小話 - なんとはなしに

08


 昼が夕になり、涙がすっかり枯れ果てた頃、今剣の心に変化が起きた。燃えるような憤怒と胸を引き裂くような悲しみは溶け去って、あとに残ったのは、離れに住まう審神者の顔だった。
 乱れた感情が暴走し、くたびれた脳。岩融の逞しい腕に抱かれながら、今剣はぼんやりと彼女のことを思い出す。不思議にも嫌な気持ちは出てこなかった。腫れて重くなった瞼の裏に、肘に目を凝らす女や、こんのすけを愛でる女が次々と浮かぶ。何故だか無性に会いたくなった。
 今まで避け、恐れ、疎んでいたあの人間。今はもう、そうではない。
「……岩融は、あのひととどんなはなしをするんですか?」
「ん? ああ、そうだな──」
 ゆっくりと瞬いた短刀へ、薙刀は声柔らかに教えてやる。自分と女がどのような会話をしていたか、時に笑いも交えて。また、女について知っていることを惜しみなく語った。中には既に今剣が耳に挟んでいる話もあったが、短刀は神妙に聴き入っていた。
 離れの人間は畑や花の世話をまめにし、週に二度の出陣を熟す。未だに刀剣男士に望むものはないらしく、自分の仕事に手を出されるのを嫌がるので、誰も手伝えない。目に入れても痛くないくらい可愛がっているこんのすけと居る時は、いつも幸せそうだ。動物が好きで亀吉と仲が良く、白い狐やお供の狐、虎にも興味津々。
 ──等々、話題は豊富だった。
「ぼくも、あのひととおはなし、できるでしょうか。みんなみたいに」
 楽しそうに話す岩融へ、今剣がぽつりと呟く。聞いているうちに、岩融や他の刀剣たちのように彼女と会って対話したいと思い始めたのであった。
「うむ。できるさ」
 薙刀は尖った歯を見せて笑い、短刀を勇気付ける。
 しかし。
「でも、ぼく……あのひとにいやなことをいってしまいました」
 泣いて泣いて涙が失せ、冷静になったせいか、今剣に女への申し訳無さが生じた。この本丸の過去において、彼女は部外者なのだ。行き場のない想いをぶつけたとしても、どうにもならない。
「あたまがあつくなって、むねがもやもやして、くちがうごいて……」
「心のままに、というやつだな」
「おこっていたら、どうしよう」
「はっはっは、気に病むな。あれしきで目くじらは立てまい。小狐丸殿にも怒らなかったのだ」
「……そうでしょうか」
「だがまあ、何があったか気にしているかもしれん。一度会って、『もう大丈夫』と伝えてみてはどうだ?」
 紅赤の瞳が心細そうに揺れる。
「肘の手入れの礼もしてなかったな。『もう大丈夫』と、『有難う』と──万が一に怒っているようであれば、『悪かった』の詫びを」
 黙っている今剣を見下ろしながら、岩融は続けた。
「口から出た言葉は決して戻らぬ。無かった事にもできぬ。だが、今剣。我らには明日が、未来があるではないか。お前が後悔しているというのなら、審神者殿との『これから』の為に行動していけば良い」
 未来。新たな審神者との「これから」。今の短刀にはピンとこなかったが、岩融が何を言わんとしているかは分かる。今剣はやがて幼子のように頷いた。
 明くる日から小天狗は別の視点で女を盗み見るようになった。警戒や監視ではない。話しかけるタイミングを窺ったり、純粋に興味があったりと、以前よりも表に出るようになっていた。
 常にこんのすけを連れている彼女の表情は、ころころ変わる。人形のようなあの男とは異なり、よく笑う人間だった。
 時折女に気付かれ、手を振られたり「おはよう」と挨拶されることもあったが、どう返せばよいのか戸惑うばかり。度々御殿へ逃げ帰ってくる今剣へ、岩融は何度か「一緒に行くか」と声を掛けた。だが、短刀には彼女と上手く接する自信がなく、不安げに「でも」とまごつくのみであった。
 いつ目が合っても、女は怒気を向けてこない。微笑むか、驚いた顔をするかだ。彼女の緩んだ口元を見ると、心が擽ったくなった。つられて体もむずむずする。短刀は居ても立っても居られなくなり、いつも御殿へすっ込んだ。
 次こそは、と思うものの、気後れしてしまう。また前のように感情任せになってしまいそうで、近付くのが怖かった。
 側に行きたい。話してみたい。せめて何か、きっかけがあれば。
 ──一日が過ぎ、二日が経ち、三日目の午後。
 縁側の外へ投げ出した足を、今剣はつまらなさげにぶらぶらさせている。庭のどこにも女の姿はない。昼時というやつで、彼女は食事や洗い物で離れにしばらく籠もっていた。
 女に治してもらった肘。そこをさすりながら、短刀は記憶に浸る。
「治そうか」と言う彼女。
 返事をしない今剣へ、迷うように首を傾けた彼女。
 手のひらから柔らかな力を送ってくる彼女。
「はい、終わり。痛くない?」と、こちらを覗き込んでくる彼女。
 傷のない肘は滑らかで、痕すら残っていない。お人好しの匂いがする彼女は、きっとどんなに小さな怪我でも快く治してしまうのだろう。
 と、そこまで考え、今剣は閃いた。柘榴の色した二つの眼が見開く。
 とても良いことを思いついたのである。

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