小話 - なんとはなしに

11


 今剣の胸が締め付けられる。女の真っ直ぐな眼差しがひしひしと注がれ、俯くことしかできなかった。小さな指は袴をきつく握っている。
 たくさん話をしたかった。言いたいこともいっぱいあった。どのように会話を運ぶか、何度も何度も頭の中で練習していた。しかしそんなシミュレーションは役に立たなくて、短刀は歯痒さに顔を顰める。記憶の底にいるあの男が邪魔をした。
「どうしたの? 黙ってちゃ分かんないなあ。何かあるならなんでも言って。ね?」
 女は膝を折って屈み、まるで幼子に接するように柔らかな声で話しかけた。そんな風にされ、今剣の心はますますギュッと苦しくなる。そこはズキズキと痛みながらも、端の方がほろりと解けていっており、不思議な感覚だった。
 なぜこの人間は優しいのだろう。なぜ己の胸はこうも疼くのだろう。
 依然閉口している短刀は深く頭を垂れ、ひりつく痛みに耐えた。女もじっとしている。時だけが静かに過ぎ、今剣の波立っていた心がほんの少し収まった。
 いよいよ夜の色を濃くした空。本来の目的を果たすべく、短刀は袴の裾を捲り上げた。鮮血の滲む膝を見た女が目を見開いて「あ」と漏らす。
「怪我したの?」
 彼女は素早くしゃがんで作務衣から何かを出し、それを今剣の足へ向けた。光を放つ長方形の板が周囲を照らしている。今剣は未知の道具に驚いた。若干怖くはあったが、危ない物ではなさそうだと思い、彼は膝を引っ込めなかった。何より、眼前にいる人の子が自分を傷つけるなど、もう思えなかった。
「痛い?」
「ここ、ぶつけたの?」
「じゃあ、転んだりとか?」
「ちゃんと洗った?」
 眉根に皺を寄せて尋ねてくる女へ、今剣は首を使って答えていく。咄嗟に嘘もついた。聞かれて初めて、悪いことをしたような気になったのだ。
 ぶつけても転んでもいない、己で作った傷。話したいがためにそれを治させるというのは、ずるのようなものではないか。彼女が微塵も疑わぬ分、罪の意識が芽生えた。
「え、洗わないとだめだよ。ばい菌入っちゃうよ」
 女は哀れみの表情で今剣の顔と膝とを眺め、急に黙り込んだ。赤い膝に焦点を合わせたまま、治して良いのかだめなのかと一人考え込み、徐に息を吸う。
「……治そうか?」
 女はやはり、何の躊躇いもなくそう言う。傷を見せただけなのに。頼んでも縋ってもいないのに。
 待ち望んでいた台詞に短刀の心音が跳ねた。思わずやや顔を上げ、彼女の目を見てしまう。夜をものともしない澄んだ瞳があった。
「黙ってるなら前みたいに治しちゃうぞー」
 茶目っ気を含んだ声。悪戯っぽい笑顔。
 今剣の脳がじんと痺れる。彼が返答するよりも先に、女は離れへ声を張った。管狐に傷を治して良いか確認を取っているようで、戸口からはすぐにこんのすけが駆けてきた。
「今剣が怪我を?」
「うん」
「ふむ。傷の深さを診てみましょう。浅ければ主様のお力のみでお治しになられても構いません」
 霜枯れの草地を悠々と歩き、こんのすけが短刀に接近する。狐にしては魚のような目玉がきょろりと回って、今剣は身じろいだ。彼の背筋に走り抜けるものがあった。何やら妙に嫌な予感がした。
「大丈夫だよ。見るだけだからね」
 相も変わらず女は刀を気遣っている。だが、今剣は警戒を強めていた。管狐にだ。
「転んだんだって」
 再び短刀の膝に光を当て、こんのすけへ説明を始める人間。
「……転んで出来た傷、ですか」
 管狐は既に怪しんでおり、今剣もそれを察した。
「うん。痛そうだよね」
 女はというと、猜疑心など皆無のようで。
「──今剣、これは」
 舐め回すようじっくりと傷を観察していた管狐が鋭い目つきで短刀を見据える。今度はこの狐が胸騒ぎを感じていた。
 膝一面の範囲、滴りそうなほどの血、仄かな森の匂い──転倒したにしては奇妙な傷。それがこんのすけの所感であった。どこでどう転んだかにもよるが、割りかし酷い怪我である。しかし、不思議にも土や砂などの付着物がない。袴からもそのような匂いはしない。こんなに派手な傷が出来るくらいに転んだのであれば、袴ごと膝をぶつけていそうであるが。
 もう一つ不可解なのは、今剣の態度だ。彼は明らかに管狐を睨んでいる。傷を見られたくないという空気が微量に漂っていた。何か不都合でもあるのだろうか。
 管狐は短刀の過去も踏まえて黙考し、もしやと瞬く。そうだ、この刀剣は先の審神者に──。であるとすれば、なるほど、そうか。
 こんのすけの疑義たる瞳へ、今剣はぎろりと威嚇を返す。その反応が全てであった。柘榴の色した双眸は、「余計なことを言うな」と語っていた。
 仕方がない。と、納得した管狐。今剣の不穏さに憂慮は残るが、主人の御前で暴くのは止めておこうと考え至った。されど、看過はできない。己で己を傷付けるなど……その上、傷をダシにして接触を図ろうとするなど。主が知ればどう思うか。後で遠回しに忠告せねば。
 大きな溜め息を鼻から出し、こんのすけは穏やかな表情を湛えた。
「主様、傷は軽うございます。手入れに支障はございません。あなた様のお力で容易く癒やせましょう」
「あ、うん」
 一振りと一匹の剣呑な雰囲気を感知した女が落ち着かなさそうに視線を行ったり来たりさせる。引っかかりを覚える彼女だったが、管狐に「さあ、どうぞ」促され、疑問をよそに追いやった。
「ねえねえ、前みたく治してもいい? 覚えてるよね、三日前」
「あれ、まただんまり?」
 手入れの許可を得た女は、あれこれと今剣に話しかけてくる。彼が何も言わないでいると、女性らしいしなやかな手が彼の膝へ翳された。
 温かな力が流れてきて、覆い被さるように浸透してゆく。短刀が心地良さを感じる頃には、傷は治癒していた。
「……はい、終わりー」
 女が立ち上がる。事をやり遂げ、晴れ晴れとした声音をしていた。
 今剣は白く滑らかな膝小僧を見つつ、礼を述べなければと勇を鼓し、細く呼吸をする。いざ開口しようとして、彼は不意に先の審神者──あの男の記憶を蘇らせた。
 付喪神「刀剣男士」として受肉した今剣が、まだ先の審神者と心を通わせようと努力していた時分。彼は他の刀が止めるのも聞かず、度々男に挨拶をしたり、対話を試みようとしたりしていた。ほとんど無視をされていたが、ある時、男は気まぐれに「何か用か」と能面の如き顔で返事をした。短刀は嬉しくなって、満面の笑みでこう言う。「ようはありません。でも、あなたとおはなしがしたいです」と。……次に男から返ってきたのは、膨大な霊力による衝撃波だった。一瞬で吹き飛ばされる今剣。小柄な体は何十枚もの襖を突き抜け、訳も分からぬまま薄汚れた畳に倒れた。
 そんな出来事があり、短刀は治療の要請以外で男に近寄らなくなった。先の審神者が怖い。人へ声を掛けることが怖い。恐怖心が植え付けられ、「用事もないのに人間に話しかけてはいけない」と、知らず識らずにインプットしていた。今剣がなかなか女と話せなかったのには、そういう理由もあったのである。
「ありがとうございます」と、その十文字を口にするのが、とても恐ろしくなった。用がないなら声を掛けてはいけない。喋ってはいけない。実のない談笑など以ての外。
 フラッシュバックに怯え、短刀は顔面蒼白になる。
 ──ところが。
「綺麗になったね。色白さんだから、怪我があると目立つねえ」
 女は笑って、取り留めのない──本当にくだらないことを言った。用事は済んだというのに、しょうもない話を仕掛けてきたのである。
 親しみのある声で朗らかに。「色白さん」というのは褒め言葉か。
 驚愕した短刀は弾かれたかのように前を向く。紅赤の眼を瞠った顔が見る間に歪み、彼は短く息をした。手から力が抜ける。持ち上げていた袴が指から滑り落ちた。
 無益で、無意味で、何の役にも経たない話。今剣がしたかった話。
 ああ、どうして彼女は。
 彼女の声を聴いて、彼女の顔を見て、今剣の心の奥に湧き上がるものがあった。三日前と同じように胸が一杯になる。彼の頭は何も考えられなくなり、頬や喉元がカッと熱くなった。
「ごめん嫌なこと言っちゃっ」
 慌てた女が言い終わる前に短刀の腕が伸びる。心の赴くまま、今剣は彼女に抱きついていた。結界のぶよっとした感覚。煙と木の香りがした。
「ど、どうし──」
「あなたなんて、きらいです」
 口が勝手に動く。本気で思ってはいない。こんなことを言うつもりなどなかった。
「どうして、さいしょにきてくれなかったんですか」
 言ったってどうにもならない。分かっている。いかに足掻こうが昔は変えられないのだ。だけど言わずにはいられなくて、今ここに居る彼女にぶつけてしまう。
 ああ、どうして彼女は優しいのだろう。どうしてこの人間が最初の主ではなかったのだろう。
 今剣は全体重を預けて女に寄りかかった。筋肉が強張りそうになるくらい、腕に力を込めた。女は抵抗しない。
「……ごめんね」
「嫌い」なんて言ったのに、理不尽な思いのはけ口にしてしまったのに、彼女は今剣を責めなかった。それどころか受け入れた。
 短刀は顔が見えないよう極限まで下を向き、目を潤ませた。
「ごめんじゃないです。おひとよし」
 心の内で呟いて、短刀は涙を我慢する。「きらい」ではなく、「すき」が始まる夜になった。

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