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離れの人間は先の審神者と違う。
決然と言った脇差は自虐めいて笑った。それは一期一振が久方ぶりに見る、弟の真なる「顔」だった。
「本当は解ってたんじゃないの」その言の葉に心を激しく揺さぶられ、頑なに貫いていたものへひびが入る。熱した岩が冷水を浴び、白い煙を上げて割れるが如く。精神の大きな乱れを抑えるよう、粟田口の長兄は噛むようにして唇を閉ざした。金の双眸が鯰尾藤四郎から逃げ、膝に乗った己の手を映している。
「大丈夫。あの人はボクたちに何もしない。怖い人じゃないよ」
爪が食い込むほど握り締められている拳を包むのは、ほっそりとした子供の手。兄に寄り添う乱藤四郎の声は慈愛に満ちていた。
「いち兄がオレたちを心配してくれてるのは嬉しいし、感謝もしてる。これまでたくさん守ってもらった。……ありがとな」
一呼吸置き、鎧通しの付喪は続ける。
「前の審神者があんなだったから、あの人間のことを警戒するのも仕方ねえよ。オレもそうだった。けど、もう分かっただろ。あいつは違う」
一期一振の心情を配慮しつつ、厚藤四郎も「区別」を説いた。離れの人間が前任者と全く別の生き物であると、その事実を受け入れて欲しかった。そうして、過去に囚われたまま苦しむ兄を解放してやりたかった。共に今を、未来を歩みたかった。
「あの人間は鍛錬の域を超えた手合わせをさせたり、無茶な出陣をさせたりするような奴じゃない」
小雨の降る真昼、厠の格子窓を隔てて交わした会話。昔歳の災いに驚き、まるで自分のことのように憤った女は、淀みのない真っ直ぐな目で「しない」と誓った。彼女の言が虚偽でないと感じ取った厚藤四郎は、その瞬間、失っていた人への希望を取り戻したのである。
「……」
兄は異議を唱えなかった。しかし、肯定もしなかった。一期一振にはまだ、考える時間が必要だった。
「ねえいち兄。外に出てもいい? ボク、あの人にお礼を言いに行きたい」
下から覗き込むようにして乱藤四郎がねだる。その様子を、兄弟刀や他の神々は静かに見守っていた。庭を出歩き、審神者と会って話す事──長兄は長く閉口していたが、程なくして許可を出す。「わかった」という、短く気鬱な許しだった。
枯れ葉の敷かれた秋の庭に、短刀たちが飛んでゆく。鳳仙花の実が弾けるように、皆溌剌としていた。不安を拭い切れない一期一振は慌てて弟らの後を追い、少し離れた場所から傍観する。「離れの人間が何かしようものなら、例え弟や同胞に批難されようとも切って捨てる」と、覚悟して。
けれど、その腹積もりは無用だった。結界を挟んで女と話す弟たちの、なんと楽しそうなこと。女もまた始終笑顔だった。彼女は一期一振の方を何度も見て、「近づいてもよいのか」と目で確かめてきていた。まさか自分が気を配られるとは思わず、長兄は微かに瞠目する。
「問題なさそうだな」
骨喰藤四郎が隣で呟くのを、どこか遠くに聞く一期一振。弟らが人間と談笑している場景は、彼にとっていやに眩しいものだった。
いくらもしないうちに女が離れに戻る。短刀たちも朗らかな様相で御殿へ帰ってきた。未成年を模した形の刀剣男士は、興奮さめやらぬままお喋りに花を咲かせており、玄関で、廊下で、座敷で、「また話せるか」「次はいつ会いに行くか」「お礼に何かできることはないか」と、各々胸を高鳴らせていた。
彼女とどんな会話をしたか。彼女はどんな人柄だったか。
嬉々として話し、はしゃいでいる多くの弟。居た堪れなくなった一期一振は、鶴丸や鶯丸へ女のことを聞かせる兄弟の側を離れ、そっとある部屋へ向かった。
──その一画は審神者の執務室にあたる。かつてこの地にいた男は使用しておらず、現在も主不在となってはいるが。
太刀が外に面した襖障子を開けると、冷えた空気が入り込んだ。頬を撫でたそれは、庭の池から生じた冷気を帯びている。縁側を降りればすぐそこに池があるのだ。そして対岸には「離れ」が建っている。一期一振の瞳は、例の人間が住まう離れを捕らえていた。
(……!)
ちょうど、離れの主人が戸口を出る姿が見え、一期一振は眉根を寄せる。対して、彼女は己を眺める刀剣男士の存在に気付くことなく、片手に持った箒を振って太鼓橋へと歩いていった。
(私は、どうすれば)
仲間の気配がない一室で、太刀は自問する。鯰尾藤四郎が言った通り、あの女が先の審神者のような人間ではないと、本当は解っていた。解っていたから、彼はあの時言ったのだ。「優しくしないでください」と、懇願するかのように。「憎みきれなくなってしまう」と、喉を震わせて。
では何故、解っているのに彼女を拒むのか。答えは一つ。信じることが怖かったのだ。
橋の袂の銀杏が一枚、また一枚と葉を落とす。女の消えた方向を見つめる彼の元へ、とある太刀がやって来た。
「こちらにいらしたのですか」
「……江雪殿」
衣擦れの音を従え入室してきた江雪左文字は、振り向いた一期一振の背後で立ち止まった。
「迷いのある顔をしていますね」
ぼそりと告げられ、粟田口の長兄は目を見開く。次に、困ったように苦笑いをした。
「正直、どうすればいいのか分からんのです。……参りますな」
葛藤の浮かぶ面差し。なれど、先ほどまでの張り詰めた雰囲気はやや和らいでいた。お互い「弟」を持つ身であり、彼にとっての江雪左文字はかねてからの良き相談相手。今は弟たちもおらず、左文字派の長男を目にした一期一振は、肩の力をふっと抜く。
「それは、貴方に心が在るからこそ」
低い声は泰然としていた。「心」という単語に、一期一振は自ずと胸に手をあてがう。秋の末を迎えた庭はうら淋しいもので、静寂がよく馴染む。どこかしめやかな空間だったが、江雪左文字が再び口を開き、音が生まれた。
「少し、話をしても構いませんか。私がこの目で見た事です」
アイスブルーの眼に正視され、一期一振は困惑する。どのような話なのだろうかと。
太刀が小さくうなずけば、江雪左文字は彼の横を通り過ぎ、縁側の手前まで進み出た。
「……本日、私は昼の見張り番でした」
始まった話は、秋田藤四郎を探し当てた女についての内容だった。
彼女がいつものように畑へ行こうとしていたこと、途中太鼓橋の上で足を止め、何かに誘われるように森に向かっていったこと、腰から下が濡れていたこと、必死の形相で何かを運んでいたこと、爪先立ちで慎重に歩いていたこと、靴が片方脱げていたこと──。
「私と見張りをしていた刀が何事かと呼びかけていましたが、耳に入っていないようでした。彼の大きな声も届かぬほど、懸命だったのでしょうね」
語りを聞き終えた一期一振は佇立していた。頭の中で話を反芻し、文字を溶かしながら、少しずつ少しずつ心へと吸収させる。やがて、胸いっぱいに「それ」を染み渡らせた付喪神は、「ああ、そうか」と胸の内で独言した。
(そうだったのか)
江雪左文字が嘘を口にしているようには見えず、また、江雪左文字は嘘をつくような刀でもなく。もちろん、彼の愛する弟たちだって。
(やはり、あの人間は。あの人は。あの方は)
ようやく、一期一振に実感が湧いた。事実を事実として受け止められた。分からないフリをし、解っていたのに認められなかったことを。
人を信じるのはまだ怖い。心を開く気にもなれない。だが、己のとるべき行動が一つ、明確になった。
「江雪殿、話していただいてありがとうございました。やっと、分かった気がします」
礼を述べ、一期一振は背筋を伸ばす。その顔には確固たる決意が滲んでいた。
「──行って参ります」
右肩に掛けられた外套が翻る。江雪左文字は聡い瞳を閉じ、部屋を後にする彼の背へ静々と黙礼した。