「修学旅行の写真、見た?廊下に張り出されてるやつ」
「見た見た!アレだよね、及川君と櫻井さん」
修学旅行も終わりちらほらと冬の足音が聞こえてくる中、修学旅行の時に撮られていた写真の販売が始まった。修学旅行中は写真屋のプロのカメラマンが卒業アルバム用にと一緒について周り、至る所で生徒の写真を撮って回っていた。それの多くを希望者に販売すると言う事で、うちの学校は廊下に張り出された写真の一覧を見ながら振られている番号を事前に配られた封筒に書き、その中にお金を入れて期日までに担任へ渡すという決まりになっている。
それぞれが休み時間や放課後などの時間にどんな写真を撮られていたのか目を輝かせて見る中で、一枚の写真が波乱を呼んでいた。
「三組のみっちゃん、これ見て泣いてたらしいよ?高尾君とも回ってるの見たのに、って」
「うわ、櫻井さんて全然そういうの興味ないと思ってたのに、及川君と高尾君狙ってたって事?」
「及川君と高尾君モテるし、回りたい女の子沢山いたのにね」
その写真は、パークが閉園する時間帯。パーク入り口で五人くらいの女子が集まって撮っていた写真の中に、及川と櫻井が二人で歩いている様子が写ってしまっていたのだ。
とはいえそれは、本当によく見ないと本人かどうかもわからないような小さなもの。
それでも、その女の子の一人が事前に及川を誘って振られていた事とか。カメラマンの流石はプロといった技術とかが相まって、結果として『櫻井律は同じクラスの高尾と回っていたのに及川に乗り換えるような女』という風に一部女子から冷たい視線を向けられていた。
写っていたことに驚きはあったものの何故そこまでその行動がエスカレートしていったのは、当事者の高尾の発言がバスケ部に広まってしまったことにある。
『自分と回るのがつまらないからって他の男に乗り換えるとか、ああ見えて最悪だよな』
というのも高尾自身櫻井の事が気になっていたわけで、修学旅行の途中櫻井と別れた後は同じ部活の男子と周っていたらしいが、その間ライバル視していた及川と行動していたとなると面白くない。
でも、櫻井に聞けば別行動を切り出したのは櫻井の方だがそれを高尾は承諾したとのことで完全に逆恨みである。
「櫻井さん、ちょっといい?」
部活に行こうとして荷物を持って教室を出ると、他のクラスの数人の女子が櫻井に声をかけていた。
「今から部活なんだけど、急用?」
「えっと………」
櫻井に話しかけた女子はどこか歯切れ悪そうにしていて、ここじゃないどこかで話したいという視線を向けているが、それにホイホイ従う櫻井ではない。世代交代もあり、春に新入生が入ってきたら夏なんてあっという間だ。冬の間にしっかり体力つけて、技術も上げておきたいのだと自主練習中に話していたのを思い出した。
「律、行こう」
そんな時、その女子とクラスメイトの春川幸《はるかわゆき》が珍しく櫻井を迎えにきた。
「……明日の昼、時間開けておくからその時でもいい?」
「あ、うん」
「わかった」
それだけ言って二人は体育館へ向かった。だが、櫻井を見てまたコソコソとある事ない事呟いてその場を離れる。
「何あの態度」
「上からっていうか、ほんと【孤高】だよね」
「それな」
女子というのは、どうしてこんなにも噂や色恋沙汰を大きくしたがるものなのか。及川でさえ修学旅行は楽しかった思い出として受け止めており櫻井同様バレーに集中している。本人たちがこれなのだから、つつかずにそっとしておけばいいのに。そう思いながらもどこか胸の奥がザワザワとして、悪い予感が消えずにいた。
* * *
「律、写真見たけど……及川と高尾と、何かあるわけではないんでしょう?」
「……むしろ、何かあると思ってる奴らが異常」
「……律ならそう言うだろうって、華が。だから噂とかすぐに消えると思う」
「……そう」
幸が珍しく教室に迎えに来たと思ったら、例の写真について。バレー部の他の子たちも噂に関して否定しているらしく、大丈夫そうだと安心していた。けれど、それも束の間だった。
「それで、用って何?」
昨日の放課後に言っていた通り、昼休みになった瞬間数人の女の子が教室まで訪ねてきた。あれこれ理由をつけられて連れてこられたのは人通りのない特別教室棟で、わざわざここまで来て話すようなことなのだろうかと疑問符を浮かべる。
「櫻井さんってそういう人じゃないと思ってたから、ノーマークだった」
「優しさに漬け込んで堂々と二股とか、何様なの?」
「………、」
日常生活で孤立しているのはもう慣れた。私は昔から話し下手で人見知りして、友達も上手く作ることができない人間だったから。
それでも、ここ最近学校で蔓延している噂について何も触れずに来たのは、数日でなくなるだろうとタカを括っていたから。
秋の大会も近い。夏の大会で無念な結果を残したから、ここに賭けているのだ。だから新しく主将になった華も副主将の幸も問題は早めに解決するに限ると手を尽くしてくれる。
それなのに、ここまで他人の噂に熱くなれるだなんてこの子たちは暇なのだろうか。顔はなんとなく見覚えがある。上履きの色が同じだから、同級生。でも、クラスも名前も知らない、初めて話すような人に、私の何がわかるのだろう。
「ちょっと、聞いてる!?」
「そうゆう態度、もっとどうにかしなよ!」
「櫻井さんの行動に迷惑してるって話してるんだけど!」
高尾君に誘われて、ろくに返答も出来ないまま流されてそうなった自覚はある。及川が何故私を誘ったのか、最後の数時間だけ私の手を離さなかったのかはきっと、一人でいる私を見逃せなかったのだろう。軽薄そうでいて、思慮深い。付き合った時間は短くても、中々濃い時間を過ごしているからか、嫌われてると思っていたけれど最近になって及川は私に心を開いてくるようになった気がする。
「高尾君のことも及川のことも、私は何とも思ってないから、安心して。人の恋路を邪魔するつもりなんて毛頭ないし……
だけど、どうして今日初めて話すような他人に、口出しされなきゃいけないの」
「はぁ!?」
「話逸らそうとしないでくれない!?」
「あんたが修学旅行の時あんなことしなければよかったのにって話なんだけど!」
「たかが噂でそこまで熱くなれるなんて凄いね。
それに、もう終わったことなんだから今そんなこと言われても困る。みんなが彼らと回りたかったから、二人から誘われた私が一人でいればよかったのに?
私が彼らを断っていたら、傷ついていたのは彼らの方なんじゃないの」
「何それ、自分は特別だからっていう自慢なわけ?」
「二人に誘われたからって、どっちの目もあるのに二人と時間を分けて回る意味もわからない」
「高尾君と及川君の事弄ぶのやめてよ」
ううん、困った。
一方的に私を悪者扱いする彼女たちの思い通りになりたくなくて反論したのが悪かったのか、熱が冷めてくれない彼女たちはもう私を負かすことしか考えてないみたいだ。
それから呼び出されることは少なくなったものの、やはり冷ややかな視線を浴びることは多くなり、どこにいても居心地が悪い。
「律、調子悪い?」
「……何かおかしいところとかあった?」
休憩中、それとなく華が話しかけてきた。練習は問題なくできているはず。そう言うと、華は体育館向かいの及川たちをぼんやりと見ながらドリンクを飲んだ。
「やっぱり、ストレス感じてるのかなって……
部活終わりに、及川君たちと練習してるって言ってたよね。噂の熱りが冷めるまでは、それも辞めたほうがいいんじゃない?」
噂が出回り始めた頃、華と幸に真実を問い詰められ、全て話しているのだ。ただ、及川と岩泉に関しては他言無用でお願いしておいたけれど。
華の言うことはもっともで、私のことを高尾君が悪く言っていると言うのなら、次は及川との繋がりを立てば良い。けれど、
「それは、嫌だなぁ………」
「!」
高尾君はどうでもいい。それでも、及川は。私達の繋がりはバレーだけだから、それすらもなくなると言うのは寂しい。
「ま、まさか及川君のこと「それは無い」……だよね」
スクイズボトルとタオルを置いて、グッと背伸びした華は長く息を吐いて私の方を見た。
「律が誰かに執着するなんて、はじめてじゃない?」
「そんなことない………と、思うけど」
「そう?でも、なんとなく優しい顔してるよ」
そう笑いながら話す華から視線を逸らすように前を向くと、ちょうどこちらを見ていた及川と目があった。
及川にも噂は伝わっているだろうに、彼からはそれに関しての話題を出されたことがない。それが余計に私たちの繋がりはバレーだけなのだと感じることができて、安心した。
二学期が終わり冬休みに入る頃、訪れようとしていた平穏は崩れた。
ヒートアップする恋する乙女どもに拍車をかけたのは、高尾君の発言だった。何を誰に言ったのかは詳しく知らないけれど、私と同じ噂の渦中にいる彼は私を誘った理由は『一人で可哀想だったから』だとぬかしやがったらしい。可哀想だなんて思われたくもないし、無理やり約束を取り付けたのは高尾君なのにとムカムカしたけれど、もう私が何言っても逆効果にしかならないよな。と黙ることにした。
「グッ……!ゲホッ」
お腹って、全力で蹴られるとこんなに痛いんだ。
そう思いながら、「いい加減にしなよ!」と罵声を浴びる。
もう聞き飽きた脅し文句にため息をつきたいけれど、そうするとさらに袋叩きにされるから飲み込んだ。
学校での噂はほとんど消えたものの、こういった一部の女子生徒から呼び出しをされることはまだたまにある。多分、誰かを痛めつけたいだけで、きっここれは正義でも嫉妬でもなんでもないのだ。
「ハッ……何?もう文句すら言えない?」
「はは、ウケる」
「高尾君の優しさに甘えて調子乗るからそうなるんだよ」
ああ、ウッゼェ。部活が終わり、自主練に行こうとしていたところを体育館裏に連れ込まれたと思えばいきなり殴られて。そこまでする気力がわからない。誰も来ないとも限らないのに。だって、ここはいつも三人で練習している体育館の裏だ。知らないとはいえ、いつもすぐに来る私が来ない。そしてここまで騒いでいたら……
「何、してるの………?」
ほら、来ちゃうじゃないか。
いつもの練習着にジャージを羽織っていた及川が、呆然とこちらを見ているのが彼女たちの影の隙間から見えた。
「お、いかわ……君!?どうしてここに」
「部活は終わったはずじゃ!」
「俺たち、いつも部活が終わった後練習しているからね。
それよりさ………ねぇ、何してるの?」
普段滅多に見ることのない真剣な表情でこちらを見る及川は、私を見ることはせずにまっすぐ彼女たちを見ている。そんな彼に気圧されて、彼女たちはさっきから何も言えない。
いけない。駄目だ。そう思って及川を止めようと立とうとしたものの、さっき蹴られたお腹が痛んで咳き込んだ。まずい。
「ち、違うの……!櫻井さんが「櫻井さんが、何?」っ」
こんな冷たい表情ができたのか、と思ってしまうほど及川がここまで怒った顔を見たことがなかった。動かないといけないと思うけれど、私も体がすくんでしまう。
「…櫻井さんのこと、君たちなんかより俺の方がよく知ってる。
だから、櫻井さんの意思は関係ないって、一目見てわかったよ。どうでもいいって顔してるからね」
「及川君っ、」
「どれだけ櫻井さんのことを聞かれようが黙っていたのはさ、俺たちにとってそんな噂はその程度だったからなんだよ。
誰と誰が付き合おうが、関係ない。
俺たちの間には、バレー以外無い」
どれだけ外見を褒められようと、女の子にモテようと、それを深く追求することはない。及川にとって外見なんて二の次で、試合の勝敗には関係がないことだから。
もう、彼女たちの話も聞く気がないみたいだ。わかるよ、他でもない貴方のことだから。でも。
「及川、そこで何………っ櫻井!?」
岩泉も異変に気づいたのか、事態が余計に悪化している気がした。
「テメェら何してんだ………!?」
「ひっ」
彼女たちの顔は蒼白で、それを睨む及川と岩泉は今にも飛びかかりそうだ。
「っ」
だめだ。手を出したら。
「やめて、及川っ………!」
「、」
お腹を抑えたままなんとか立ち上がり、及川と岩泉に声をかける。このまま手を出して大問題にでもなったら、私は。
「私は、大丈夫だから………っ!」
* * *
「どうして止めたの」
櫻井に乱暴していた奴らを置いて体育館へ戻ると、及川はまだ怒っている様で冷たく櫻井に言った。及川が怒る理由もわかるけれど、長年幼馴染みとして、相棒として隣に立っている俺でも、ここまで怒る及川は初めて見た気がする。俺も、まさか櫻井に止められるとは思っておらず、不服そうに反論した。
「俺達は櫻井を守ろうと………」
「それなら、今すぐあの子達を追って何を話しているのか聞いてくれば良い」
そう櫻井に言われて及川と目を合わせれば、俺たちは体育館を飛び出して校門まで走って行った。幸いなことにあいつらはまだ生徒玄関で話していたらしく、俺と及川は見つからないようにこっそりその会話を聞いた。
「さっきの及川君、めっちゃ怖かったぁ……」
「それ!岩泉とかマジゴリラじゃん!」
あいつら本当に懲りてねぇな…と怒りに任せて飛び出そうとしたところを及川に止められる。普段はこいつが俺のことを揶揄うのに、それはどうでもいいと言ったふうに続きを待った。櫻井は、何を危惧しているのか。何故止めたのか。それはすぐに知ることとなった。
「ほんと……何アレ。『大丈夫』って」
「悲劇のヒロイン気取りかよ!」
ケラケラと笑う彼女たちの声に、俺は呼吸が止まったかと思った。俺たちは櫻井を悪く言う奴も痛めつける奴も許せなくて。だから噂が出回ってからも所詮噂だと思い過ごそうとしていた。
だけど、これは。
「……岩ちゃん、戻ろう」
「は?」
櫻井を気にかけていて、噂の渦中にいる及川が一番怒っていて飛び出して行ったのに。なんなんだよ一体。そう思いながら体育館へ戻ると、ステージに寝そべっている櫻井がいた。今日は練習する気もないから別にいいけれど、櫻井は扉が開く音に反応してゆっくりと上体を起こした。
「……もう、ずっとだよ。華と幸を中心に噂を消したのに」
「……っお前、あいつらこのままにしていいってのか!?」
櫻井は何も言わずに俺を見つめ返すだけだった。
だって、こんなのないだろ。櫻井は何も悪いことをしていないのに、あることないこと言われて噂に踊らされた連中に痛めつけられて。同じクラスだからこそ彼女を取り巻く空気の変化に気づいた。
手を出すのは悪いことだと思う。それでも、動かないといけないことだろう。櫻井が、真っ先に。そう思っていると、及川は静かに櫻井に声をかけた。
「……櫻井さんの為にできることは全部したい。
だから、俺はどうしたらいいのか教えて?」
櫻井を真っ直ぐに見つめて言い切った及川もどこか悩んでいるようだ。拳を強く握りしめて、悲痛そうにしている。そんな及川の言葉に、櫻井はグッと目をつぶって震えた声で言った。
「っ………何も、しないで。
私がどんな姿になろうと、構わないで。私は、二人が信じていてくれるなら、大丈夫だから」
「……わかった」
普段見せる気丈な姿のかけらもなく震えながら言う櫻井も、ひたすら怒りを堪えながら冷静でいようと応える及川も、俺は見ていられずに体育館を再度飛び出した。
クソが。なんでお前らがそんな顔してるんだよ。
俺はお前らとただバレーがしていたいだけだったのに。
喧嘩しながらも楽しそうにしている姿を見ていたかっただけなのに。どうして。
「高尾!!」
バスケ部の連中と帰ろうとしていた高尾を呼び止めて、ヘラヘラしているそいつの腹を俺は思いっきり殴った。
「い、岩泉……!?」
「っ何すんだ急に!!「お前こそ何してるんだよクソが!!」
俺が、何も考えずにこいつの話に乗ったのが悪かった。櫻井と高尾を結びつけてしまったのは俺だ。今はそれがどうしようもなく腹立たしくて、やってはいけないと思いながら手を出した。悪い櫻井。お前の願いを俺は叶えてやれない。
「はぁ……?何怒ってんだよお前」
騒つくバスケ部の連中に構わず、少しふらついた高尾を睨みつけた。櫻井が抱えた痛みは、こんなもんじゃねぇのに。
「本当に心当たりがないのか?」
高尾は黙りこくって視線を逸らすだけだった。櫻井たちが今どんな思い出いるのかも知らないで、その場を引っ掻き回していた自覚はあったらしい。それでも、それをここで自白する気はないようだ。
「………怒る気も失せた。
さっきの一発は、借りを返したってことで流してくれ」
「お、おう……!」
「それから、お前これ以上アイツらの邪魔するんじゃねぇよ」
「!」
高尾は一瞬目を見開いて、うなづいた。
「………信じるからな」
「いや、何二人で話進めてるんだよ!
岩泉!お前いきなり高尾のこと殴りやが「いや、いいんだ」……はぁ?」
バスケ部のやつは納得がいかないようだった。それもそうだ。高尾がサラッとついた嘘を広めたのはこいつらで、こいつらは高尾の友達でチームメイトだからこそそれを信じたのだろう。
「……謝っても許されねぇと思う。だけど、悪い」
ああ。櫻井がどう思おうと、俺はお前のことを一生許さねぇよ。高尾は本当に反省しているのか、「実は岩泉と遊んでて」などとうまくその場を収めていた。
* * *
二人は私を絶対に裏切らないって知っているから、大丈夫。
「っ………何も、しないで。
私がどんな姿になろうと、構わないで。私は、二人が信じていてくれるなら、大丈夫だから」
震えだす体と声を押さえつけながらそう言った。
私が今一番恐れているのは、二人がバレーをできなくなることだから。
怒りに任せて冷たく彼女たちの前に立つ二人を見た時、私はとても嬉しく思ってしまった。この二人は私自身だと。二人は私の味方だと、そう強く思ったから。
離れたくない。このままの関係でいたい。そのままというわけにはいかないのはわかっているけれど、それでも私は二人と一緒にいたい。そのためなら、これくらい大丈夫だから。
「……わかった」
静かに応えた及川の声を聞いた途端体育館を飛び出して行った岩泉の背中に目が熱くなった。きっと、私が思っているよりずっと大きい感情を全て押し殺しているのだろう。
腹が立つ。悔しくてたまらない。ここまで怒ってくれる二人がいるのに、何もできないことが辛い。
例えば、先生に報告することで事態を収束することはできるのだと思う。暴言を吐かれたり、体を蹴るって、立派な暴力だ。
けれど、そうしたら私が望んでいるこの時間がなくなってしまうと知っている。どんな痛みよりもそれの方が私にとっては嫌だった。
ステージに腰掛ける私の方に歩み寄った及川は、そのまま飛び乗って私の足を跨いで腰を下ろした。
「どうしようもないけれど、俺も嫌だよ。
櫻井さんが傷つくよりも、櫻井さんといられない方が嫌だ」
及川はそう呟いて、静かに私を抱きしめた。力強いな、少し震えてるな。そう思いながら及川の背中に手を回した。
「及川、痛い」
「ごめんね。ごめんっ……」
この時私たち三人が離れていればとか、反論していればとか、行動を起こしていればとか。後になって思うことはあるけれど、この出来事をきっかけにして日常《バレー》を失うことになるなんて微塵も思っていなかったし、それが悲しいと思える自分がいることも知らなかった。
それでも私は今のこの時間が大切で、及川と岩泉の事が大切で、後悔なんて絶対にしないという自信すらあった。もう二度と、こんな姿見せないと硬く決意して及川の背中を軽く叩いた。
「帰ろうか、及川」
「そうだね、櫻井さん」
そう視線を合わせて笑うと、いつも通りの私たちに戻れた。
この日にもう一度戻れるとしても、私はきっと同じ選択をする。
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