10
日没。赤から橙に、橙から淡い紫になった空には、もう鳥の一羽も飛んでいない。
夜の息吹が漂う本丸、池向こうの離れでガラガラと戸口が開いた。土間から出てきたのは、この地で唯一の人間だった。
薄闇に紛れた人間の姿を、柘榴色の瞳が瞬ぎもせず見つめている。時機を待ち、物陰に隠伏していた今剣は息を呑んだ。高まる緊張感。跳ねる鼓動。会いたい相手が運良く出てきたのである。
目論見通り上手くいくだろうか。話しかけてもらえるだろうか。傷はきっかけになるだろうか。
不安と期待で心臓を鳴らす今剣をよそに、女は絶妙な色合いの夜空を仰いだ。そして、ほう、と僅かに見惚れたのち、広い庭をぐるりと見渡す。そこは静寂としていて、昼の賑わいが嘘のようだった。庭を闊歩していた神々はおらず、今は縁側に見張りが二振り座っているだけである。
刀剣男士の数や位置を確認を終え、女は離れの外壁に沿って歩き始めた。夕飯を作る過程で足りなくなった薪を取りに、外の薪棚まで向かおうとしていたところであった。
短刀の姿は彼女の目に留まらない。当然である。小さな神は桜木の陰に忍んでいるのだから。それでも見つけてもらえるかもしれないと、今剣は淡い望みを焦がしていた。己の存在をアピールするかのように顔を幹から覗かせてみるが、女は気付きもせずに離れの角に消えてゆく。これにはがっかりだった。
しかし、意気消沈している暇などない。出来たての傷をチャンスに変えねば、徒労に終わってしまう。
思い切って桜の後ろから躍り出る今剣。朱い一本下駄で軽やかに跳躍し、彼は池の淵に聳える結界壁へと距離を詰めていった。
開きっぱなしになっている戸口から淡い橙の明かりが差している。どこまで行ったのか、どこへ去ったのか、女の戻りは遅い。気が急いた短刀は、足元の小枝を下駄の歯で踏み折った。パキ、と、桜の枯れ枝の断末魔が鳴る。音を出してしまい、しまったと思う今剣であったが、これはこれで良かったかもしれない、とも考えた。この音で彼女が様子を見に来たなら万々歳だ。
小枝の叫びは大気を伝って女の耳に届く。薪棚に積まれた薪を取り出していた女は、なんだろう、と方向転換をした。
のろい歩調の足音がし、今剣から見て離れの左角から女が顔を出す。両手に薪を抱えた彼女は、「あ」と口を開いた。境界線で佇む短刀が瞳に映ったのだ。
夕闇に交わる視線。自ら会いにきたというのに、いざ女と対面すると頭が真っ白になって──今剣は後ろへ高く飛び退いた。そうしようと思ったわけではない。誰かに体を操作されたかのようだった。彼の全身は総毛立っていた。
無意識に後退しそうな足に力を入れ、今剣は踏み留まる。女との距離は開いたが、今日は逃げの選択肢などない。短刀は凝然として女を見ていた。
「こんばんは。どうしたの?」「ねえ、おーい。大丈夫? 何かあった? 用事?」
黙っていた女が声を上げる。棘のない呑気な声だった。怒っても不機嫌でもなさそうな彼女にほっとし、けれど臆して話しかけられず。
「主様ー? 如何なさいましたか」
程なく、離れで管狐の声がした。戸口に獣の影がある。女は今剣を気にする素振りを見せつつも、離れへ帰っていってしまった。
機を逃したかとそわそわする短刀。だが離れの戸は開け放たれたままだ。彼が耳を澄ますと、女と管狐の話し声が微かに聞こえた。
長く経たないうちに、会話に別の音が混ざる。バタバタとした忙しない足音が。そうして、女がひょこりと現れる。駆け足気味で敷居を跨いだ女は、「ねー、どうしたの?」「聞こえてるよね?」「おーい」等、ひっきりなしに呼び掛けてきた。その腕に薪はない。
返事をしないと。傷を見せに行かないと。そう思いながらも、体が言うことを聞かない。唇は縫われ、足は大地に根を張り、目線も彼女に固定されている。今剣の気は弓弦のように張り詰めていた。
一向に動かぬ神を訝しんだ女は、ゆっくりと歩きだす。彼女には気構えがあった。今剣と向き合うための心が。
じわじわと距離を縮めてくる人間。彼女は目を背けたくなるくらい無垢な瞳で今剣を正視し、「こんばんは」と微笑んだ。