07
岩融の裂けた腹を、男は無言で眺めるだけだった。
今剣の抉れた右眼を、男は気にも留めなかった。
誰かの骨が折れても、誰かの喉が潰れても、指が欠けても、刃毀れしても、血に錆びても、人の形をとれなくなっても、彼が手入れをすることはない。どの刀が乞うても無駄だった。皆で床に額を擦り付けて願おうが、まともに戦えないと訴えようが、男は頑なに無視をした。
だというのに、春先にやって来たという新たな審神者は、いとも容易く治した。遊びの延長線上でできた、薙刀の額の瘤を。
鴨居に頭を打ち付け、ぷっくりと腫れたそこ。井戸水で冷やしてくると言って庭へ出た岩融の後を、今剣は遅れて追った。井戸の側には岩融とこんのすけ。向こうの畑には人間もいる。引き返そうかと思ったが、岩融の身を案じ、短刀は息を殺して屋根へと跳んだ。女や管狐が薙刀に何かしようものなら、奇襲をかけて守ろう。そう考えて。
しかし、短刀の懸念は取り越し苦労に過ぎなかった。
彼が屋根瓦に張り付き見下ろしたのは、女が岩融の血腫を綺麗に消してしまう光景だった。
がははと笑う岩融。可笑しそうに口角を上げる女。そんな一人と一振りに気が抜け、今剣はうっかり気配を漏らしてしまう。そして、薙刀に呼び寄せられた。
地上に降り立ち、岩融の大きな体の後ろへ隠れた短刀は、じろじろと女を観察する。「こんにちはー」と、間延びした挨拶をされ、一体なんのつもりだ、と今剣の警戒心は強くなった。
「おお、そうだ。今剣も肘を擦り剥いていただろう。どうだ、俺の様に治してもらうか? 審神者殿に」
へらりと笑っている女を不躾に眺めていれば、薙刀がそう勧めてくる。下から見上げた東雲色の目は、「信用しても良い」と言っていた。
岩融の瞳に背中を押され、渋々女に肘を見せる。彼女は他愛もない掠り傷をしげしげと凝視し、「治そうか」と軽々言った。もちろん、今剣が頼んだわけではない。人の好さそうな顔した女は、資源や札ではなく、自らの霊力を用いて治すというのだ。彼女が岩融の瘤を治す様子を見届けてはいたが、なかなかどうして半信半疑であった。
「肘出してるなら治しちゃうよー?」「いいの? 嫌なら肘隠さないと、本当にやっちゃうよ?」
気安く話しかけてくる、弱い霊力の人間。何か裏があるのではないか。怯みつつも、今剣は警戒を解かず、胡乱げに女を睨んでいた。
「じゃあ、やるね」
沈黙を肯定と捉えた女は、何の躊躇いもなく、嫌そうな素振りも見せず、掌を翳してくる。温かな力がそよぐように流れてきたのは、すぐだった。それは肘をじんわりと包み、痛みと傷を消してゆく。
あの男のものとは違う、柔らかい力。穏やかで心地よい──ああ、そうだ。意識を取り戻したあの時も、この霊力に包まれていた。
今剣はひどく驚き、そして同時に理解した。理解せざるを得なかった。目の前の女が、先の審神者とは全く別の生き物であることを。
心が頭に追いついた瞬間だった。やっと、やっとのことだった。
「はい、終わり。痛くない?」
にこやかに己を見つめる女には、ひとかけらの悪意もない。
傷の失せた肘。春の日差しのような温かい霊力。気遣いの言葉。
自分の肘と女を見比べ、なんて馬鹿らしいんだろう。と、短刀は思った。先の審神者と彼女の違いを受容したが故に、その落差に愕然としたのだった。
どんなに泣いて懇願しても治されなかった致命傷。頼みもしていないのに治された傷ともいえぬ傷。天と地の差である。
あの過去は、永い苦しみは、なんだったのだ。男に蔑ろにされ倒れていった仲間たちはなんだったのだ。味方を斬らされた意味は? 味方に斬られた意味は?
──この女が初めの審神者であったなら、自分たちは。
「ばかみたいです。あなたがさいしょのさにわだったら、ぼくたちは」
虚しさと、怒りと、悲しみとが溢れ出て、心がいっぱいいっぱいになって、彼女へぶつける。ぶつけるだけぶつけて、それでも収まりきらなくて、今剣は走り去った。彼が御殿の角を曲がる頃には、涙がぼろぼろ零れていた。
新任の審神者は知らない。追いかけてきた岩融に抱き竦められた短刀が、御殿の玄関で嗚咽を漏らしていたことを。
たくさんの涙を流し、泣き疲れた今剣。彼を私室へ運んだ岩融は、落ち着くまで背を撫でてやっていた。三条の刀や他の刀派の神も様子を見に来たが、慮って深くは聞かず、薙刀へ任せ身を引いた。
知己たる薙刀は、短刀の心を誰よりも知っていた。全て見当がついていた。あの言葉の訳も、涙の理由も。