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けだるいお姉さん

「愛さえ、愛さえあらば、何もいらない」
「あら厭だわ、何十年前のことを云っているの」

まるでコメディ続きのメロドラマの会話だ。実際に一時間前にその言葉を映像に流すために言った覚えがある。あと数分で忘れる台詞だった。
早々に唇を閉じて閉口したカフカに、クロロは面白そうに眼を緩め、三日月のように笑みを浮かべた。
美しい男だ。うつくしい、ではなく美しいのは打てば響く除夜の鐘の様に、どんとしたセンスや人間性が構築されているから他ならない。
サイケデリックな衣装さえも、この男がちょっと微笑めばサイケは弱気になって着こなされるほど従順な、ちょっとだけ派手な布になってしまうのだろう。カフカは唇につける部分だけが銀色になった胴回りの太い煙草をすっと取り出した。

「喫煙者か」
「ええ」
まずそうだな、とクロロは子供のように笑みを繕う。最近の子供さえそんなことをするのだから、ほんものの笑みというものがすこし解らなくなってきた。
クロロがカフカの所作――というよりは煙草の火のつけ方を、ジ……ッ。と観察するように眺めている。黒々と夜の海のような眼が半球むき出しになって、瞬きひとつしないという印象だ。
カフカはクロロほど他人に押し付けがましくないし、さほど押しが強いというわけでもなく、何となく居座りが悪くなって乱雑に火をつけた。
シュッと一瞬に燃えた橙色の炎がぽやりと揺らいで、あぶるように先端に火を附けつづければ、香ばしいとは云い難い無骨な匂がただよった。そのままとどまり続けるような強烈な匂だ。カフカがひく、と眉をひそめる。

「それ、苦いだろう」
「吸った事が?」
「パクが、一度だけ」

―パク。
カフカはその名前を聞いて、驚きに満ちていた。もう何十年も会ってはいない女の、省略された名前だ。世間ではそれを親しい友人が使用するとき、そして本人が肯定的に使うことによって愛称という。カフカはその愛称を口にしたことはない。この煙草と違って。

「変ね、パクノダ。喫煙者じゃないでしょう」
「するなら、フランクリンか、フェイタンあたりか」
「あと、フィンクスでしょうね、フランクリンは意外に彼女――確か、シ…――シズクを気遣っているじゃない」

「シズクにあったのか」
カフカは、けぶる視界の中で、白々しいと眼を細めた。その姿、その女の姿を見たのは今から三ヶ月前。プール附きの邸宅を占拠した幻影旅団クモの中にいたのをきちんと気付いていた。
「七面鳥を吸い取った子でしょ」
「はは、七面鳥なんて家にあるのか」
白々しく、もはや自覚的な自白だと思ったが、カフカはそこに食いつくことは無かった。

同郷であると以外に、カフカは彼らと余り話をしたことが無い。だから家を占拠したときは酷く当惑と、困惑で満ちていた。
かろうじて子供時代肩を寄せ合ったことのあるマチが(面影を残したまま)、「パクは着てない」といわれるまで白塗りの玄関で、宇宙爆発があったかのようにごみごみした部屋を呆然と見詰めているほかなかったかもしれない。それほど、衝撃的な光景だった。家に強盗が押し入るより遥かに衝撃だった。何せ、幻影旅団といえば、A級賞金首だからである。本当は、それだけではないのだが、それだけは、気付かない振りをした。

「カフカ、近くにホームがあるんだ。寄らないか」
「いいえ、この後仕事なの」
「モデルって、写真を撮って他には何をするんだ」
「あら、モデル以外にも女優をやっているのよ」
「へえ、そうなのか」

クロロの姿を横目で捉えておきながら、少しだけ右後ろに下がる。ふうと息を吐き出す。雨の日のアスファルトから立ち上るような匂が鼻を捕らえる。
「そうだ、」
クロロは立ち去る直前に問い掛けた。「ずっと聞きたかった」アスファルト舗装の上を弾かれて吸われる滴より透明に見える唇が音をなす。

「お前が出て行くとき、パクと何をしたんだ」

パク。また。もう一度。クロロは名前を愛撫し、読み上げるように呼んだ。今この場いない、記憶の中に存在し続ける名前。つややかに光るオブジェのような、そんな名前。カフカの意識は強制的に、アスファルトや次の仕事以外のことから離されて、醜悪な臭のものに引き戻されていった。


答えは―直ぐに思い出せた。思い出すというものではない。ずっと頭の中でリフレインして生きてきたのだ。容易いこと。

カフカはくわえ煙草を右手に取り、そのまま帰り際、クロロのくちびるに挟んだ。うっすらと驚くような眼をする。カフカはあの時のようだ、としみじみ考えながら奇妙にもそれが終始 俯瞰的で、甘くも切なくも無いのに気付いた。
「私たち、キスをしたのよ」

徒な告白に、クロロが硬直したのがわかった。過去、現在。どちらのことなのか、クロロには解りかねている表情だった。

201909/29

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