***


 目的地のヒラメが丘団地に着いた途端、けたたましく鳴り響いた携帯電話の通話ボタンを慌てて押してみれば、それは予想だにもしていなかった緊急事態の連絡だった。
 発信者は先に到着していたらしい幼馴染の友人である褐色肌のボンボンニットのガール、通称こんがりニットで、看板娘の母親が住んでいる部屋を突き止めたまではいいものの、その中から何やら怪しい煙が立ち籠もっている事に気付き、慌てて鍵の掛けられたドアを叩くも全く応答がないという。
 最寄駅に着いた瞬間に目の前に佇む団地を見上げれば、教わった番号が記された棟の中の最上階、一番端の部屋が窓から覗くだけでも分かる程に色濃く灰色の煙で充満している事が分かって尚更焦燥した気持ちが早足にさせていく。

「あぁもう、おっちゃんら遅いよ!」
「仕方ねぇだろ、これでも一番早い電車に乗ったんだ!」
「そんな事より、リンは…リンは何処にいるの!」

 様子がおかしいと気付いた近くの部屋の住人らしきクラゲ達が大慌てで荷物を纏め、外の公園へと逃げ惑ったり、携帯電話で慌てて消防の要請をしたりと辺りがてんやわんやになりつつある中、未だ開かない目の前のドアにどうする事も出来ないまま自分と幼馴染らはただただ立ち尽くしていた。ボンボンニットを深く被り、自慢の腕っぷしで無理矢理抉じ開けようとするも、一応ガール(結構失礼な言い回しだが表現としては正しい)でもある彼女の力を持ってしてもさすがにびくともせず、どうにかならないかと二人で勢いを付けながら体をぶつけるも鉄で出来たドアは一向に開く様子はない。

「くそっ! このままじゃ、二人共死んじまうぞ!」
「リン、聞こえるか! 早く、開けてくれ…頼む、聞こえてるんだろう! リンッー!」

 縋るような思いでドアを叩き叫び続ける幼馴染の姿があまりに辛く、他に中へ入る方法はないかと必死に模索していたその時だった。いつの間にか姿を消していた知人が何か細いものを手にしたまま、涙目の幼馴染のすぐ隣り、鍵の掛かったドアノブの真下へ駆け寄っては滑るように腰を下ろす。

「だ、ダビデさん?」
「ちょーっと、話し掛けないでくれるかな…多分、上手くいく」

 銀色の細い針金のようなものを指先で摘まみ、ドアノブの真ん中に空いている鍵穴へ器用にもそれを挿し込むと、中を覗くように目を細めながらがちゃがちゃと音を立て穴の奥をなにやら穿り始めている。まさか、と声を掛ける間もなく、ドアの奥からがちゃりと明らかに解錠された音を耳にした。

「よっしゃ、きた!」
「おぉっ〜! ダビデさん、すごいなぁ」
「ピッキングして喜んでんじゃねぇ、アホ! お前も褒めるな!」
「仕方ないだろう、緊急事態ってヤツだし。いやぁ〜コソ泥やってて良かったね!」

 どう考えても、良かったね、ではない。
 さぞ自分はやってのけましたとでも言うように、自慢げな表情で言ってのけた知人に対し実に腹が立つも、緊急事態であるから仕方ないという事に関しては一理ある。閉ざされていた部屋の中で一体何が起こっているのか、早急に確かめるべく幼馴染が慌ててドアノブを捻り押し開くと、外へと漏れ出した白煙がどっと外へと溢れ出し、両腕で掻き分けるようにクツを履いたままずんずんと前へ進んでいく彼の背を必死に追い掛ける。

「おい、気を付けろよ!」
「分かってる…!」

 看板娘の姿を確認したいばかりに気が逸る幼馴染が、溢れる白煙の中へと姿を消していく様子が動悸を激しくさせ、体内に煙が入らないよう、手で口を覆いながら彼が踏み入れた奥の居間へと数秒遅れて辿り着いた。

「…っ、リン!」

 腰を落とし、必死に何かを抱き留める幼馴染の胸の中にいたのは目を閉じ呼吸の浅い、明らかに意識のない衰弱していた看板娘だった。すると、少し遅れて後から追ってきたこんがりニットが彼の傍へと寄り添い、オレンジ色の頭を優しく撫でて涙声になりながらも必死に彼女の名前を呼び続けていた。

「リンちゃん、しっかりせい!」
「…お願いだ、目を覚ましてくれ! 頼む…!」

 このまま煙が充満している部屋に居座っていれば自分達の命さえ危ない。辺りを見渡せば先程別れたばかりであった、どうやら既に意識がないのか、力なく横たわる看板娘の母親を咄嗟に抱きかかえ、未だ座り込んだままの二人の傍に腰を下ろした。そして、小さな体を胸の中で揺らす幼馴染と涙目で看板娘を見下ろすこんがりニットに声を掛けようとした時、白煙に塗れる中で微かな声が聞こえたような気がして咄嗟に耳を澄ませた。

「…マゴ、に…」

 ゆっくりと細く開いた瞼と、その隙間から見えた薄いピンク色に思わず何度も名前を呼ぶも、彼女の意識はふわふわと浮ついていつまでもはっきりしないままでいるように見えた。

「…! あぁ、リン…良かった…!」
「あっ…、あた、し…なんで…?」

 弱々しく幼馴染の腕を掴み、こちらを見上げる看板娘の表情は今にも遠くへ行ってしまいそうに思える程生気がなく、それどころか彼女自身も何かを諦めるように肩を落とし、母親を抱き上げる自分の方へ視線を向けたかと思えば、煙に巻かれた小さな涙がぼろぼろと頬を伝い見えない床へと落としては消えていった。

「行か、なくちゃ…ママと、一緒に、パパのとこ…!」
「何を、言って…」
「一人ぼっちは、いや…! あたしを、置いていかないで…お願い、ママ…!」

 その瞬間の彼女の言葉を耳にした幼馴染の悲しそうな表情が、何故だかくっきりと脳に刻まれてはしばらく頭から離れる事はなかった。

(やっぱり、自ら死のうとしていたのか、この二人は…!)

 居間の中心に置かれたコンロとその中で燃え盛る山になった木炭。日常生活には必要のない二つが予め用意されていたとなれば、理由は分からずとも元々そのつもりだった事は否めず、そこから溢れ出る白煙に呼吸を許されないまま今にも意識が遠のいてしまうまで時間の問題だった。
 この部屋で二人が何故自殺を図ろうとしたのかは本人達でなければ分からない事だったが、今はその命を繋げるだけを考える以外に余裕などなく、全ての力を振り絞って母親の元へと身を乗り出した看板娘を必死に抑え付け、しかし咽び泣きながら叫びを上げる彼女の姿を直視できる者など誰ひとりおらず、このまま留まっていては命を落としかねないこの部屋から脱出する事しかままならなかった。

「くそっ…いつまでもこんなところでのんびりしてられねぇぞ!」

 煙だらけの部屋に蹲っていては、意識のない二人どころか助けにきた者の命もこのままでは危うい状況に陥ってしまう。少しでも新しい酸素を取り入れようと、閉めきった窓を全開にしながら未だ座り込み動けないままでいる幼馴染へ叫ぶように呼び掛けた。

「マゴ! さっさとそのバカ連れて外に出ろ!」
「おっちゃんの言うとおりだよ! はよ、急がんと!」

 落胆するように肩を落とし、再び意識を失った看板娘を胸に声を震わせる幼馴染の腕をこんがりニットと共に掴んでは、無理矢理その場に立たせて背中を押し出すように部屋の外へと連れ出すと、玄関口で待っていた知人が担架を持ったインクリングを先導して玄関の目の前で待っていてくれていた。

「よし、なんとか助かっ…」
「マ、マゴのおっちゃん!」

 ようやく抑えていた口元を解放し、こんがりニットと共に看板娘をしっかりと抱えた幼馴染が外へと飛び出した直後、朧気な灰色の瞳が自身の視界に映り、ふらりと体が崩れ落ちるように沈んでは倒れゆくその細い体を、目の前に立っていた知人が咄嗟に受け止めていた光景に思わず息が詰まった。

「マ、ゴ…?」

 目の前で起こっている事がすぐには理解出来ず、思わず見開き、幼馴染の体を必死に支え声を掛ける知人とこんがりニットが、幼馴染の腕の中からずり落ちそうになった看板娘を先に担架へ乗せ、続けて名前を呼ぶも反応を見せなくなった幼馴染の傍へ駆け寄っては、必死に体を揺らして何度も何度も声を掛け続けた。

「おい、マゴ…マゴッ! 何やってんだよ、お前は…! 目ェ覚ませよ、このアホ!」

 胸元はゆっくりと上下しているも掛けた声に返る言葉はなく、額に酷く冷え切った汗を流しながら浅い呼吸を繰り返しては、握った手のひらにさえ込められた力もついには抜け落ちてしまっていた。ずるりと体の脇へ落ちたその手を必死に握り締めながら、看板娘とその母親が運ばれていったヒラメが丘団地の外へ停めてある救急車の中へ、その後を追うように未だ目が覚めない幼馴染を抱きかかえながら勢いよく乗り込んだのだった。


***


 目が覚めたのは看板娘を胸に抱きながら眠るように意識を失った日の翌日の朝だった。どうやら、情けない事に部屋の中で倒れていた二人と共に近くの病院に運ばれた自分は、またもや幼馴染に相当な心配を掛けるような事を仕出かしてしまったようで、目が覚めた直後に自身の右腕を握り締めながら、ベッドサイドの椅子に座り腕を伏せ眠るその様子にそっと頭を撫でようとした瞬間、がばりと起き上がった上体が油断していたところで強く抱き寄せられ、息が出来なくなりそうになる程に締め付けてくるものだから元も子もない。
 隣りに並ぶベッドを見渡すとどうやら同室に二人も運ばれてきていたらしく、すやすやと眠る看板娘とそのもう一つ奥のベッドには彼女の母親が静かに横になっていた為、どうやら全員命だけは助かった事を理解してはそっと胸をなで下ろした。
 思っていたよりも時間が経過しているらしく、幼馴染から話を聞くからにあれから救急車で病院へと運ばれた後、未だ目を覚ましていない二人が引き起こした、ヒラメが丘団地の部屋の中で起きた白煙騒ぎは警察の調べによるとどうやら予想していた通り、一家心中と思われる自殺未遂であったと幼馴染とダビデさん、そして焼きイカちゃんがその話を聞かされていたようで、想像していたとはいえ、本当にそのつもりだったと事実を明確にされてしまった事の悲しみに胸の奥が酷く痛んだ。

「とにかく、二人から話を聞く他ねぇだろ」

 あからさまに肩を落としているところを見られてしまい、小さく溜息を吐きながら腕を組み眉を潜める幼馴染の気遣いに、気分は晴れずともその言葉の通り、とにかく彼女達が無事に目を覚ましてくれる事を心の中で願う事にした。
 そして、次の日の昼。呑気に味気ない病院食を口にしながら、お見舞いに来てくれた焼きイカちゃんと雑談をしていた時の事だった。

「…っ!」

 ふと身じろぎ布団が擦れる音を耳にして、咄嗟に隣りのベッドへ視線を向けると、唸り声を上げながらゆっくりと身を起こす、どうやらまだぽんやりとした意識のままの看板娘と目があった瞬間、慌てて布団から飛び出してはその小さな体を力強く胸の中へと閉じ込め掻き抱いた。

「リン、こっちを見ろ! 俺が分かるか?」
「あっ…。あ、あぁ…マゴ、に…! ごめん、なさい、ごめっ…なさ、っ」

 薄く濁っていたピンク色がようやく覚醒したかと思った瞬間、ぼろぼろとその大きな瞳から零れる涙を自身の胸元へと堪らず押し付けた。ひくひくと震える体に温かなぬくもりと規則的に振動する心臓の存在が心の底から喜ばしく、もう二度とこの手を手放すまいと言わんばかりに気が済むまで力を抜く事はなかった。
 すぐ傍でその様子を眺めながら苦笑する焼きイカちゃんを余所に、ようやく互いに身も心も落ち着きを見せ始めた頃。買い出しを頼んでいた幼馴染とダビデさんがちょうど病室へと戻って来たものの、目を真っ赤にさせるまで泣き腫らしてしまった看板娘に、話をするのは少し休んでからにしようと提案するも、頑なに首を振り話をするのをやめようとしなかった為、手渡された抹茶アイスを皆で頬張りながら静かに彼女の言葉に耳を傾ける事にした。

「…で、だ。まず、何であんな事になっちまったのか、だよな」
「ヨ、ヨリ…あまり強く言わないであげてよ」

 外出前はそうでもなかったはずなのにどことなく苛立ちを隠せないでいる幼馴染は、どうやら買い出し中に二人で一悶着起こしていたらしく(本人達曰く、いつもの事らしいが)、ダビデさんは特に気にしていないのか、しらっとした表情のまま、うんうんと頷きながら看板娘の話を親身になって聞いてあげていた(その横で呆れ返った焼きイカちゃんが横目で二人を見ながら溜息を吐いている)。そんな中で一人、寂しそうに肩を落としながらたどたどしい声で話す看板娘は、顔の両脇にだらりと垂らした髪の先をぎゅっと握り締め戸惑いながらも話を続けた。

「…あたし、ママの事、ちっとも分かってなかった。本当はママがあたしを好きじゃなかった事も、パパがいなくなっちゃったのが、あたしのせいだった事も」
「どういう事、かな」
「ママが好きだったパパを、あたしが取っちゃったから。だから、全部あたしのせいなのっ…」

 彼女が本当は声に出して言いたくない気持ちを抑え付けながら、必死に言葉にして伝えようとする姿勢に心が痛むも、それを止めるのではなく受け止めてあげる事が今自分が彼女にしてあげられる唯一の優しさなのだと思えた。
 看板娘の母親が銭湯へと迎えに来たあの日。これからの日々を共に生きるのではなく、たった一人の家族であった娘と亡くなった夫の元へ行く為に心中するつもりだった事。そして、看板娘の父親が娘に対し親としての愛情以上にまた別の思いがあった事に気付き、このままではいずれ娘に危害が及ぶ、そして二人がそのような意味で通じ合う事を恐れた彼女の母親が、どうにかして引き離そうと力ずくに離婚を申し立てた事。そのショックで父親が自殺してしまった事。自分や幼馴染に会う前に、二人で一度、既に自殺未遂を起こしていた事。
看板娘の誕生日に贈ってあげた、首元に掛かるロケットペンダントを握り締めながら全てを話してくれた彼女の表情は、いつまでもどこかに暗い影を残したままだった。

「…リンちゃんは、知らなかった? その…パパの事」
「ママがパパとお別れしちゃってたのも、あたし、知らなかった。遠いところでお仕事してるってママに言われてて、ずっとお部屋の中から出た事もなかったし、あまり困らせたくなかったから、それ以上は何も聞かなかった」
「……問題は、こいつの父親が本当にそんな気持ちを持ってたのかって事だな。ンなもん証拠なんて残らないしよ、幼女だって別にセクハラされてた訳じゃねぇんだろ?」
「う、ん…すごく優しくて、いつも忙しいのにお休みの日は必ず遊んでくれてたよ。あたしの、自慢のパパだった」
「そっか…」

 父親の話をする彼女は少しばかり明るみを帯びていて、今この場にいる誰しもが彼女は嘘を言っていないと理解していた。すると、奥のベッドで眠っていた看板娘の母親がゆっくりと上体を起こし、それにいち早く気付いた焼きイカちゃんが今にも倒れそうになっていた彼女の体を支えてやると、無理はよくないと眉尻を下げ声を掛けるも首を横に振り、どうにか布団から出した足を床に付けベッドに腰を下ろした彼女は、今までの話を聞いていたのか深く頭を下げたままその陰の中でぽろりと声を零したのだった。

「…この度は、本当にご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした」
「ま、まだ目が覚めたばかりでしょう。もう少し、休んでいた方が…」
「…本当に、ごめんなさい。全て私の我儘で、リンも、あなた方にも、たくさん嫌な思いをさせてしまった。けど、」
「…ママ、だめだよ。それ以上は、やめて」
「これだけは…はっきり言える。あの人は本当に、リンの事しか考えていなかった。私の事なんてもう、どうでもいいって、そう思ってたはずなの。だから…!」
「違うよ…それは、絶対に違う」

 看板娘の母親が項垂れながらそう吐き出している中で、その言葉を遮るように放たれた、意外な人物の力強い自信に満ち溢れた声に誰しもが驚き彼女へと目を向け、その先で真っ直ぐに刺しこまれたピンク色の視線は有無を言わせない程にしっかりとした声色で看板娘の母親へと放っていた。

「きっと、あの人も生きたかったんだと思う」
「何、ですって?」
「自分の子供に愛情を注ぐのはそんなの当たり前で、でも、自分自身でもその一線を越えてしまっている事に気付いてしまったから…。たとえそれで離れてしまったとしても、きっとずっと応援し続けようって思ってたはずだよ」
「焼きイカちゃん、君…一体、何の話を…」
「…今まで、母さんにも秘密にしてきた事。あの人は…アタシの父さんは、亡くなる寸前までずっと手紙を送ってくれてたの」

 静かになった病室の中で、顔を伏せるようにぶかぶかのボンボンニットを前へずらし、ジップアップグリーンに隠れてその存在さえも知らずにいた銀色でシンプルな楕円の形をしたロケットペンダントを手のひらの上に取り出した。かちりと音を立て、開けたその中に入っていた写真らしきものを看板娘の母親が見たその時、わなわなと震えた手のひらで俯けていた顔を嘆く声を上げながら包み込み、再び首元へそれを掛け直した焼きイカちゃんはそっと目を伏せたままでいた。

「…やっぱり、そうなんだね」
「おい、どういう事だ。ちゃんと説明しろよ、こんがりニット!」
「もしかしたら、って…ずっと、思ってた。初めは信じられなかったけれど、もう、間違いないみたい」
「焼きイカちゃん…?」

 すうっと深く息を吐きながら、ぼりぼりとボンボンニットの上から頭を掻く焼きイカちゃんはどこか吹っ切れている様子で、困ったような表情を掲げながらもにっこりと口角をあげると、予想だにもしていなかった事実をいとも簡単にぽろりと全員の前で零したのだった。

「…アタシとね、リンちゃん。お父さんが、同じ人みたい」
「な、なんだって…!?」
「でも、お母さんは違うよ。だから、アタシはこの子の腹違いのお姉ちゃんって事」

 全員が驚きを隠せないままに何も言葉が出ない事を察すると、彼女は寂しげな表情を掲げながらゆっくりと話を続けてくれた。
 焼きイカちゃんの両親は彼女が小さな頃に離婚をしていて、その時は病死していると母親に言い聞かされていた事、そしてハイカラシティで一人暮らしを始めた頃に一度だけ父親から連絡を受けて本当は生きていた事を知り、こっそりと二人で会ってはその度に隠されていた事実を教えてもらっては、それ以来定期的に手紙を送ってもらっていた事。そしてつい先日、看板娘のロケットペンダントの中に入れられていた写真を見て、彼女との意外な繋がりを知ってしまった衝撃を受けるも、全てを自分の目で確かめる為にダビデさんと行動を共にしたという焼きイカちゃんの話はあまりに突拍子なものだったけれど、その真剣な表情に嘘を付いているとは到底思えなかった。

「…お父さんがお母さんから離れちゃったのは、あなたが離婚しようと思った理由と同じでした。アタシの事、そういう意味で好きになってしまって、どうしても距離を置く以外諦める方法が思い付かなかったって。アタシだって、初めはそんなの信じられなかった。だって、今までずっと家族を捨てたかっただけなんじゃないかって思ってたんだもん。でも、涙を流しながら話をしてくれたお父さんの言葉が嘘じゃない事はすぐに分かったよ。だからアタシは、心の底から嫌いになんてなれなかった。だって、お父さん、お母さんの事、今でも大切に思ってるって言ってくれたからッ…!」
「嘘…でも、だからって…私の事まで、そう思ってたとは限らないじゃない!」
「そんな事、絶対ないんだ…! ほら、ダビデのおっちゃん! アレ、まだ渡してないでしょ!あぁもう、ちゃっちゃと持ってこんかい!」
「はいはいはいはい、今出すところだったんですよ〜っと」

 ぷんすかと頬を膨らませながら怒っている焼きイカちゃんに、まるで尻に敷かれている旦那のようにダビデさんがウェストポーチから何かを取り出しながら看板娘の母親の前へと駆け寄り、そっとその場にしゃがみながら手渡したきらりと光る小さなそれは、どうやらシンプルなシルバーリングのようだった。
「こ、これは…!」
「…ちょっと手を回しましてね、亡くなった彼が左手の薬指にこれを付けていたそうですよ。…十分、この子が言っている事の証拠になると俺は思いますがね。まぁ、捉え方は人それぞれでしょうが」
「ママ…それ、もしかして」
 パパの結婚指輪、だよね。
 そっと母親の隣りへ座った看板娘がそう零した時、ぽろぽろと大きな雫を目元から零した彼女はただただ何も言わずに延々と嗚咽を上げながら肩を震わせ泣き続けていた。
 鼻を啜り声にもならないような、耳を澄まさなければ聞こえない程のとても小さな声でありがとうと頭を下げながら。
 そして、その数十分後。
 一度パンクしそうな頭を冷やしてくると言って病室を出ていこうとするダビデさんの背を追うように、どことなく居心地が悪いのか、ベッドサイドの椅子に腰を下ろし珍しく静かに話を聞いていた幼馴染も自分の肩をぽんと一度叩いては共に外へと出て行ってしまい、部屋に残されたのは自分と焼きイカちゃん、そして看板娘とようやく落ち着きを見せた彼女の母親だけだった。

「…あの、すみません。お体の調子、悪くなっていませんか?」
「いいえ、平気です。…こちらこそ、お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした」
「いや、その…俺も二人にそんな繋がりがあったなんて、知らなくて。焼きイカちゃんも、もっと早く教えてくれたら良かったのに」
「そんな事言ったって仕方ないじゃんか。アタシだって、それに気付いたの最近だったし、その…確信も、なかったから。みんなには黙ってて悪かったとは思ってるけど、うん…。ごめんね、リンちゃん。急にこんな事言われても嫌だよね」

 あまりの急な展開に誰一人付いていく事の出来なかったところもあり、正直話の内容を理解するだけで精一杯だったせいか、すっかり看板娘自身も頭を痛めていたようだったが、そんな焼きイカちゃんに掛けられた謝罪もものともせず、そんなそんなと首を横に振る彼女はやはり肝っ玉が据えているように見えた。

「焼きイカちゃんは何も悪くないよ。だって、あたし、嬉しいんだもん」
「え…?」
「ママとパパがいなくなって、これからずっと、一人ぼっちなんだって思ってた…。なのに、今ではこんなに大好きなひと、たくさんいるの。焼きイカちゃんも家族なんだって言われてあたし、嫌だなんてひとつも思わなかった」
「リンちゃん…」

 泣き腫らした真っ赤な目で、しかし何もかもから解放されたかのようににっこりと、まるで向日葵のような笑顔を照らす看板娘がいつか見た眩しさと重なって、思わず奥底から熱いものが溢れてしまいそうになった。
 言葉一つ一つに潜む優しさと心の強さにいつも助けられている自身を情けなく思うも、その光があるからこそ今の幸せがあると自信を持って言い切れるくらいには、自分にとっても幼馴染にとっても、看板娘である彼女が既に大きな存在になっているのは事実で。

「なぁ、リン」
「なに? マゴに…」
「君に、頼みがある。…一生の、お願いだ」
「うん…」
「もう一度…俺達と一緒に、生きてくれないか」
「えっ…?」
「みんなで手を取り合って、どんなに苦しい時も地を這いつくばって必死に生きるんだ。もう、今度は誰も一人じゃない。誰かが辛い時は、必ず手を伸ばしてあげられる。だから、頼むっ…もう、自ら死のうだなんて…思わないでくれ…!」

 今の自分にとって、その願いが叶うならこの命でさえも差し出せると思えた。でも、それでは何もかも意味がないという事を理解しながらも。
 堪らず声を震わせ潤んだ声になってしまったけれど慌てて乱暴に浮かんだその涙を腕で拭い取れば、ずっと母親の傍にいた看板娘が突然隔たりになっていたベッドをひとつ乗り越えて、自身の胸の中へ勢い良く飛び付いてきたものだから、慌てて両腕で受け止めるもそのまま腰を下ろしていたベッドへ押し倒されるように背中が沈んでしまった。

「あははは! 大丈夫け? マゴのおっちゃん」
「な、なんとかね…はは、は。もう、驚かせないでくれよ…リン、ちゃ…」

 顔を真っ赤に滲ませ、病衣の裾を掴んで顔を胸へと押し付けながら抱き着いてきた彼女ごとそのまま上体を起こそうとしたその直後。じんわりと真っ白の布の中へ広がっていく透明な沁みに、そっと微笑みながらぼさぼさになったオレンジ色の頭をそっと撫でてあげた。

「っ…まご、に…! あた…あたし、本当は…しにたくなんか、ながっ……う、うぅうっ」
「…大丈夫、分かっているよ」
「マゴに…や、ヨリぢ、焼きイカちゃんやみんなと、もっと一緒に生ぎ、たいっ! あたし、まだみんなとお別れなんて、したくないよぉっ…!」

 今まで周りの事ばかりを考えては我慢をしてきた彼女が、ようやく子供らしい正直な気持ちを打ち明けてくれた事、生きる事を捨て、また一人、大事な命が目の前で消えてしまわずに済んだ事がただただ嬉しくて堪らない。ひとつ間を挟むベッドの先で目尻を下げながら戸惑う看板娘の母親にそっと視線を送りながら、にっこりと口角を上げて微笑むと未だ固まったままの体を次第にゆっくりと溶け解していった彼女へ添えるように声を掛けた。

「…だ、そうです。いかが、致しますか?」
「でも、もう、私は…」
「お願いです」
「え…?」
「どうか、諦めないでください。あなたがどんな思いであったとしても、この子には、母親であるあなたが必要で、あなた以外の代役なんてこの世に存在しないんです。生きる理由がないと言うのなら…本当に大切な娘だと思っているのなら、どうか…この子の為に今を生きてくれませんか」
「…あ、アタシからもっ! どうか、お願いします…家族の一員、として」

 誰一人、彼女の周りで生きる人達を欠かしてはならない。それが看板娘にとっての幸せであり、自分達が彼女にしてあげられる唯一の事なのだから。焼きイカちゃんと共に彼女の前で深々と頭を下げ(内心、心臓の高鳴りが半端ではなかった)、どうにか了承して貰えないかと歯を食いしばりながら目を瞑った、その時だった。

「…へ?」

 くすくすと朗らかに微笑む声が漏れ、不思議に思った二人は同時にゆっくりと顔を上げると、目の前には初めて会ったあの日からまだ一度も見た事のない、まるでずっと背負っていた重たい何かからようやく解放されたかのような、優しさの滲む明るいきらきらとした表情が確かにすぐ目の前でふんわりと浮かんでいたのだった。

「…こちらこそ、不甲斐ない母親ですが。…娘共々、よろしく、お願い致します」

 もう、声は震えていない。
 引き継ぐように深々と頭を下げながらそう呟いた看板娘の母親と、つられてにっこりと笑顔になっていく焼きイカちゃんと看板娘が両脇から彼女を挟むように抱き着く様子に思わず苦笑を漏らしつつ、後ろを振り向き窓の外を覗いた先で視線の合った、缶コーヒーを飲んでいる幼馴染と煙草を吸っているダビデさんにそっと手を振ると、それだけで何かしらは伝わったらしい二人は、一度顔を見合わせた後に再びこちらへ視線を戻しては小さく手を振り返していた。




‐ ‐ ‐ ‐ ‐ ‐