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「さん、に、いち…はっしゃー!」

 壁掛け時計の秒針をじっと見つめては十二時ぴったりに三本の針が全て揃った瞬間、ぱあっと明るさを増した看板娘の笑顔が居間の中にきらきらと散りばめられた。そして周りに弾ける破裂音と煌びやかなカラーテープと紙吹雪が彼女の上ではらはらと宙を舞い、その一瞬だけはまるで星々に囲まれた月のようにも見えた。

「はーい、お誕生日おめでとさん」

 今まさに、誕生日を迎えた看板娘は今日で八歳になる。豪華さはないものの、普段では見られない多種に渡るおかず(山盛りサラダに肉じゃが、鶏のから揚げに加え、なんと手巻き寿司まで用意してしまった。明日以降の未来は暗い)と、そしてメインの三角ショートケーキが三つ。小さなコタツ机に乗せられた各々の皿を見渡し、今後の生活について頭を悩ませながらも二人だけの誕生日パーティは始まりを迎えた。
 淡い期待を込めながらもやはり一人不在のままになってしまった事に主役である彼女も俯き気味だったものの、気を遣っているのか今は少なからず笑顔のままで、準備していたプレゼントのロケットペンダントのネックレスも嬉しそうに受け取ってくれた。

「これに君のお母さんとお父さんの写真を入れよう。だから、今日からはリンがずっと持っていて」
「えっ…どうして?」
「お守り。二人を見つけられますように、ってね」
「…そっか、えへへ。そうだよね、お守り! うふふ」

 長い間箪笥の奥にしまったままだった古い写真を、ロケットペンダントの形にぴったり嵌るようにハサミで上手く切り抜いた。皺にならないよう写真を伸ばしながら嵌めてやると、ちょうど親子三人の笑顔が真ん中で映るように収まり、ぱちんと蓋を閉め彼女の細い首へ後ろからネックレスを掛けてやる。胸元にきらりとセピア色に光るハート形のペンダントがまるで喜んでいるようにも見え、二人顔を合わせればにっこりと自然な笑顔が浮かんだ。

「あたし、これ大事にするっ。ありがとう、マゴにい」
「どう致しまして。喜んでくれて、良かった」

 大事そうに小さな両手で握り締める彼女にこちらまで胸の奥がほっこりと温まり、衝動的にそっと頭を撫でてやれば胸の中へと飛び込んできた小さな体に両腕を回した。途端に互いの腹の虫が鳴り、こんな事をしている場合ではないと二人慌ててコタツ机を挟むように座り直しては、目の前に広げられた多少豪華だけれど少し遅い夕飯をもりもりと食べ、これでもかという程にお腹がいっぱいになっては眠気が襲いかかって来た頃。そのまま横になって半分夢の中へと旅立とうとしている看板娘を抱えてそのまま布団が敷いてある奥の居間へと運んだ。動かしても目が開かないところ、元気に見えて実際は疲労が溜まっていたのだろう、先に彼女を寝かせてからひとりパーティの後片付けを始めた。
 本当は、二人で彼女を囲んで一年で一度きりの誕生日を祝ってあげたかった。でも、それも今はもう叶わない夢物語だ。この店で待つだけでなく、こちらから彼の手を掴みに行かない限りは。
 心の中ではそう思いつつも、実際顔を合わせたところで気持ちの整理が出来ていない今、この汚れた手で彼の腕を本当に掴んでもいいのかさえ自信が無くなってしまっていた。
 最後の一つ余ったショートケーキを皿ごとラップに包み、冷蔵庫にしまってようやくコタツ机の上がすっきりしたところで、今夜はもうこれ以上何もせずに寝てしまおうと思ったその時。居間の襖をがらがらと開けて看板娘の元へと一歩踏み出すと、何故か寝ていたはずの彼女がすぐ目の前で静かに立ち尽くしていた。もしかして、物音で目が覚めてしまったのかと思い、リン、と小さく呟くように彼女の名前を呼ぶも不思議と反応はない。

(寝ぼけてるのかな)

 目線を合わせるようにその場にしゃがみ、その表情を伺うと何処か虚ろで伸びた視線がはっきりとしない。揺れるようなその濁ったピンク色が何故だか不安を煽って、もう一度彼女の名前をはっきりとした声で呼んだ。

「リン…?」

 そこでようやく気付いたのか、さっと顔を上げ真っ直ぐにこちらに向いた瞳とぶつかったその直後だった。

「…ちょっと! わたし、リンなんて名前じゃないんだけど!」
「へ、あ…う、わぁ!」

 あまりにも普段と違いがありすぎる彼女の態度と言葉に目を丸くしては、その勢いに負けてひっくり返るようにその場で尻餅をついてしまった。ぱちくりと瞬きをして動かずにいると伸ばされた小さな手に腕を掴まれて、落ちていた腰を無理矢理に立ち上げられてしまった。

「何ジジくさい事してんのよ。ほら、立って立って」
「え? あ、ジジ…? リンちゃん、一体どうし…」
「…こうして話をするの、何年振りかしらね。…トキ」
「っ…! な、んで、その、名前を…」

 声の色は変わらない。しかし、その荒い口調とその中に含まれる懐かしい優しさは今でもちゃんと記憶の片隅に残っていた。もしかして、という考えに至るもさすがにすぐには信じる事も出来ず、半信半疑のままに、もうこの世にいないはずのもう一人の幼馴染の名前を恐る恐る久方ぶりに呼んでみたのだった。

「…もしかして、シノ、なのか…?」
「……そうよ。って言ったところで、あなた、信じちゃうの?」
「あっ…え、と」

 あまりに唐突な展開に頭がついていけていないのは事実だった。目の前に立ち竦む姿は確かに看板娘の小さな体で、しかし明らかに今の彼女が彼女ではない証拠である、自分の本当の名前を知っているという事実と、何より耳に入る声の心地よさが思い出の中だけで生きていたはずの彼女本人であると訴えてきているようにも感じた。

「地縛霊ってヤツ? ごめんなさいね、気持ちが悪くて」
「い、いや。でも、分かる…分かるさ、俺には。今の君は本当に、俺の知っているシノブなんだろ」
「…ほんと、疑う事を知らないのは昔から変わらないのね。そのうち、変なヤツに騙されて痛い目遭うわよ」
「あ、はは…そうかもね」

 姿は看板娘のままとはいえ、久しすぎる彼女との会話の雰囲気に鼓動が高まり、まるで結婚したばかりの日々が今ここに蘇っているようにも思えた。しかし、いつまでも呼吸が苦しくなる程に暴れている心臓を少し落ち着かせる為、彼女には居間のコタツに入っているよう背中を押して、とにかくまずはお茶を淹れようと台所へと向かいそっと襖を閉じた瞬間、喉元で詰まっていた何かがようやくどっと溢れては乱れていた呼吸が次第に落ち着き始めた。
 一体、今何が起きているのだろうか。急須に茶葉を一杯、二杯と入れながら頭の中で何度考えても正直なところ未だによく分かっていない。しかし、今の彼女は確かにシノブだった。看板娘があのような演技をする理由もなければ、こういった冗談を言う性格ではない事も知っている。何より、自分の本名を知っている時点でやはり今の彼女は看板娘ではなく、確かにもうこの世にいないはずのシノブでしか有り得ないのだから。
 愛用している群青色の湯呑みと、もう一週間は使われていない深緑色の湯呑みをお盆に乗せては、熱々のお茶をゆっくりと注いだ。二つの湯呑をお盆に乗せながらひと呼吸を入れ、襖を開けて正座をしながらぼうっと待ちぼうけている彼女の前に片方の湯呑を静かに置く。どうぞ、と促すと、小さな声でありがとうと返され、程よい熱さになったお茶を二人で啜った。

「…美味い」
「確か、濃い目が好きだったよな」
「随分昔の事なのに、変な事覚えてるのね」
「そりゃまあ…でも、俺にとっては、昔じゃないから」

 彼女の向かいに胡座を掻いて座りながら、両手で持った湯呑みの中の緑をじっと見つめると無自覚に下げていた暗い表情に驚いてすかさずその中身を飲み干した。その様子を不思議そうな顔で眺めていた彼女は、辛抱堪らずに深い溜め息を一つ吐きながらそっと目を伏せて呟いた。

「…ダメね、本当に」
「ご、ごめん…。でも、今の今まで吹っ切れてたつもりだったんだ。でも、実際は何もかもがあの日からぴたりと止まっていて、俺の時間はいつまでも過去に取り残されたままなんだって、最近になって、ようやく気付いた」

 一週間前にナワバリバトルの最中に起きた事故そのものが、自分の弱さの全てを物語っている。大量の血、真っ赤な世界、そのものが苦手になったのは彼女が亡くなったあの日からなのだから。 

「…ずっと、謝りたかった。君を守れなかった事も、そして、何も気付けなかった事も。俺のせいで、君の命が絶たれてしまったから。だから…」
「調子に乗るのも、いい加減にして」
「っ…!」
「…ねぇ、トキ。十年以上も前に死んだわたしが、どうしてまだ小さいこの子の体の中で生き続けているか、あなたに分かる?」

 ずっと、心残りだった。結婚して五年が経っていたある日、人生の分岐点とも言える最悪の一夜は今でも鮮明に思い出せる程に深く古い記憶の中に刻まれている。
 あの日も外はうるさい程の大雨で、ばたばたと地面を叩きつける雨粒の音が脳内を響き渡っていた。いつもは定時で帰宅し既に二人で夕飯を食べている時間であったのに、その日に限って残業が続いて家に帰ってくるのが遅くなってしまった。連絡は入れておいたものの、彼女からの返事はなく、しかしそれもいつもの事ではあったので然程気にも留めていなかった。重なる疲労でどっと重くなった体を引き摺りながらようやく帰路を辿り、やっとの思いで玄関の扉を開いた瞬間に広がった生臭さに、思わず腹の底から込みあげてきたもののせいで意識を失いそうになった。小さなアパートの一室、こじんまりとした台所のガスコンロの前で沈むように大量の血を吐いて倒れていた彼女が視界に映ったその時、息をするのも忘れる位に頭の中は真っ白になっていた。持っていたショルダーバッグを床に投げ捨てて、青白い顔で口元からだらりと赤を吐き出す彼女の軽い体を咄嗟に抱き上げた。微かに上下する胸とゆっくりと開いた瞳に視線を落として、何度も何度も彼女の名前を呼んだ。絶対に大丈夫だ、と自分自身に言い聞かせるように震える手のひらを強く握り締め、何故だか対照的に溢れて止まらない涙が落ちては白い頬の上で弾けて消えた。

「…あなたにも、ヨリにも、ずっと秘密にしていた事があるの」
「秘密、だって?」
「…言おう言おうって、心の中では思ってた。あの養護施設へ入所するずっと前から、分かっていた事だったのだから」
「シノブ、君は、一体何を」
「…不治の病、だった」
「え…?」
「今の医療技術では、絶対に治らない重い病気。わたしは物心つく頃から、その病気のせいでとっくに余命宣告を受けていたの。二人より先に、いつか必ずこの世を旅立たなければいけない事は自分が一番良く分かってた。それなのに…どうしても、言えなかったっ…」

 二人を、愛していたから。
 友人として、恋人として、家族として。だからこそ、本当の事が言えないままにこの世を旅立ってしまった。
 次第に消えゆく彼女のその声に息を呑む音が妙に耳について離れない。消えていく命の炎が予兆されていたものだったなんて、直接伝えられたところで信じる事など到底出来なかった。

「そ、そんな…嘘だ。あんなに、元気だったじゃないか」
「わたしの話が嘘か本当かくらい、あなたが一番知ってるでしょ」
「!」
「…だから、わたしは誰かを好きになる事も、愛してしまう事も許されないんだって自分に言い聞かせてた。いつか必ず、近いうちに訪れる別れが辛いものになると知ってたから。わたしにとっても、あなたにとっても」
「シノ…」
「分かっていたのに、それでも挫けず必死に思いを伝えてくれたトキワの嘘一つない本物の気持ちが嬉しくて堪らなくて、わたしも愛しているのよって、本当はすぐにでも応えてあげたかった。でも、その恐怖には勝てなくて、あなたの告白を断る度に涙を流しては自分の運命を呪ってた。どうして、わたしだけ幸せになってはいけないの、って。何度も、何度も」

 だらりと垂れた前髪の中でひとしきり涙を落とす彼女の震えた声に、思わず近寄っては抱き締めたいと心の底から思った。しかし、そんな簡単な事さえも今の自分には出来ずにいた。そんな資格はお前にはないと、自分自身にまるで言い聞かせられているように飛び出しそうになった言葉さえ飲み込んでは消えてなくなってしまった。

「ごめんね…わたし、自分勝手だった。何度も好きだって言ってくれたトキの言葉に甘えて、結局自分の事だけを考えてプロポーズ、受けちゃった。…ひどいよね、最低だよね。少しでも一緒に幸せになりたいと思ったわたしのワガママが、二人をたくさん傷付けたの。だからもう、いいの」
「…違う。それは違うよ、シノ」
「あなたの幸せが、わたしの幸せだったはずなのに」
「シノッ!」

 彼女の言葉を聞き入れたくないと拒否するかのように、無意識にも爪が肉に食い込むくらいに力を込めた拳をコタツ机へ強く叩きつけた。辺りがしんと重くなる中、衝撃でかたかたと震えた湯呑がひっくり返ってしまいそうになるのも構わず、目を丸くしてただただ呆然とこちらを見遣る彼女へと、余り切った勢いで飛び出していく沸々と湧いた気持ちが真っ直ぐに言葉となってぶつかっていった。

「頼む…。これ以上、俺の愛した人をそんな風に貶さないでくれ…」
「で、でも…わたしは、あなたにずっと…!」
「君の幸せは、俺の幸せでもあるんだよ。だから、なにも間違ってなんていなかった。そうだろ?シノブ」

 もうこれ以上、彼女の悲しむ顔を見るのが嫌だった。瞳を震わせて自身の名前を呼んだ彼女の声が迷っていた自分にようやく覚悟を決めさせて、からからだった口の中を少ない唾液でなんとか潤せては、応えるようにコタツ机の上に置かれた俯いたままの彼女の手をそっと握り締める。どこか儚げなそのぬくもりに堪らず大きく息を吐きだした。

「…君に一つ、話しておきたい事がある。聞いて、くれないか」

 重く沈んだ声色で問うた言葉に彼女は目を細めながら無言で頷く。もう、何も隠していたくなかった。もう二度と会えないのだと諦めきっていた彼女が今、こうして目の前に存在している現状に、自身の全てを曝け出す事に意味があるのだと訴えられているようにも思えた。
そっと重ねた手を膝の上へと戻して、胡座だった体勢をきっちりと背を伸ばして立て直す。正座のまま真っ直ぐ彼女へと視線を向けてはごくりと息を呑む。

「ずっと、知らない振りをしてた。でもきっと、随分と昔から変わらない気持ちだったんだと思う。本当はこんな事言わないべきなのかも知れない、でも、君にだけは何も隠したくなかったから」
「………言って。お願い。あなたの言葉ならきっと、全部受け止められる」

 お互いの覚悟に確信を持った時、喉元で詰まっていたものが不思議なくらいにするすると流れては、自分でも驚く程に体の外へと春風のように広がっては落ちていく。
 もう、ちっとも怖くなんてなかった。だけれど、声はきっと掠れていたかも知れない。それこそまるで、自ら吐き出したものとは思えないと感じた程に、誰にも言えなかった底に沈んでいたものを一気に吐き出した。

「…アイツが、好きなんだ」
「………」
「俺は、ヨリの事を愛してる」

 今度はもう、躊躇う事など無かった。
 その瞬間、真っ赤な顔で彼女にプロポーズをしたあの日と確かに重なって、たくさんの向日葵が咲き乱れた懐かしい景色が一面に映し出された気がした。

「許してくれなんて言わない。それでも、本当の気持ちに嘘をつくなんて…もう、できないんだ」

 改めて言葉として現れたその心からの叫びは実に心地が良く、とても清々しい気分で全身へと浸っていく気がした。
 どくどくと激しく鼓動する自身の胸の高鳴りを他所に、意外にもその言葉を目の当たりにした彼女は、何故だか酷く嬉しそうに笑っては目に浮かぶ涙を拭こうともせず、頬を伝い床へ落ちる雫をきらきらと輝かせ、しかし、わざとらしい大きな溜息を吐いてははっきりとした声で答えたのだった。

「はぁ…ったく。気付くの遅すぎなのよ、この鈍感バカ」
「えっ、あ、う…何が?」
「二十年以上も焦らすなんて、ほんっとサイテー。さすがのわたしもアイツに同情するわ」
「あの、それって、どういう…?」
「そんなに知りたきゃ、アンタのその目で確かめて来なさい。わたしはもう、そろそろ、行かなくちゃっ…」
「…シノ?」

 苦笑する小さな体の回りにいつの間にかきらきらと星の砂のような輝きが舞っている事に気付き、不覚にもその美しい光に自然と見とれては視界がゆらゆらと揺れた。その希薄さに包まれていく様子に不安を帯びた心が慌てて足を踏み出し、無意識のまま彼女の目の前へと這い寄り細い腕を掴んではその体ごと力強く胸の中へと抱き締めていた。

「嫌だ、待ってくれ! シノ…シノッ!」
「不思議ね。あれだけ縛られてた体が、今、すごく軽いの」
「頼むっ、もう、離れたく、な…!」
「…トキワ」

 滲んだ世界の中に、いつか見た本来の彼女の姿が垣間見えた気がした。優しいぬくもりで溢れた向日葵の匂いと、いつだって元気を分けてくれた眩しい程の明るい笑顔が確かに今、この腕の中にいる。

「いい年こいて、めそめそ泣いてんじゃないわよ。今のあなたには、守らなきゃいけない子がいるでしょう」
「シノ…!」
「…絶対に、負けちゃダメ。アイツの事も、頼んだからねっ…」

 皺が出来る程に胸元を掴み握る彼女の見上げた表情の中で光る強い瞳の力に、十年抑え付けてきた溢れる気持ちを止める事など出来るはずはなかった。

「っ……愛、してる。シノブの事、今も、これからもずっと…!」
「…ありがと、トキ。わたしの、最初で最後の大好きな人。いつか、きっと会えるわ。その日まで…」

 またね。
 耳元で呟いたその言葉と共に、すっと力の抜け落ちた看板娘の体を支えるように力を込めて掻き抱くと突風が吹き抜けたかのように何も聞こえなくなった。しんと静寂を迎えた部屋はいつもの居間の空気が立ち込み始め、ただ一つ違っていたのは、まだ湯気が少し立ち上る深緑色の湯呑みが夢ではないこの場所で確かに存在していた事だった。

「マゴに…?」
「っ…リ、ン」
「…泣かないで。あたし、ここにいるよ」
「……っ、うん」

 ピンク色の澄んだ瞳がゆっくりと透明に覚醒したその時。
 隣りの部屋で沈黙を破るようにぶるぶると震えては聞こえてきた携帯電話の着信音が、彼女のいない現実の世界へと意識を引き戻していった。頭の中が真っ白のままその場で動けなくなってしまった自分の代わりに、察した看板娘がぱたぱたと慌てて走っては勢い良く襖を開けて畳の上に置いたままだった携帯電話を持ってきてくれた。こんな状態で電話に出ても良いものか迷ったものの、その発信元の名前を確認してはそんな事さえ考える間もなく、すぐさま緑の通話ボタンをタッチしては受話口を耳に当てた。

「も、もしもしっ」
『アッー、もしもし。マゴのおっちゃん? こんな夜中に勘弁な。でも、緊急事態なんよ』

 相変わらずの訛りが含まれた明るい声が不思議と震えていた心臓に冷静さを取り戻させ、反して慌てた様子で話す彼女の声に鼻を啜る音を立てないように気を付けながら咄嗟に答えた。

「どうしたの、一体」
『アタシの友達に色々聞いてみたの。そしたらやっぱり、見間違いなんかじゃなかった。早く助けに行かないと! このままじゃ、あの倉庫で、ヨリのおっちゃんが…!』

 ヨリ。
 その名前を耳にした瞬間に固まっていた体は瞬時に動いていた。ショルダーバッグの中に突っ込んでいたカギを取り出して、唯一店に残っていたジップアップカモを羽織りそのポケットへと突っ込んだ。勝手口に転がっていたホワイトアローズに足を乱雑に履き入れ、ドアノブを握って押し開けたその時、後ろから裾を引っ張られ一歩後ろへ下がるもなんとか尻餅をつくまではいかずに留まった。ふと振り向くと、そこには少々不機嫌そうな顔を下げた看板娘がすぐ目の前に立っていた。

「一人で背負っちゃダメって、言いました」
「…リ、リン。でも」
「お願い、連れてって。あたしも、ヨリちんのお迎え行く」
「っ、危ないんだぞ。何が起こるか、分からない」
「それでもいいよ。一人ぼっちに比べたら、ちっとも、怖くないもの」

 がっしりと掴んで離さない彼女の手はとても力強く、射す様に見詰めてくる視線が覚悟を持った言葉で言っているのだと改めて確信した。それを察したのか、両腕を差し出すと暗かった雰囲気がぱっと拭払され、飛び込んできたその体をしっかりと受け止める。
 これから行おうとしている事が本当に合っているか否かで迷っている暇など無く、後悔する前に出来る事を全てやり通すしかないと本能がそう訴えていた。

(無事でいてくれよ、ヨリ)

 奥の倉庫から粗方使えそうな物をカゴに詰め込んで、店の脇に停めてあるスクーターへと飛び乗り、胸元で看板娘を抱いたまま急いでカギを差し込みエンジンを掛ける。寒空の中でふわふわと空へと消えていく白煙に塗れながらしっかりとハンドルを握ると、輝く三日月の光に照らされた荒れた道を駆け抜けていった。




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