生き物だ。と、そう言いたい思いはあった。胸の内を洗いざらい吐露してしまいたかった。
 だが、今にも消えてしまいそうな兄の姿を見ると、追い打ちをかけてしまうような事はしたくなくて。苦しんで欲しくなくて。
 結局、後には鬱々とした沈黙と、湿気た雨の匂いだけが残った。

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