小話 - なんとはなしに

07


 小夜左文字は煩悶していた。
 重傷を負っていた兄や仲間は先日の手入れで全快しており、離れの人間は干渉してこず、本丸は穢れ一つとしてない。危機的状況を脱し少しは安心してもよいはずなのに、彼は繊細な心を思い惑わせていた。
 戦にも遠征にも出なくて良い状況だ。これといった義務もなく、幸か不幸か考え事をする時間はたくさんあった。仲間が回復したことで不安の種はぐっと減り、物事を熟考するゆとりだってできていた。
 全刀剣の手入れが終わってからというもの、小夜左文字は人気のない座敷の隅で膝を抱え、じっと思考に耽るばかり。刻を費やし、考えて考えて……どんなに頭を使っても、彼の艱苦は消えはしなかった。それどころか、思惟は悪い方へしか伸びない。心に蔓延る憂愁は増長する一方だ。
 彼がもっぱら悩んでいるのは、離れに住まう女の事だった。
「あの人間は、如何なる者なのか」
 春先にやって来た新しい審神者について、意識と自由を取り戻した兄や他の刀剣男士に聞かれることは少なくない。その度に、小夜左文字は自問するのである。
 あの人間は自分たちに何をした? 先の審神者のように自分や仲間を傷付けるような行為をしたか?
 もちろん、かくの如き所業はなかった。女が離れに住み着いた日からこれまで、刀剣男士が彼女に傷付けられた事は一度もない。警戒のあまりに小夜左文字らが攻撃を仕掛けた事はあっても、その逆は皆無である。
 女が行った事といえば、穢れきっていた土地の浄化や、本丸御殿の掃除、付喪神の手入れ。畑仕事に庭いじり、鯉の世話──どれをとっても害になどならない。
 人は憎い。恐ろしい。小夜左文字にとっての女は、かつてこの地を支配していた男のように忌むべきものでしかなかった。しかし、過去を振り返れば振り返るほど、そんな風には思えなくなってゆく。
 一日、一日が経つにつれ、小夜左文字が女へ抱いていた悪感情は揺らいでいった。十日が過ぎる頃には、彼の心に確たる変化が訪れていた。
(あの人は僕たちを傷付けたりしていない。穢れていた土地を清めて、僕たちの家を掃除して、みんなを治しただけだった。審神者らしい事なんてせず、こんのすけと一緒に花や野菜の世話ばかりしている)
 今日も今日とて、左文字の末弟は座敷の隅で悩乱している。女に手入れをされた日以降、彼は表に出ていない。
 女の監視は脇差以上の刀剣男士が担うようになり、小夜左文字が縁側で見張りをする必要はなくなっていた。また、人の危害を畏れ弟たちを隠す一期一振の影響で、短刀は刀派を問わず皆屋内で過ごしている。小夜左文字は御殿に籠もることを兄らに強制されているわけではなかったが、外に出てみようとは思わなかった。
(……僕たちに無理をさせたのも、本丸を滅茶苦茶にしたのも、前の審神者なんだ。あの人じゃない)
 罪悪感、後悔、前の審神者への恨み、人間への嫌悪──様々な感情が綯い交ぜになって、苦しくてたまらない。
 女に合わせる顔がなかった。会ったところで、何をどうすればよいのかも分からなかった。対面が億劫だった。
 先の審神者と今の審神者が違う生き物であることを、そして、女が何一つ悪行をしていないことを、小夜左文字はようやっと認知したのである。
 信頼するに値する存在かはまだはっきりとしていないが、それでも今、小夜左文字は以前のように女が危険人物だと思えなかった。
(僕は、間違っていた)
 細い指が、破れてボロボロの袈裟を握り締める。歯を食いしばる彼の脳裏に、女を斬りつけた時の映像が流れた。
 あれは卯月のよく晴れた日。女が明るく微笑みながら縁側に近付いてきたため、何かされる前に殺そうと考えた小夜左文字は、迷うことなく刀を抜いた。見開かれた目、大きく開いた口──女はひどく驚いた表情をしていた。結界が攻撃を弾いたため女は無傷であったが、きっと怖い思いをさせただろう。
 ……苦い。そこはかとなく苦い気持ちが、小さな体に溢れ返る。
(あの人は憎むべき人間じゃない。あの人に復讐をするのは、間違ってる)
 膝小僧に顔を埋め、小夜左文字は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。静かな奥座敷に響いた吐息を聞くものは、襖の陰に身を忍ばせている宗三左文字と江雪左文字の二振りのみ。
(だけど、この黒い澱みは、胸の奥で燃える痛みは……どうすればいいの?)
 先の審神者はもう居ない。ある時、政府が連れ去ってしまった。
 復仇すべき相手が、宿怨を向ける相手がいないのであれば、いったいどこに、誰にこの激情をぶつければよいのか。
 やり場のない思いに胸を痛める左文字派の短刀。
 辛そうな弟を襖の陰でそっと見守る兄たちは、互いに顔を見合わせ、ただ悲しげに視線を落とすのであった。

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