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 子供の頃に三人で行った以来、一度も出向いた事さえなかった夏祭りも、初めに話を持ち掛けられた時は心底面倒で浴衣など今更着たいとも思わなかったというのに、いつの間にか用意されていた新品の紺の浴衣を押し付けられてしまった為に(自分の為を思って買ったと言うものだから断るにも断れず)渋々着替えては看板娘に腕を引っ張られながら人ごみに紛れつつ連れて行かれれ、その中で自分自身でも驚く程に浮かび上がってきた子供心に火が付いたのか、気付けば誘ってきた二人よりも楽しんでしまっている事に気づいて急に頬が熱くなった。
 しかし、日頃から世話になっているからと幼馴染からプレゼントされた浴衣はサイズもちょうど体型に合っていて、普段から寝巻きとして使用してもいいだろうかと思える程にとても着心地も良く、あちらこちらで鳴り響くお囃子や太鼓の音、ぼんやりと暗闇の中に灯る提灯、並ぶ屋台から漂う食欲のそそる香りが鼻を通っては気付かないうちに胸を踊らせていたのは間違いなかった。
 看板娘が幼馴染の友人に連れられて行き、帰路は二人で辿る事になってしまい初めは彼も寂しさを隠せずに意気消沈していたものの、懐かしい思い出話に浸りつつ散歩がてらのんびりと歩いていれば、その沈んだ表情は次第に明るさが灯り始め、ちらほらと笑顔が零れ始めると同時に自身の胸の奥も軽くなっていった。

「…あ、ちょっとトイレ」
「ん? あぁ、ちょうど公園あるし。行ってこいよ、待ってるから」
「はーい」

 眉尻を下げて申し訳なさそうに顔を下げながら、小走りで歩道のすぐ脇に広がっている小さな公園の中に佇む公衆便所へと入っていったのを確認した数分後。その隣りにあるベンチに腰を下ろし、持っていた携帯電話を暇潰しに弄りながら足を組んで待っていると、ふと薄らと背の低い影に自身が塗れ、不思議に思いながらそっと見上げれば、可愛らしい花柄のお洒落な浴衣を着こなした若いガールが一人立っていて、緊張しているのかよそよそしい雰囲気のまま、あの、と弱々しさを帯びながら声を掛けてきた。

「あの…突然、ごめんなさい」
「あー…何か用?」
「その、ヨリさん、ですよね。お名前」
「…えと、知り合いだったら、悪い。ちょっと顔覚えてねぇんだけど」
「あ、いや。そういう訳ではなくてっ…あの、ここからちょっと離れてる銭湯で、普段からよくあなたの事をお見かけしておりまして…」
「あ、あぁ…あそこね」

 髪には煌びやかなアクセサリーと細かい箇所にまで化粧で装飾された整った顔、その割にはお淑やかさが漂うガールがぽろぽろと零すように呟いた断片的な言葉にようやく事情を理解した。

(このタイミングは…あんまり、よろしくないな)

 この話の流れは過去にも幾度と経験している為、何故自分が一人になった状況で彼女が声を掛けてきたのかは一応、理由も察しているつもりではいる。自意識過剰と言われても仕方のない考えではあるが、ガチマッチの為にハイカラシティへと通うようになってからというものの、若いガールからのナンパ、告白、プレゼントの押しつけは意外にも多く、その中でも明らかに肉体関係のみを持とうとする者も少なくはない。そもそも見知らぬガールと、所謂何かしらの関係を築くつもりなど毛頭なく、誘われる度に有無を言わさず断るものだから次第に数は減ってはいるものの未だにその存在は無ではなく、こうして銭湯内で顔を合わせていた(らしい)ガールにも目を付けられた事は初めてではなかった。
 今回もその類だと思い、下手に期待させる前に一刀両断、夜も遅い事だし早々に帰ってもらおうと口を開こうとしたその時。目の前の彼女が胸の中へと飛び込み、あまりの唐突なその行動に突き返す事も出来ぬまま、普段抱き締めている体より更に細く小さな体を慌てて両腕で受け止めた。

「わっ! ちょ…お、おい!」

 ふわりと浮かんだ甘い香水の香りと、久しく触れていないガールらしい柔らかな白い肌、細い腰付きと交差するように絡まる長い足が自身へと密着し、その上ボーイと比べ軽いとはいえ、伸し掛るように体重を掛けられた体はどうにも身動きの出来ない状態に陥っていた。

「ど、どういうつもり…」
「っ…私、ヨリさんの事、好きなんです…! どうしても、諦めきれないの! 上辺だけでもいい、だからお願い、わ、わたしと、付き合っ…」
「くっそ、この…勝手な事言ってんじゃねぇ! いい加減、離れ…」

 ベンチに押さえ付けるように両手で肩を掴み、無理強いにも着ていた浴衣を胸元からはだけさせようとするものだから必死に止めようと腕を掴むも、負けじと股間に折り曲げた膝をぐりぐりと押し付けるという暴挙に出た為にさすがにこのままではまずいと踏み、なんとか体ごと押し返そうとするも意外にも見た目以上に力のある彼女を止めるにはなかなか骨が折れた。しかし、そうは言っても相手はガールでさすがに暴力で解決する訳にもいかず、どうしたものかと頭を悩ませていたその時。

「…ねぇ。ちょっと、いいかな」

 ぽろりと落ちるように目の前で響いた聞き慣れた声に、びくりと体が固まる。
 その声の持ち主である、先程まで公衆便所に行っていたはずの幼馴染がいつの間にやら彼女の背後に立ち尽くしており、咄嗟に彼女の腕を取っては、そのままその体を持ち上げるように引っ張り上げていた。

「なにすんのよ! 邪魔しない、で…」
「……悪いけど。コイツ、俺の大切な人なんだ。乱暴するつもりならいくらガールちゃんでも容赦しないよ。それでも、まだ続けるかい」

 長年誰よりも見てきたはずの幼馴染の声は地に落ちる程に低く澱んでいて、エゾッコメッシュの鍔の陰に隠れた表情は変わらないままだったが、どこかひんやりとした冷たささえ感じるその重苦しい雰囲気がぞくりと二人の体を震わせた。

「うっ…お、オッサンのクセに生意気なんだよ、バーカ! うわあああん!」
「あっ! ちょ…ま、待って! …あぁ、やってしまった…」

 小さな瞳にぷくりとした大粒の涙を浮かべながら掴まれた腕を振り払い、地面に放り投げられたままだった巾着カゴを拾い上げ、幼馴染の制止の言葉も聞かずにその場を走り去ってしまったガールを呆然と眺めながら、あちゃあと呆れた声を零して頭を掻いている目の前の彼を、乱れた浴衣もそのままにただただその立ち姿をじっと見詰めていた。

「怖がらせるつもりは、なかったんだけどな」
「マ、マゴ…?」
「…ご、ごめんっ。えと、ヨリ、大丈夫だった?」
「俺は、別に、平気だけど…」
「あ、ほら…浴衣、着崩れてるよっ…全く、もう」

 つい先程の態度からすぐさま一転し、普段通りの柔らかな物腰で、しかし慌てた素振りで乱れた浴衣をせっせと直してくれる幼馴染にされるがままに固まっていると、胸元を隠すように掛け襟をしっかりと引き込み、緩くなった帯を締め直しては全体的に着付けを整える度に布越しに触れる彼の手つきに危うく鼓動が高鳴りそうになった。

(な、なんか、手つきが…くそっ…)

 そんな邪な気持ちを宿しているとは知らないであろう目の前の幼馴染に差し出された手を反射的に握り返してやると、引っ張り上げるように落ちていたはずの腰をぐいっと浮かされた。ようやくその場に立ち上がる事の出来た自分を見て、ようやく安堵したらしい彼はゆっくりとひとつ息を吐くと、手はしっかりと繋がれたままにずんずんと公園の外へと引き摺られながら再び店への帰路を二人で辿った。

「お、おい。そんな慌てなくても!」
「…うるさいな。俺、早くお風呂入りたいの」

 迷惑は掛けてしまった自覚はあるといえど、何やら妙にご機嫌斜めの幼馴染を不思議に思いつつ、まだ店までは距離のある細いぐにゃぐにゃに曲がった田舎道の中で一瞬、彼の足の動きの違和感と小さく漏れた声に思わず足を止めた。

「待てよ。それ、何だ」
「っ…」

 問い質しても答えは返ってきそうにもなく、だんまりのまま動かない彼の足もとにそっと腰を下ろしては足首の辺りを覗くと、いつの間にやらじんわりと赤みを増した跡が残っており、出血はないものの明らかに異常な状態である事に変わりはなかった。

「…さっき、捻った時か。何でもっと早く言わねぇんだよ」
「だ、だって…初めは、痛くなかったから。大した事ないと思ったんだもん」
「ったく…。おら、いいから早く乗れ」

 腰を下ろしたままに背を向けて、未だ不貞腐れているであろう彼の顔も見ないままに促すと、数秒無言の時間が流れたものの、それに耐えきれなくなったのか渋々と肩を掴み恐る恐る差し出された足を両脇で挟んでは、相変わらずいつにも増して増えない重さに溜息を吐きながらよっこいしょと一声を漏らしてその場に立ち上がった。

「ごめん。重いよね」
「何言ってんだよ、アホ。寧ろもっと食って増やして欲しいくらいだ」
「こ、これでも結構食べてるよっ! …前よりは」
「だったら、せめて標準体重になるくらいの肉を付ける努力をすんだな」
「う、うぅ…」

 握り締めるように肩を掴む両手と、その間に埋めるように顔を伏せた彼の額から伝わるじんわりとした優しい温もりを感じて、細い体を支える両腕に堪らず力が籠った。

「…そういえば、昔もこんな事あったっけ」
「え?」
「なんだよ、覚えてないのか? あの日も祭りで花火が上がってて、疲れて眠っちまったお前を俺がおぶって施設まで帰ったの」
「うーん…そんな事、あったようななかったような」
「お祭り行ってみたい、って言ったヤツから先に潰れやがってよ。体力ねぇのは昔からだもんな、お前」

 早く怪我の手当をしてあげたい気持ちはあったものの、今の今まで忘れかけていた三人で過ごしていた長いようで短い記憶の中の風景を不意に思い出してはつい口元が歪み、既に霞みかけているその思い出をふんわりと思い浮かべてはずれたオクタグラスを掛け直しながら苦笑した。


***


「ちょっと、待って」

 日付が変わろうとしているにも関わらず、未だ明るさを灯す屋台の数々に人々は家へ帰る様子もなく、もしかして永遠にこのお祭り騒ぎがこの先も続くのではないかと錯覚する中、義理の母にお前はすぐ時間を忘れて門限を破ると言われ、押し付けられながら身に付けた腕時計を見下ろしてみると、いつの間にやら今すぐにでも帰路を辿らなければまた拳骨を食らってしまう時間になりつつあった。
 散々暴れ回った挙句、ただでさえゼロに近い体力を使い果たしてぐっすりと眠っているトキワを背負いながら、おみやげにと買ったたこ焼きを腕に提げてとぼとぼと帰路を辿っていた時。隣りにいたはずのシノブが後ろの方である屋台の前で立ち止まっていて、段ボールの踏み台の上に乗ってはじっとその中を覗き込んでいた。

「どうしたんだよ、シノ」
「これ、これやりたい」
「…射的? なんだ、珍しいの興味あんのな」

 すぐ傍へと駆け寄ってそっと爪先立ちになりながら中の様子を眺めると、色々な種類のおもちゃやお菓子、見た事のないアイテムや置物が三段の簡素な棚にずらりと一列ずつ等間隔に並べられていた。店の横のパイプ椅子にどっかりと腰を落として座っていたおじさんがこちらの存在に気付いたのか、握り締めていたなけなしのおカネを手渡し十発分のコルクと銃に交換してくれた。

「あんだよ、本気でやる気か」
「んー…というか、ちょっと欲しいのあって」

 じっと賞品の並ぶ棚を見詰め、初めてのはずなのに不思議と慣れた手つきで小さなコルクをぎゅっと銃口へと指先で押し込むと、左手を銃身に添えながらゆっくりと腰を落とし、じっとひとつの賞品に狙いを定めながら右手の人差し指を掛けた引き金を引くと、パンという見た目よりも軽い銃声を響かせながら放たれたコルクは、目的の物へと驚く程に真っ直ぐに前へと飛んでいった。

「おっしゃ!」
「うっそ、一発」

 撃った本人が驚く程に立たされていた箱が真後ろに倒れ、パタンと仕留められた獲物を呆然と見詰めている中、甲高いベルの音を鳴らされてこれは参ったと苦笑を掲げたおじさんが、袋に入れた賞品とおまけに飴玉二つをその中へ突っ込んでくれた。
 時間も時間だったので、欲しいものを手に入れる事が出来たシノブは満足したのか残りのコルクを全て返却して、ごめんと一言謝っては自分の腕を引いて再び前を歩き始めていた。
 華やかな場所から離れ、暗い闇地の中、施設まであと十分程で帰れるという場所まで辿り着いた頃、突然その場で立ち止まりガサゴソと袋を漁ってはそこから取り出した何かを手にすると、視界を覆うように何かを自分の顔に掛けてきたものだから驚いて二歩三歩後退りしてしまった。

「な、ななな、なんだよ、これ!」
「あら、やっぱりこれ大人用だったのかしら」
「え、あ、んんっ?」

 ただでさえ辺り一面暗闇の真夜中、星の光る乏しい明るさでしか照らされていない中、更に黒く落ち込んだ視界は目の前にいるはずのシノブの姿でさえ非常に見づらく、慌てて世界を遮るその正体を掴み上げてみれば、それはこんな田舎ではどの店に行っても売っていないような、ひと目見た瞬間にまさしく一目ぼれをしてしまう程のとてもお洒落な真っ赤のサングラスだった。

「何、これ…イカしてんなー!」
「でしょ? アンタに似合うと思ったから、お小遣い叩いて取ってあげたんだからね」
「えっ…あ、お、俺に?」
「…えと。なんというか、まぁ…き、気にしなくていい!」

 何度掛け直してもサイズが合わないのかがたがたと揺れるサングラスを押さえながら、真っ暗闇の中でも分かる程にもじもじと頬を染め上げ、結局そっぽを向いて先を歩き始めてしまった彼女の背を追いながらもう一度投げ付けるように声を上げた。

「おい、シノ! 俺まだ誕生日じゃねーぞ!」
「自分の誕生日も知らないヤツが何アホな事言ってんのよ、バーカ!」
「…いいから、ちょ…待てって!」

 これだけ騒いでも身じろぎ一つしない背中の重みに耐えながら、地を蹴り早めた足で追い掛けなんとか彼女の腕を掴んだ。こちらを振り向く瞬間に見たその表情が、いつまでも目に焼き付いては脳裏から離れられなくなってしまう事になろうとも知らずに。

「…何よ」
「い、や…あの。その…あり、がと」

 出会った時から暴言を吐き捨てられ、言葉を交わしたかと思えばすぐに喧嘩になり、度々トキワの仲裁が入ってはようやく蹴る殴るの取っ組み合いから解放されるという施設内でも定評がある程の仲の悪さだったものの、お互いに嫌悪しているという訳でもなく、寧ろ言いたい事を言い合える清々しい関係である故に異性として見たのも一度もなく、今まさに、まるで甘酸っぱい恋をしているような女性らしい彼女のきらきらとしたオレンジ色の瞳に添えられた面映さの残るしかめっ面に思わずごくりと息を呑んだ。

「…少しは、マシになったんじゃない。アンタ、ほんっと普段からフクのセンスのカケラもないし」
「悪かったな、いっつも一緒で!」
「でも、やっぱりサイズ合ってないわね。別に、無理して付けなくたって…」

 頭をがしがしと髪を乱すように掻きながら、珍しく少々寂しげにつぶやく彼女にただただ無言で首を横に振る。どうにも理由もなしにプレゼントをしてくれた事も、こんなにも自分を気遣ってくれる事も出会ってから初めてのような気がしてお互いに変に調子が狂っているような気がする。しかし、どんなものであろうと自分の事を思ってこの赤いサングラスを贈ってくれた事は事実で、勿論驚きはしたものの嬉しくない訳などなかった。
 何度直してもずり落ちてくるそのサングラスを無理矢理額に掛けながら、未だ俯いたままの彼女の頭を優しく撫で(しかし、不慣れで緊張しているせいか、どうやら手は震えているらしい)、それに気付いて見上げた視線とぶつかったと同時に、情けなく声を震わせながらも今確かに胸の奥に生まれた感情を言葉に変えてどうにか振り絞ったのだった。

「…俺! 絶対に、これが似合う大人に、なるから」
「はぁ?」
「えと、そん時は、その…ちゃんと褒めろよ! わぁ、ヨリくんすごくカックイイ〜って」
「うわぁ、有り得ねぇ…」
「……とにかく! これ、大事にする。いつか、その…お返し、すっから」
「三倍返しで頼む。いいわね」
「小遣い少ねぇのに惨い事言うな!」

 ようやく見慣れた笑顔を垣間見た事ですっと降りるように落ち着いた胸の奥にひどく安心して、耳元にぽろりと落ちてきたむにゃむにゃという寝言を二人で聞いては、ぱちくりと無意識に二人で瞬きをし合えば自然と笑みが零れ、けらけらと声を上げながら顔を見合わせた。

「…大きくなったら、みんなで行こうね。ハイカラシティ」
「そうさなぁ…気が向いたら、な」
「トキも行きたいって言ってたわよ。引き摺ってでも連れてくからね」

 限りなく遠く限りなく近い大人への入口に早く立ってみたい、そんな気持ちでいっぱいのシノブとトキワに対して、自分にとっては今こうして三人で一緒にいられる時間が大切であり、彼らと出会う前の一人で過ごしていた頃よりもずっと幸せなこの毎日を過ごせるだけで十分のようにも感じていた。そもそもインクリング達の憧れであるナワバリバトル自体にも興味はなく、寧ろこれから先も変わらない日々を送れる事だけを自分だけが心の底で願っているのかも知れない。

(いつまでも変わらないでいる事なんて、きっと、無理なのだろうけど)

 揺すっても起きる様子のないトキワの寝息を耳元で聞きながら、自身の中だけで悶々と一人考え続けている、そんな身勝手な願いを口に出す事など出来る訳もなく、すっかり上機嫌になってずんずんと先を進んでいくシノブの背中を追いながら、今日もその気持ちを声に出す事は出来なかった。




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